第13話 失った者の代償

東雲は、自室の机の前でペンを握っていた。

 

資料は消えた。事件記録も、鑑識報告も、データベースからは跡形もなく削除された。

けれど、自分の頭の中には、まだ残っている。

あの現場の匂いも、血の温度も、抜け殻となった皮膚の感触も。

 

(なぜ、俺たちだけが覚えている?)

 

白神は、「関与の濃さ」と言っていた。

現場で“それ”を見た者、“その声”を聞いた者、“呼ばれた者”は、完全には忘れない。

 

だが、それでもおかしい。

メディアは一切触れず、SNSで話題になった形跡もすぐに消えた。

一般人の目撃証言はあいまいになり、報告を挙げても、上層部はまるで“そんな事件など初めから存在しなかった”ような顔をする。

 

まるで、**世界そのものが“事件を拒絶している”**かのようだった。

 

「記録されないということは、存在しなかったということと、同義なのか」

 

東雲は、紙のノートにその一文を書きつけた。

 

ふと、思い出す。

幼いころ、妹・アキが消えた日のことを。

アキの名前は、家族の記憶からも、アルバムからも、学校の記録からも消えていった。

だが、東雲だけは“名を呼んだから”忘れなかった。

 

(名前には、力がある)

 

人は、名を与えることで誰かを「存在として」認識する。

逆に、名を奪われれば、その存在は社会からこぼれ落ちる。

 

「名を持たない存在に、社会は目を向けない」

「名を持たない死は、死としてすら扱われない」

「名を呼ばれない者は、やがて世界から剥がされていく」

 

それが、この現象の正体なのかもしれない。

“呼ばれなかった名前たち”が、今もどこかで溜まり、沈み、滲み出している。

そしてそれは、名前を失った者に“代償”を求めている。

 

(俺たちは、その声に気づいてしまっただけだ)

 

だから、忘れない。

だから、まだ“人間のままでいられる”。

 

ペンを止めた手が、かすかに震えていた。

 

ふと、スマホが震える。

表示は、発信者不明。

東雲は、静かに通話ボタンを押した。

 

「……しののめ……」

 

それは、もう聞き慣れた“声”だった。

消えかけた者たちが、まだ誰かに名を呼ばれたいと願う――その想念。

 

「……まだ、間に合う」

 

東雲はつぶやいた。

自分に言い聞かせるように。

そして、これから“名を呼ばれるはずだった誰か”の物語が始まろうとしていることを、確かに感じていた。

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