第18話 喰われたものの輪郭
東雲は書類の束を眺めていた。
事件簿。だが、半分以上は「未処理」ではなく「未記録」だった。
杉並の廃マンションで見つかった“皮膚だけの遺体”。
通常なら鑑識班が写真を残し、記録は警察内ネットで共有される。
だが、この事件に限っては――痕跡そのものがなかった。
報告書は存在する。
自分の机の中にも控えがある。
けれど、それを“上に提出しようとすると”、なぜかシステムが落ちる。
プリンタは紙詰まりを起こし、コピー機はフリーズする。
偶然、ではない。
東雲は、もう知っている。
(名を呼ばれなかった者は、“記録されない”)
電話が鳴った。
「生活安全課の受付に、奇妙な相談者が来ています。精神的に不安定かもしれませんが……“抜け殻の死体を見た”と」
その言葉に、東雲の手が止まった。
「名前は?」
「椎名美咲と名乗っています」
心臓が、わずかに打った。
聞き覚えのある名ではなかった。だが、どこかで見たことのある文字列だった。
「こちらに通せ」
数分後。
会議室の扉が開き、若い女性が一人、案内されてきた。
椎名美咲。20代前半。目の下に深いクマ、痩せた頬、指先の傷。
だが、目は濁っていなかった。
怯えてはいたが、理性は保たれている。
「座ってください。……話を聞きます」
彼女は短くうなずき、口を開いた。
最初は断片的だった。
夢か現実かわからないこと。
駅で倒れそうになったこと。
誰かに名を呼ばれたような気がしたこと。
その夜、体の内側で“何か”が変わり始めたこと。
東雲は一言も挟まず、聞いた。
途中、後輩がメモを取りながら耳打ちする。
「東雲さん、これ、オカルトですよ? 本気で――」
東雲はそれを無視した。
「……そのあと、ニュースで“抜け殻のような遺体”を見たんです。
現場の場所も、時間も、自分の感覚と重なってた。
だから、来ました。……私は、おかしいんでしょうか?」
その問いに、東雲はしばらく黙っていた。
彼女の言葉は、ひとつも矛盾していなかった。
恐怖はあっても、誇張はない。
語り口も落ち着いている。
むしろ――
(これは、“見た者の語り”だ)
東雲は手帳を開き、一枚のページを差し出した。
「……これを見てください。
数日前、自分が現場で拾ったメモです」
手書きの紙。
裏面にこすれたインクで、こう書かれていた。
『呼ばれなかった者へ』
美咲の表情が凍った。
「それ……私も、見ました。廃マンションで……同じ封筒の断片」
東雲は目を細めた。
これで確信した。
この女は、“名を喰う現象”に接触した者だ。
しかも――“戻ってきた者”。
「あなたが見たのは、偶然じゃない。
この街では今、“名を呼ばれないまま消えていく者”が現れている。
我々の記録には残らない。
だが……確かに、存在している」
美咲は言葉を失った。
目の前の刑事が、彼女の語った“狂気”を否定しなかったことに。
東雲は言った。
「あなたには、話してもらうことがある。
だがその前に、確認しておきたい」
机の引き出しを開け、数枚のスナップ写真を並べる。
街の監視カメラ映像から切り出した不鮮明な影たち。
その中の一枚を、美咲は指さした。
「……この人。見ました。
この髪、この輪郭――でも……顔が、思い出せない」
東雲の声が低くなる。
「それが“名を喰われた者”の特徴だ。
名前がない。顔が残らない。だが、確かにそこにいた。
……そして、“誰か”がそれを見せている。おそらく、意図的に」
「誰が……?」
東雲は写真の一枚を裏返した。
そこに、鉛筆でわずかに書かれた一文字。
『沙』
「この“沙”という文字を、あなたは見たことがあるか?」
美咲は、息を呑んだ。
「……ある。紙に、たった一文字だけ」
目が合った。
その瞬間、東雲は確信した。
――彼女は、沙月に“選ばれた”のだ。
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