【花天月地】

七海ポルカ

第1話【再びの風】




 淩公績りょうこうせきは執務室の机で書類と向き合っていた。


 積み上げられた本が、別のものを取ろうとした手に当たって崩れると、彼は顔を顰めて盛大な溜息をつく。

 億劫そうに立ち上がり床に落ちた書類をかき集めて机に戻し、ふと庭先を見ると目にやけに緑が目立ち、彼は窓辺にゆっくりと歩み寄る。


 この一月あまり忙しすぎて、ろくに外の景色を見ていられなかった。


(でも、葬儀の時には桜が咲いていたから……)


 盛大な葬儀の間じゅう、桃の花びらが舞う中、じっと睫毛を伏せていた陸遜りくそんの横顔をよく覚えているから尚更深緑の季節の緑が、目に鮮やかなのかもしれない。


 季節が過ぎゆくことを感じる。

 淩統りょうとうは思い立って仕事を中断し、部屋を出た。


 建業けんぎょうの王宮も、様々なことが変わった。


 一番の変化は、志願兵がとても増えたことだ。

赤壁せきへきの戦い】の大勝利で、呉軍に志願する者が増えた。

 軍は、積極的にこういった者達を受け入れている。


 ――次なる戦に備えるためだ。


 次なる戦というのは。


(……相手はしょくになるだろうな)


 曹魏そうぎはいまだに強大だが、赤壁の戦いで蒙った損害は遥かにを上回る。

 呉同様、軍の再編に躍起になっているだろうから、すぐに行動を起こすということはないだろう。


 呉軍はとにかく、赤壁の戦いで壊滅した船の造船に明け暮れている。

 亡き、周瑜しゅうゆの立てた策は、船は消費しても水軍の兵たち自体はほとんどを温存出来ている。

 彼は生前から、すでに赤壁後の戦いすら見越していた。

 呉は造船に足りない資材や人手は、再編された軍の鍛錬も含み山越さんえつ域に遠征し、材木や捕虜を調達している。

 王宮の修錬場に集まって元気な声を張り上げているのは、まだ軍に組み込まれていない新兵達だ。


 淩統りょうとうも、かねてより任されていた自分の部隊にかなりの数の新兵を引き受けて鍛え上げている最中だ。

 今日も夕刻から部隊修錬の予定がある。

 各武将たちに多くの新兵が割り当てられたが、淩統は積極的にこれを引き受けた。


 ……今、何かをしたいと、強く思ったからだ。


 彼は武将である。淩統は内政にも才能を発揮したが、本職は軍人だ。

 国の為に尽くすなら、軍の為に何かをしたかった。


 こういう新兵訓練などは、以前は孫策そんさくが好んで引き受けていた。

 

 だが、もう彼はいない。

 呂蒙りょもうは今、魯粛ろしゅくと共に、孫権そんけんたちと今後の孫呉そんごの方針を決めることと、周瑜と孫策、そして黄蓋こうがいという大きな柱を失った孫呉軍全体の調整と編成を行っている。


 細かい修錬などには、彼らは時間が割けないのだ。


 赤壁の戦いが開戦する前までは、主に文官たちを中心とする不戦派の主張は強かったが、戦いが終わってからは彼らも以前のように軍の足を引っ張るのは止めたようだった。

 それは間違いなく――死ぬ瞬間まで苛烈に主戦を主張し続けた周瑜しゅうゆの姿を、多くの人間が目に焼き付けたからなのだろう。


 引退を望んでいた韓当かんとうが軍に呼び戻され、黄蓋の穴を埋めた。


 周泰しゅうたい陳武ちんぶ徐盛じょせい朱然しゅぜんなどという者たちが山越討伐軍を率いて遠征している間、王宮で新兵の調練を任されているのは淩統、丁奉ていほう駱統らくとう甘寧かんねいらである。

 

 孫権からの指示を受け文官たちを取りまとめる役は、張昭ちょうしょうが担い、その補佐に赤壁の戦いで周瑜を補佐した諸葛瑾しょかつきん虞翻ぐほんがついている。


 ……いや、もう一人。


 陸伯言りくはくげんも、周瑜亡き後の孫呉において、重要な役を任されていた。

 彼の立場は非常に特別なものだった。

 諸葛瑾や虞翻と違い陸遜りくそんは剣もかなり使うので、戦時は武官として戦場に立つ。

 軍師の一人として、上層部の軍議にも必ず招聘される。

 平時は王宮で文官を取りまとめていた。

 

 ……丁度周瑜が、そういう役回りを引き受けていた。


 彼は戦場に置いては軍師として戦術を練り、自らも戦場で剣を振るい、指揮も執った。 

 もし次の戦が始まれば、恐らく魯粛ろしゅくよりも武官の才がある呂蒙がそういった地位に収まるのだろうが、これは決して呂蒙りょもうを貶める意味ではなく、剣の才で言えば、淩統りょうとうの目には呂蒙よりも陸遜の方が武芸に対して天賦の才があるように映る。


 それに、陸遜は大戦の指揮は未経験だが、軍師としての才も呂蒙より上だ。

 これは呂蒙自身にも、以前淩統は言われたことがある。


 彼はまだ「陸遜りくそんは未熟だが」と前置きをした上で、いずれ陸遜は孫呉軍において重要な役目を負うことになるはずだと言っていたのだ。


 陸遜は周瑜しゅうゆを崇拝していたので彼より前に出るということは今までに無かったが、今この孫呉を包み込む、風――。


 赤壁の戦い直後は悲しみに沈んでいた空気が薄れ、花の目覚める息吹と共に、武将たちには周瑜と孫策そんさくを失ったのだという自覚が芽生えた。


 自分たちの手で、孫呉を守って行かなければならないという。


 その中で未だ才能を眠らせる陸伯言は、天剣てんけん智謀ちぼうにおいて、最も周公瑾しゅうこうきんの流れを色濃く汲む存在だと彼は思うのだった。



◇   ◇   ◇



 扉を叩く。


 何度か叩いて、ようやく扉が開いた。


 今の今まで寝てたことが分かる、着崩した姿。

 淩統りょうとうは呆れた。半眼になる。

(皆、それぞれ変わってるってのに。コイツだけは全く変わらんな)


「なんだ?」


「なんだじゃねーよ。もう昼過ぎだろ。お前いつまで寝てるつもり……」


 つい口から出た不満を、寝ぐせ姿の甘寧かんねいに眠たげに聞かれて、淩統は深く息を付く。

 こいつに構ってる暇はないんだった。


「……いや。あのさ。……陸遜りくそん様、いつ建業に戻って来る?」


 陸遜の姿を、淩統はこの一月、見ていなかった。

 だから桃の葬儀の時の、伏目がちな横顔がまだ頭に残っている。


 彼が何度か、赤壁せきへき後、故郷の蘇州そしゅう、陸家本家に戻ったのは聞いた。

 陸家からも目ぼしい人材を何人か建業けんぎょうに召喚するつもりだったようだ。

 それからは軍議などに出ていたとか、人づてには聞いたが、彼は呂蒙りょもう達同様多忙なようで、城の中で見かけることが全くなくなったのだ。

 以前は彼の部屋や、書庫で作業をしている姿を見かけたのに、ここ最近陸遜の部屋は昼も夜も真っ暗なままで、彼がそこに戻っていないのは明らかだった。


「陸遜?」


 甘寧かんねいに陸遜のことを聞くのはいかにも淩統は気に食わなかったが、この際仕方ない。

 

 ……陸遜が姿を見せないもう一つの理由は、分かっていた。


 彼は仕事に忙殺されていると同時に、周瑜しゅうゆの死に心塞いでいるのだと思う。

 これは一部の人間しか知らないことだが【赤壁の戦い】と同時進行で、周瑜が陸遜に蜀の軍師、諸葛亮しょかつりょうの暗殺を命じていた。

 陸遜はその密命を受けて大戦の裏で奔走したが、結局孔明こうめいの首は取り逃がしたのだ。


 その途上で孫策そんさくを戦死させたことも、陸遜は強く気に病んでいた。


 建業に帰還した時、陸遜は憔悴しきっていて、淩統は声を掛けたかったが普段温雅で明るい表情を浮かべる陸遜の思いつめた表情に、さすがに軽薄な慰めの言葉を掛ける気になれなかった。


 陸遜は、きっとまだ立ち直れないのだろう。

 だが、孫呉には彼が必要だ。

 彼の才能が。


 建業けんぎょうには周瑜との思い出が山ほどあるはずだ……。


 彼と周瑜は特別な師弟関係にあったのだ。

 孫策も含め、彼がかつて陸遜の育ての親、陸康りくこうを討った存在であることも含めて、特別な因縁があった。

 陸遜は師として周瑜しゅうゆを強く慕っていたから、その想い出の詰まる建業にまだ戻る気になれないのかもしれない。

 

 淩統は、陸遜に会いに行こうと思っていた。

 自分に何が出来るのかは分からないが、必要としていることだけは伝えたかった。

 だから居場所を知っているであろう甘寧に会いに来たのである。


「うん……。お前なら知ってんだろ? 

 陸遜様、今はそっとしておきたいのも分かるけどさ。

 ……少しずつでも、歩み出さないと駄目なんじゃないかって」


 気持ちは分かる。

 淩統りょうとうも、父を戦で失った。

 欠落は大きく、彼は一年ほど、仕官する気力が戻って来なかった時期がある。

 陸遜は繊細な感性をしているから、きっと自分よりも深く傷ついているのだろう……などと淩統が勝手に気遣っていると、甘寧は相変わらず空気を読まず、どわ~っと隠しもしない大きな欠伸をしてから、顎で自分の後ろを示した。



陸遜りくそんなら、中にいるけど」



「あっ⁉」


 思わず大きめに聞き返していた。

「あいつ別にどこにも行ってねえし」

「どこにも行ってないって……蘇州そしゅうには?」

「あー、二回くらい本家の用事で帰ってたか。数日ですぐ戻って来たぜ。陸遜、あんま陸家に寄り付きたがらないからさ。夜のうちに戻ってたから、お前気付かなかったかもしんないけど」

「え。んじゃこの一月ずっと城にいたの?」

「いたよ」

 甘寧が呆気なく頷く。

 彼は扉を開けっぱなしにして、部屋の中に戻って行く。


「お~い陸遜、客が来たぞ。うるせーのが」


「ちょ、おい……」

 淩統りょうとうが慌てて甘寧の背を追えば、奥の部屋、執務室らしき場所に確かに陸遜の姿があった。

 彼は先程の淩統同様、積み重なる大量の書類を処理しているようだった。


 寛いだ部屋着姿で、あの戦場での凛とした真紅の軍服姿ではなく、ごく普通の青年のような出で立ちのままだ。

 彼はこちらを見ると淩統を見つけ、少しだけ小さく笑みを浮かべた。

 その微笑に、淩統は目を見張った。

「……淩統どの」

「話なら短めにしろよな。陸遜、俺の分の仕事もやってるから忙しいんだよ」

 淩統は瞬く間に険しい顔になり、腕を組んだ。



「……この一月、お前がミョーに暢気に前と変わらず悠々と暮らしてんなぁと思ってたけど。妙だと思ったんだよ。ここの書類が俺のとこに回って来ねえなんて」

 甘寧の笑い声が聞こえる。

「こいつほんとに優秀だよな。面白いくらいサクサク仕事処理してくれっから、ホント助かる」

「甘寧! てめぇ!」

「陸遜、俺は水浴びて来るしな。犬公いぬこうが五月蝿かったら適当に帰せよな」

 甘寧が声を掛け、去っていく。

「うるせえ! 誰が犬公だ!」

 淩統が怒鳴った。


 くすくす……と笑い声がして、淩統は執務机に座る陸遜にもう一度目を向けた。


 彼の笑顔が見れて、安心した。

 きっとまだ、彼は笑えないだろうと思っていたから。


「……すみません」


 笑みを止めて、陸遜は瞳を伏せた。

「私を心配して、来てくれたんですね」

「……いえ。貴方がここにいて仕事をしておられるのなら、どこでしようとそれはいいんです」

 淩統は答えた。

「……。すみません。仕事に忙殺されている時はいいんですが……ふとした瞬間に、酷く落ち込むことがあって。私が、甘寧殿に頼んだんです。執務室を貸していただけないかと」

「あいつは執務室なんかロクに使わないから、いいんですよ」

「はい……」


 陸遜は笑った。 

 ……だが、やはりいつもの陸遜の笑顔と何かが違う気がした。

 儚げなのだ。

 彼の笑みは温かかったのに今はどこか、空虚にも思える。


「すみません」


 陸遜はもう一度謝った。

「貴方の言う通り、……いつまでも落ち込んでいてはいけませんね。もう歩き出さなくては」

「陸遜様……」

「明日、部屋に戻ります。気を遣わせて、申し訳ありませんでした」


陸遜りくそん様」


 淩統は声を掛ける。

 琥珀の瞳と見つめ合った。

「陸遜様にとって、周都督しゅうととくが特別な存在であったことは俺にも分かります。

 特別な人の死は、特別な痛みです。

 無理に忘れようとしなくてもいいんです。

 貴方が立ち直れないなら声は掛けたかったですが、とっくに仕事に戻っておられるのなら、構いませんから」


「……ありがとうございます」


 陸遜は小さく、声を掛けた。

 それから手にしていた筆を側に置いた。


「淩統殿はこれから……なにか……?」


「いえ。私は単に息抜きに。夕刻には調錬がありますが少し煮詰まったので」

「それなら、少しその辺を歩きませんか?」

 淩統は目を瞬かせてから、笑んでみせた。


「喜んで」


◇   ◇   ◇


「……もう随分と庭は深緑ですね」


 建業の王宮の広大な庭を、ゆっくりと歩んだ。

 笑い声がしたので隣の淩統りょうとうを見上げる。


「あ、いえ……。俺も先ほど庭の景色を見て、随分緑が増えたなと思った所だったので」

 淩統がそう言うと、はは……、と陸遜も小さく笑った。

「そうでしたか。仕事に忙殺されていると、季節を見ることさえ忘れてしまいますね」

「ええ」


 葬儀の時の桃の花を思い出しているのだろうか。


 陸遜りくそんはこれから、桃の季節が来るたびに、周瑜しゅうゆを見送った日のことを思い出すのかもしれない。


 それは痛みだが、

 ……だがそれは悪いことではないはずだ。


 父を失った淩統はそう思った。



淩統りょうとう殿は……これから、世はどう動くと思われますか」



 しばらく庭を散策し、花菖蒲の咲く池のほとりの石段に腰を下ろすと、陸遜がそう尋ねて来た。

 淩統は灰色の瞳を瞬かせる。

 一武将に過ぎない自分などが、陸遜にそんなことを話していいのだろうかと思ったが、陸遜の琥珀の瞳は澄んだまま、じっ、と淩統を見つめて来る。

 答えを求められているのを感じ、淩統は遠慮しながらも話し始めた。

「そう……ですね……まずは決裂した呉蜀ごしょく同盟の後始末を、しなければならないことになると思います」

 陸遜は頷いた。

「曹魏はしばらくは動かないでしょう。赤壁の敗戦は、かなり長安ちょうあんでも深刻に受け止められているようですから」

「ええ」

「蜀は赤壁では、曹魏や孫呉ほどの被害を出していません」

「最も動くに容易いのは、蜀ということになります」

「兵力が温存されているというのなら、動くのは早い時期になると思いますよ。時間を掛ければ掛けるほど、魏も呉も赤壁の消耗から立て直しますからね……」

「孫権様も南郡なんぐん……江陵こうりょうの守備を特に急がせているようです」

「そうですか」

「……。江陵の側には【白帝城はくていじょう】があります。淩統殿は……姫はどうなるとお思いですか」


 そっと陸遜りくそんが聞いて来る。

 淩統は押し黙った。

 孫黎そんれいのことである。

 彼女は赤壁で呉と蜀が同盟を反故にした時から、蜀で虜囚の身となった。 


 孫呉はしばらく蜀とは接触を絶っていたが、孫策そんさくと周瑜の葬儀を行う時に、その名目で孫黎を返すように蜀に書簡を送った。

 予想したことではあるが、蜀からは返信すら返らなかった。


 それ以後、孫権そんけんも妹姫のことは口に出さなくなった。


 酷な言い方をすると、孫黎は呉蜀同盟の為に蜀の劉備に嫁いだのだ。

 周瑜しゅうゆの遺言により、破棄した同盟は以後、諸葛亮が存命のうちは決して取り戻さないということを遵守しなければならない。


 孫権は周瑜の遺言を一言一句違えず、果たすつもりだった。

 つまり……孫黎の呉における役目はもう終わったのである。


 蜀も、人質のつもりで彼女を成都に連れ帰ったはずだが、普通に考えれば今更孫黎そんれいを人質に、孫呉がいかなる要求にも応えないことは分かるはずだ。

 人質としての価値が無いと分かっているのなら人道的にも、葬儀の時に彼女を孫呉に返した方が、後腐れは無かっただろう。

 だが、蜀は彼女を返さなかった。


 陸遜はそのことで、彼女の現状の苦しさと――それよりも過酷なものになるであろう未来の気配を感じ取らざるを得なくなった。


 しょくに留まった所で、彼女に幸せな結果は訪れない。


 陸遜は教育係を命じられている孫登そんとうに、一度だけ「孫黎を呉に連れ戻してあげて欲しい」と頼まれたことがある。

 赤壁のあと陸遜も多忙であまり彼には会えなかったが、それでもご機嫌伺いに奥宮に会いに行ったことがある。


 周瑜の死について、彼は陸遜を労った。

 残念だったなと、少し近づいた瞳が見上げて言った。


 彼は赤壁の戦いの詳細を随分聞かされていたらしく、以前は無邪気で陸遜を困らせて遊ぶようなところもあったが、龐統ほうとうの離反や、周瑜、孫策の死、陸遜の身に起きた物事に明らかに彼は思うことがあるように、幼いながら気遣ってくれたようだった。

 そんな中で、出来ることならと付け加えて、彼は孫黎をどうか蜀から連れ戻してやって欲しいと願ったのだ。


 陸遜は「善処します」と答えた。


 孫登には、それで全てが伝わったようだ。

 もう、どうにもならないことが。


「……利用価値が姫にまだあると、蜀が考えてのことならばいいのですが」


 淩統はそう答えた。彼も孫黎そんれいはもう戻らないと覚悟を決めているのだろう。

 結局――彼女もこの戦いの犠牲者になるのだ。

 陸遜は目を伏せた。


 ……もう誰も失いたくないなどと願った所で。


 それが叶わないことはもう知ってる。

 あとは誰が失われて、誰が生き残るか。それだけだった。


「……孫権様は江陵を気にされていますから。

 近々、山越さんえつ討伐軍が帰還次第、南郡防衛用に建業から派兵するおつもりのようです。

 私は――もしお許しが出るのならば、そちらに行こうと思います」


 淩統は陸遜を見た。

 彼はじっと池の方を見ている。

 その柔らかい午後の陽射しに光る水面を。

 心を決めた顔に見えた。


臥龍がりゅうを殺せ』


 周瑜が命じたその命令を、陸遜は守るつもりなのだ。

 南郡方面が対蜀の最前線になる。

 諸葛亮しょかつりょうは劉備の軍師だから、彼が戦場の最前線に出て来るようなことは、ほとんど無いと考えた方がいい。

 唯一、その首を取れる機会が、あの赤壁の一瞬だったのだ。


 だが陸遜りくそんは仕損じた。

 彼の優しさや、誠実さが理由ではない。

 心を鬼にして襲い掛かっても、首を取れなかった。


 こうなったからには――腰を据えて戦場に立ち、いつか自分自身の力で【臥龍がりゅう】を戦場に引きずり出すしか、その首を取るための方法はない。


 陸遜は腰を据えて、戦をするつもりなのだ。


「南郡方面に志願されるおつもりですか」

「孫権様が許して下さるなら、そうしたいと思っています。

 陸家に戻り、陸績りくせきにもその話はしてきました。これからは彼が代理で陸家を取りまとめてくれるので、私は軍事に集中出来ます」


 静かな声で、彼は言った。

 もうそこまで心を決めていたのかと、淩統りょうとうは驚く。

 陸遜と陸家の仲が複雑だということは、淩統は呂蒙りょもうから事情を聞いていた。

 育ての親である陸康から委ねられた責務を、陸遜が必死に努めようとしていたこと、そしてそうすることで、彼自身は自分の存在理由を確かめられた。


 だが周瑜の命令がこうも容易く、陸遜を陸家の軛から自由にしてしまった。

 周瑜の与えた言葉が、息吹のように陸遜の中に、新しい存在理由を植え付けたのだ。



 諸葛孔明しょかつこうめいを殺すという密命が、陸遜に武人としての覚悟を決めさせた。



 淩統は目まぐるしく、考え始めていた。

 自分もどうやって南郡方面軍に志願しようかということを。

 彼は孔明にそれほど周瑜がこだわった意味は分からなかったが、陸遜がその首を狙うのなら、自分も共にそれを討ちたいと願った。


 大戦を終えたばかりで、まだ三国の形勢は見通せない。


 だが赤壁の戦いを生き残ったからには――もう後に退くなどという選択肢はないのだった。



◇   ◇   ◇



 蜀、成都せいと



「失礼いたします」



 趙雲ちょううんは声を掛け、部屋の奥に入って行った。

 寝室の大きな寝台には劉備りゅうびが寝ていた。

「薬湯をお持ちしました」

 控えていた宮廷医師が一礼し、部屋から出ていく。

「趙雲。すまぬ」

 劉備は目を開き、身を起こす。趙雲は彼が起き上がるのを助けた。

「ありがとう」

「お具合は、いかがでしょうか」

「うん、平気だ。大分いい……。すまんな、忙しい時期に」

 劉備に薬湯の入った椀を渡し、趙雲は側の椅子に腰を下ろす。

「どうかお気になさらず。諸将も、ゆっくり御静養なさるようにと言っておりますゆえ」

 静かな声で趙雲は劉備を労った。

「心労が色々おありだったのです」

「それは、みな同じだ」

「……我々武人は、思い悩むのは戦が始まる前までです。

 開戦すれば物思いなど吹き飛びます。ただひたすらに、戦えばいいのですから。

 ……陛下は平時も戦時も、民のこと、国の行く末のこと……常に想わねばならないのですから。時には心が疲れて当然です」


 趙雲という男は武人としても比類ないが、こうして内務にも意外なほど細やかな気配りをする青年だった。

 彼は心身ともに頑強だが、それは自分のこととして、他人にそれを厳しく求めるということを決してしなかった。

 厳しい局面では、必ず自分自身が身体を張る。


 それでいて、他人にも疲れや痛みがあるのだということを、決して忘れない。

 趙雲が蜀の兵達にも強く慕われ、信頼されていることが、戦場でなくともよく分かる。


「ありがとう。お前にそう優しい言葉を掛けてもらうと、少し楽になる」


 劉備はようやく、少しだけ顔に笑みを浮かべた。

 しかしすぐに、表情を曇らせる。


「……。孫黎そんれい殿は、どうしておられる?」


「……はい……。包み隠さず申し上げれば、沈んでおられます。自分のお立場はよく理解しておられるようです」

「そうか……」

 劉備は寝台に重ねられた枕に背を預けて凭れかかる。

「…………とても周公瑾しゅうこうきんや兄上が亡くなったことなど、伝えられぬ……」


 彼はしばらく目を閉じて押し黙ったが、話題を変えた。


孔明こうめいの補佐に置いた……龐統ほうとうの様子は?」


 龐士元ほうしげんは赤壁の戦いで孔明を救い、呉から蜀に降った。

 類い稀な軍師の才があるというが、あまり他と馴れ合わない気難しい性格をしており、関羽かんうなどは好いていないようだ。

 彼は口には出さないからまだいい、張飛ちょうひは突然取り立てられ、軍策に口を出すようになった龐統を快く思っておらず、度々生意気だ信用ならないなどと大っぴらに衝突している。

 張飛はそういう文句を孔明に言いに行くので、耐えかねた姜維きょういが龐統を成都から白帝城はくていじょうの方へやってしまった。

「優秀ですが、まだ周囲に理解はされていないようです」

「そうか。孔明からある程度の話は聞いたつもりだが、そのうち一度会ってゆっくり話がしたいものだ」

 劉備は確かに人の心を溶かすところがあったが、趙雲の見立てではあの男を溶かすのはそれでも無理のような気がした。

 姜維は孔明こうめいから龐統を引き離したが、趙雲は孔明になら龐統ほうとうは心を解くかもしれないと思っているので話すならば孔明だろうと思うのだが、どうも孔明が、あまり龐統と深い話をしたがっていないように思う。


 以前にも、「話はもう出尽くしました。彼がしょくに留まるならば、蜀で力を振るってくれるでしょう」と言っていた。


 不思議な男だ。

 趙雲も、ああいう男にはあまり会ったことが無い。

 特別な敵意や不審は感じなくとも何を考えてるか分からないので、なるほど、張飛などは一番苦手なのだろうと思う。


「龐統の使い方がまだよく分からなくてな」


「……彼は孔明殿に信頼を寄せているようですから。孔明殿には今、軍と内政の両方の負担がありますので、やはり彼の側でその補佐として動いてもらった方が良いのではないでしょうか」

 劉備ならば、孔明にそう命じられるはずだった。

「うん、そうだな。今度孔明に話してみる」

 劉備の具合が良ければ、連日行われている軍議の内容を伝えようと思っていたが、趙雲は止めた。

 何となく、彼が沈んでるように思ったからだ。


 ――軍議では赤壁で消費した隙を逃さず、今こそ江陵こうりょうに攻め込んでそこを取るべきだと主張する主戦派の意見が強い。

 趙雲ちょううん自身その方がいいと考えているから、恐らくそういう方向に決まって行くのだろうが、どうしても彼はその時に「また戦が始まる」と劉備に上手く伝えられなかった。


「軍議はどうか」


「はい。先だっての戦は大きいものでしたから、次の出方を決めあぐねているのは三国共通のようです。曹魏そうぎでは、曹丕そうひ許昌きょしょうに入り、軍の立て直しを急がせているという知らせが入ってきていますが」

「此度の戦では、曹操そうそうは首を取られかけたからな……」

「はい……」

「……あの戦いの最中、曹操が、周瑜に討たれるかもしれないと思った時私の胸の奥に、嫉妬にも似た気持ちが湧き起こった」

 趙雲は劉備を見る。


「曹操とはずっと戦って来た。

 向こうはずっと私よりも強大だったが、それでも私はずっと戦って来たと思っている。

 その敵を討たれかけたのだ。だから嫉妬など覚えたのだろうな。

 ……だが、周瑜しゅうゆの智謀と、同じものを自分に望んだわけではないのだ。

 自分もそうなりたいと思ったわけではな。

 類い稀な才能を持つ者は、類い稀な苦難も味わうものだ。

 才能を持つ者には、持つゆえの苦しみが必ずある。

 だからそうなりたいとは、思わんよ」


 劉備は一つ、小さく息を付いた。


子龍しりゅう


「は……」


「ここだけの話にしてくれるか?」

「はい」

「うん……私はな、……次の戦が始まる前に、……今のうちに、黎姫れいひめを呉に返してやった方がいいのではないかと考えているのだ」

「……。」

孫権そんけんは周瑜を失ったのだ。もう後には退くまい。

 黎姫は呉蜀同盟の為にここに来られた。いかに身内の情があっても、一国の主として孫権が同盟に執着するはずがない」

「――もし、あの方が側におられることがお辛いようでしたら、私が白帝城はくていじょうに奥方様をお連れいたしますが……」


 劉備はもう一度、趙雲を見る。

 彼は、孫黎の身や心境を慮ってそう言ったのではなかった。

 このままここにいさせると彼女が処刑されるのを、劉備が見なくてはならなくなる。

 それを避けたかったのだ。

 今でさえ呉蜀同盟が決裂したことで、彼女をすぐに斬るべきだと主張する武官達は多い。

 

 劉備は趙雲がそこまで言ったのを聞いて、おおよその軍の意見を悟った。


 ここにいる方が危ないと彼は言っているのだ。そしてその上で、彼女を無事なまま孫呉に帰すことなど、蜀の誰も考えていないと暗に伝えている。


「……今なら……呉蜀同盟の決裂は決定的だとしても。

 今ならまだ、間に合うかもしれない。」


「……。」


「敵ではあるが、私は周公瑾しゅうこうきんに敬意を払う。あの男を国に殉じさせた孫策そんさくにも。

 趙雲。もし私が間違っているのなら……」

「殿が間違われることなどありません。私は貴方の大望に惹かれてここにいるのです。私は貴方の望みを叶えるためにあるのですから」

「諸将が反感を抱くことは、重々に承知している」


「では、私が不手際で起こしたことになさればいい」


 劉備は趙雲ちょううんの目を見た。

 彼は黄玉のような真っ直ぐとした輝きで、劉備を見つめている。

 共に戦わせて下さいと少年のように目を輝かせていた、初めて会った時と同じ顔だ。

「趙雲……」

「汚名は戦場で晴らします。それで陛下の憂いが無くなるのであれば、私は喜んで任を受けますが」


「…………すまん」


 趙雲は微笑んだ。

 彼はゆっくりと立ち上がる。

「長居をし過ぎました。関羽かんう殿にまた咎められます。

 まずはゆっくり、お休みください。

 奥方様のことは、この趙雲にお任せを」


「うん」


 劉備の私室を出ると、趙雲は小さく息を付いた。

 すぐに顔を上げ、歩き出す。

 孫呉は、さほど時間は与えてくれないだろう。


 脳裏に幾度か戦場で会い見えた、猛禽のように輝く琥珀の瞳を思い出していた。



◇   ◇   ◇


 

 蝋燭の灯が揺れている。


 陸遜りくそんは寝台に横向きに寝て、その火をじっと見ていた。


 ふっ、と誰かが火を消した。

 辺りが暗くなって、寝台が軋み、陸遜の身体は後ろから伸びた腕に包み込まれる。

 目が闇に慣れて来る。

 月の光も、今日は明るい。



「明日部屋に戻んだって?」



 陸遜は小さく唇を微笑ませた。

「……はい。もう随分長く、お邪魔してしまったので」

「なんだよ。犬公いぬこうが余計なこと言うから。好きな時にお前に触れるから、気に入ってたのに」

 小さく、笑い声が聞こえる。

 月の光に当たって、輝く陸遜の細い髪に甘寧かんねいは顔を埋める。


「……興覇こうは殿」


「ん?」

「……すみませんでした」

 甘寧は顔を上げた。

「私はこの一月こうやって、ここで自分の悲しみや、苦悩や、重苦しいものを……貴方に逃がしてた。……嫌だったでしょう?」


 陸遜が肩越しに振り返って気遣わし気な顔を見せたので、数秒後、甘寧は吹き出した。


「別に平気だ。それに俺だって普段苛々したもんお前にぶつけちまう時だってあるしさ。おあいこだ」


「……そうでしょうかね」


 自分がこの一月抱えていたものは、甘寧かんねいが普段見せる快活とした怒りに比べれば、ひどく煩わしいものだったと思う。

 共にいるのに、一人にしてほしいと願うようなこともあった。

 甘寧には失望されるような行為は見せたくなかったけど、彼以外に見せられるようなものでもなかったとも言える。

 失望されるなら失望されるまでだとそんな気持ちで、陸遜はこの一月、不安定な自分の心を辛うじて取り繕って過ごしていた。


「そうだ」


 甘寧がくしゃくしゃと陸遜りくそんの髪を掻き混ぜる。


「お前はまたそうやって、生真面目になんでも考え込むのがいけねーんだよ。

 俺がいいって言ったらいいんだよ」


「……はい」


「それにな。

 別に今は、――泣いてもいいんだぞ、陸遜」


 甘寧が、寝台に伏せた陸遜の手の甲に手を重ねた。


「確かにお前、この一月すげぇ落ち込んでたけど、それでも思いっきり泣けてなかっただろ」


 陸遜は一瞬手を強張らせたが、すぐにそれは柔らかく溶ける。


「……いえ……。戦場で、あの時、散々泣かせていただきましたから」


 沈黙が落ちた。



「な。俺がいつ、一番最初にお前のこと好きになったか教えてやろうか」



 唐突に話題を振られ、陸遜は思わず甘寧の腕の中で身じろぎ、後ろを振り返っていた。

「聞いたことありません」

「知りたかろう」

 甘寧かんねいは笑っている。

 陸遜がいくら沈んでいても、必ず振り返る話題だと自信があったようだ。


「前に話したことあっただろ。魏軍の掃討作戦の途中でさ、お前が俺の顔についた血を拭ってくれたって」


 陸遜は目を瞬かせてから、静かに頷く。

「貴方が話してくれたから……覚えています」

「お前あの時戦場の方、じっと見てたろ」

 首が僅かに傾げる。

 陸遜自身はあの時、意識して甘寧に話しかけたわけでは無かったので当時のことを、さほど覚えているわけでは無いのだ。

 ただ、血を拭った時に甘寧かんねいが非常に驚いた顔をしていたのが珍しかったので、後日彼に言われてその場面だけは思い出した。

 前後のことは、正直思い出せなかった。


「魏と呉の、両軍の死体が山ほど転がってる戦場を、お前は見下ろしてたんだよ。惚れてんのを一番最初に自覚したのはあの時だったな」


 甘寧の顔を見上げる。


「普通はそんなもん、顔を反らしたくなる」


 陸遜りくそんは微かに、息を飲んだ。




「俺は、強い人間が好きだ。」




 闇を飲み込むような甘寧の黒曜こくようの瞳が月の光を吸い込んで、藍色に見えた。

「絶望の淵に立ってても、死んでもそこから落ちねえような、

 呆れるほど、失望できねえ、往生際の悪い明るい魂が好きだ」

「……。」

「お前は明るいっていうより生真面目だけどな。

 それでも自分自身のやったことや、選んだ道から目を逸らさない強さがある」


 甘寧が今、どうしてこんな話を自分にしてくれるのか、それが分かりたくて陸遜はじっとその言葉を聞いている。


周瑜しゅうゆが死んだから、そうなって行くんじゃない。

 お前は前から、そうだったんだぜ」


「……甘寧どの」


「俺のことを心底憎んでた淩統も、お前の姿を見て目を覚ましたんだ。

 陸績りくせきも、虞翻ぐほんも、お前がここに残って戦うから、共に戦うことを望んだ。

 お前にとって周瑜は一生忘れがたいかもしれないが、

 周瑜しゅうゆの為に自分が生きて、死ぬと思うな。

 そう思いたくなったら、お前と共に生きる為にここに残った奴らがいることを思い出せ」


 甘寧の大きな手が、陸遜の頬に触れた。


「俺はお前が南陽に行った時、俺は言ったな。

 ここでお前が死んだら、俺はお前を忘れるって」


 陸遜が小さく頷く。


「あの時は、俺は確かに、そう思ってた。

 お前が死んで、骸で戻って来たら、意地でも忘れてやるってな。

 そう思って江陵こうりょうで戦ったんだ。

 お前は戻って来ると思ったから、俺も戻らねえと話にならねえだろ。

 自分が言ったことは、必ず実行するんだ、俺は。

 お前に死ぬなと言ったのに俺が死んだら元も子もないし格好もつかねえと思って」


 甘寧はあの時期、江陵や合肥がっぴを転戦し、数々の武勲を挙げた。

 彼の戦功に比べれば、陸遜が南陽なんようで挙げた勝利など、些細な一つでしかない。



「あの時は本気でそう思ってたし、俺自身、そう出来ると確信があった。

 けど……今はもう無理だ」



 甘寧は陸遜の身体を抱き寄せた。

「例えお前がどこで死んだって、俺は一生、お前のことをもう忘れられない。

 だから、思い出だけなんて抱えさせるなよ」

 陸遜も、甘寧の身体にそっと腕を回した。

 自分はこの一月の間、それほど死に急ぐような気配があったのだろうか。


 ……甘寧かんねいは、今までにも多くの死を見て来たのだ。

 

 死には二種類あった。

 単なるただ一つの死と、

 他の死も呼び寄せる死がある。


 甘寧は周瑜しゅうゆの死を、陸遜の死を呼び寄せるものにだけはしたくなかった。


「……甘寧どの」


 陸遜が甘寧の胸に顔を伏せる。

 肌蹴た衣から覗く肌が、濡れた。


「わたしは戦います。これからも」


 陸遜の背が震える。


仲翔ちゅうしょう殿から聞きました。

 周瑜様は、孫策さまと、約束をしていたそうです。

 いつか孫呉が三国の覇権を握り、もう戦をしなくても良い時代が来たら、

 その時は、……二人で、」


 琥珀の瞳から大粒の涙が零れる。

 

「……ああ」


 周瑜が、

 あの、凄まじい才能を持った、素晴らしい人が、

 その人でさえ手が届かなかった大望があると、陸遜はこの一月、認められなかった。

 認めたくなかったのだ。

 悔いを残してあの人が死んだと、思いたくなかった。

 思ったら、狂いそうになってしまう。

 その悔いを晴らしてやれなかった、自分自身を許せなくなる。



周瑜しゅうゆの為に自分が生きて、死ぬと思うな』



 甘寧の手が陸遜の夜着の帯に伸び、いとも簡単にそれをほどいた。


 躊躇いも無く、夜色の衣を剥ぐ。

 露わになった白い身体を、甘寧は深く抱きしめてくれた。



 

(でも、あの人にも果たせない大望があった――それでいいんだ)




 死ぬ瞬間までしがみつきたい願いがあるから、

 人は生に、執着することが出来るのだから。


 孫策そんさくは死に際に、周瑜の生を願った。

 

 自分も死ぬ時は、きっと甘寧かんねいの生を願おうと思った。


(死など決して願わない)


 生きて大望を果たすのだ。

 諸葛亮しょかつりょうの首は、取れなかった。

 周瑜が生きていたらきっと咎めただろう。


 咎めて――、代わりにもっと大きなことを成せばいいと、そう言ってくれたはずだ。


 自分は残されたんじゃない。

 

 託されたのだ。

 託された者として、生きねばならない。


 周瑜の戦う姿を見て孫呉の兵たちがいついかなる時も自分たちは強い力で守られ、どんな苦しい戦場に落とされても、必ず生きて帰るのだと、信じれたように。



(孫呉の旗の下で、

 あの雄大な私たちの長江ちょうこうのほとりで、

 人々が何の不安も無く、夢を思い描いて生きていけるように)



 周瑜の死よりも鮮烈な、彼の生が――その道を指し示してくれる。




(いつか戦の無い世界で、ふたりで)




 伸ばした腕で手繰り寄せる、甘寧の背に陸遜りくそんは爪を滑らせた。

 

 孫策と周瑜に終わりが来たように、

 自分と甘寧にもいつか終わりは来る。

 どんな形かは分からない。

 それでも必ず終わりは来る。


 ……でも今は祈ろう。


 共に生きている、この、かけがえのない時間を。

 そこから続く、いつか辿り着ける場所を。


 あの人が望んだ夢を。


◇   ◇   ◇


 十日後、軍議が開かれた。



「――――江陵こうりょうへの派兵を決めた」



 孫権そんけんが言った。

 彼は父親である孫文台そんぶんだいが亡くなった時はひどくその死を悲しみ随分長い間、塞ぎ込んで涙を流していたと言われているが、兄の孫策そんさくが死んだ今回はその盛大な葬儀も自ら関わって執り行った。

 葬儀の最中青い瞳から涙を流していたのは印象的だったが、葬儀が終わると彼は気丈に公務に戻った。


 呂蒙りょもうに聞いたところによると生前から孫策に、自分が死んだ時の心構えを、ということは幾度も話されていたようだ。

 また悲しみに浸って公務も覚束ないようでは、あの世で孫策と周瑜に何を言われるか分からないから、と酒の席で笑っていたらしい。


「この部隊は、呉蜀ごしょく同盟破棄後の蜀の動向を探り、監視すること。

 有事の際はここが最前線になる。

 臨戦態勢で臨むこととする」


 広い軍議室に集められた武将たちは、緊張した面持ちだった。


 それまでの呉軍の要であった、周瑜と孫策そんさくを失ってから、一番最初の戦いになるかもしれないからだ。


「江陵軍の総大将には呂子明りょしめいを任ずる」


 これからは軍において呂蒙を重用せよという、それは周瑜の遺言通りの起用だった。

 孫権の、周瑜への信頼は死んだ今も揺るぎないということである。


「呂蒙。速やかに軍を取りまとめ、江陵の城に入れ。

 ――陸遜」


 ザッ、と全員の視線が陸伯言りくはくげんに注がれる。

 彼はようやく二十歳になったばかりで、呉軍の上層部の中では最も若い。

 すなわち、ここでの発言権は今まで最も低かったが【赤壁せきへきの戦い】で周瑜しゅうゆが陸遜を自分の副官に起用したことで、風向きが大きく変わったのだ。


 彼が赤壁で果たした役割は、諸葛亮しょかつりょうが存命ゆえに伏せられたままになっているが、彼が赤壁の戦いで周瑜の副官としてこれを全うしたことは呉軍全体に知れ渡り、周瑜の名が、名実ともに孫呉において揺るぎないものになった今、長くその指南を受けて来た陸遜りくそんという青年の持つ意味は、もはや呉軍の中では軽視の出来ないものになっていた。


「お前は呂蒙の補佐役として着任し、江陵で対蜀の軍策を立てよ。

 建業けんぎょうへの定期報告を欠かさない限り、お前と呂蒙の軍策の一切を、私が許可する。

 周瑜の許で学んだお前の智謀を、呉軍においていかんなく発揮するのだ」


「承知いたしました!」


 陸遜は迷うことも無く、快活に応えた。


「うん。共に副官の選定は各々に任せる。

 だが、最前線ということを決して忘れるな。

 赤壁で消耗した我が軍を、今、蜀は攻め時と見ているはずだ。

 いつ開戦するか分からぬ。

 それを踏まえた上で、堅実な選定を期待する」


「かしこまりました」

 呂蒙も穏やかな声で答えた。



「準備が整い次第、出陣せよ!」



◇   ◇   ◇


呂蒙りょもう殿、どうぞよろしくお願い致します」


 他の武将たちと話していた呂蒙が話し終わる頃合いを見て、陸遜りくそんは話しかけに行った。

 呂蒙は頷く。

「こちらこそ、よろしく頼む」

 呂蒙は陸遜にとって建業けんぎょうに来てから、後見人のような立場で公私に自分を支えて来てくれた人物だった。


「お前が建業に来た時から面倒を見ているから、同じ武将となると委縮するかもしれんが。

 だが――陸遜、お前には私に無い、戦場における慧眼がある。

 周瑜しゅうゆ殿の持っていたものと、同じ類いのものだと私は思う。

 私の見れないものをその目で見て、どうか助けて欲しい」


「呂蒙殿……」


「私とお前は、共に周瑜殿に学んだ。言わば、私は兄弟子のようなものだ」

 年は随分離れているがな。

 呂蒙は笑う。

 陸遜も小さく笑んだ。


 今まで、周瑜の側に仕えてきた。

 彼は日常から、些細なことまでも確実な仕事を求めてきた人だったから、陸遜は周瑜の前に出る時はいつでも緊張をしていた。

 それが嫌だと思ったことは無い。

 苦しかったり、自分の無力さを痛感したりはしょっちゅうしたが、周瑜の側で働けることを陸遜はいつでも光栄に思っていた。

 呂蒙は質実剛健な武将だが、周瑜の持っていたような厳しさを持ってはいない。

 印象のかなり違う人物だったが、陸遜が慕うことの出来る人格者であることは共に同じだった。


 これからはこの人に仕えるのだと、陸遜は深く一礼をした。

 その生真面目な様子に目を丸くしつつ、呂蒙は笑った。


「そうだ、陸遜。私の副官だがな。

 淩統りょうとうを起用しようと思っとるんだ」


「淩統殿を」

「うん。淩統は器用だ。軍人としても有能だが、あれで内務も随分質よくこなす。

 建業けんぎょうに置いておきたいと、殿にも言われたのだが。

 しかし淩統もお前同様、まだ大きな戦を主導した経験はあまりあるまい。

 この際、いい機会だと思ってな」


 陸遜は表情を少し和らげた。

「そうですか。淩統殿は勇猛で、聡明な方です。必ず呂蒙殿を助けて下さるでしょう」

「若いお前たちを最前線に連れて行くのは、少し気が進まんがな」

 呂蒙は苦笑したが、陸遜は首を振る。

「いざという時に未熟が出ないよう、今から機会を戴けるのは有り難いことです」



「呂蒙~」



 声がした。

 甘寧かんねいが、淩統を引きずって歩いて来る。

「なんかそこの柱の裏で、コイツがニヤニヤしてた」

「ばっ! 誰が!」

「ニヤニヤしてたじゃねーか。陸遜に『勇猛で聡明な方』とか言われて調子乗ってんだろお前」

「うるせえ! 黙ってろ!」

 淩統が顔を赤くして怒鳴った。

 しかし、すぐに呂蒙と陸遜に向き直る。

「お二方、どうぞよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「淩統はほとんど志願したようなものだ。陸遜。

 この十日間くらい、江陵こうりょうに行きたい江陵に行きたいと私の所に来てだな……」


「りょ、呂蒙どの! それは言わない約束でしょう!」


「はっはっは!」


 陸遜は小首を傾げる。


「江陵は……、その、対しょくの最前線ですから! 

 赤壁の戦いの大勝利の後、蜀に負けるなどということになったら目も当てられません。

 自分は戦う為に建業に来たのです。武人は戦場にいるものです」


 淩統は溌剌と答え、決して陸遜が行くから釣られたのではないのだということを主張した。


「……はい。私も、そう思っています」


 しばらく琥珀の瞳をぱちぱちさせた陸遜が不意にくすくすと笑って、頷いた。

 それから彼は淩統に向かって、手を差し出す。

「――淩統殿。どうぞ、よろしくお願い致します」

 淩統は安心したような顔をした。

 陸遜の手に重ねる。


「はい。こちらこそ」


 側の甘寧かんねいが、不満そうに腕を組んで、重なった手を睨んでいる。

「……なんか気に食わねー……呂蒙! 俺も江陵に行くからな!」

「んん⁉」

「あたりめーだろ。俺だけ建業でお留守番とかさせる気じゃねーだろうな!」

「お留守番とかではなくお前は殿から新兵の調練を任されているのだろう」

「いやだ! あんな奴らの相手ばっかさせられてちゃ腕がなまるぞ!

 調練なんか太史慈たいしじとか周泰しゅうたいに任せときゃいいんだよ。

 俺は行くぜ!」

「いやでも私の副官は淩統に頼むしな」


「りくそん!」


「いえ、駄目です。私は副官はもう少し吟味しますけど、私などが甘寧将軍を副官などに据えたら方々からお説教されますし」

「お前は相変わらずお堅いな……」

 甘寧が口許を引きつらせている。

「いいよ、じゃあ。勝手についてくからな」

「それはいかん。甘寧、遊びではないのだぞ」

「戦の最前線って孫権そんけんも言ってたじゃねーか。最前線なら俺が行ったって何の問題もないだろうが」


「戦の最前線と言っても、開戦すればの話だ。

 別に無理に蜀に喧嘩を吹っ掛けに行くことは無い。守りを固めるのが最重要だ。

 江陵にお前が着任したなどと蜀に報せが飛んでみろ。

 攻めてくるつもりだなどと成都を悪戯に刺激するだろ」


「なんだよ人を刺激物みてーに」

「お前はほぼ刺激物だよ」

「うるせぇ!」

 淩統の的確な突っ込みに甘寧が怒っている。

「んじゃ、江陵で新兵の調練をやるよ。それなら名目も立つだろ。

 お前から孫権に頼んでくれよ」

「いや、私はこれから色々忙しい……」


「呂蒙~~~~~っ」


 食い下がる甘寧を引きずりながら、呂蒙が歩み去っていく。


 残された淩統と陸遜は顔を見合わせた。


「…………あれは何が何でもついて来る気ですよ」


 呆れた声で淩統が言った。

 陸遜は少し吹き出してしまった。

「まぁ、でも今の呉軍は士気は高いものの、まだ周瑜様と孫策そんさく様を失って間もない。

 不安に思ってる兵士たちも多くいるはずです。

 甘寧将軍は、そこにおられるだけで多くの兵を勇気づける方ですから、江陵に来ていただくのは、悪い話ではないのではないでしょうか」

 淩統は小さく息を付く。

「……まぁ、俺は呂蒙殿や陸遜様がいいとおっしゃるなら、いいですが」

 釈然としないような声を出しつつも上官に呂蒙と陸遜、同じ戦場に甘寧が来るとあれば、淩統の胸は子供のように躍った。


 これからどんな戦いが待ち受けているのだろうと、中には今、不安に同じことを思っている兵士たちもいるのだろうが、淩統の胸には高揚感があった。


 今までは、周瑜や孫策の背を追って、ついていくだけだった。

 これからは自分たちの手で切り開いて行かねばならないのだ。


 同じく、呉軍において勇猛果敢で知られた父、凌操りょうそう譲りの魂を持つ彼はそのことに恐怖よりも喜びを感じていた。



◇   ◇   ◇



 バサッ…………



 真紅に染め上げられた旗が空に翻る。


 港に集まった兵や民から歓声が上がる。

 乗船した、江陵軍、総大将呂子明りょしめいの姿が甲板に現われると、その歓声は一際大きくなる。

 赤壁で水軍は温存されたが、船は大半が水の底に沈んだ。

 江陵軍に与えられた船は、どれもが新しく作られたばかりの、垢や泥のついてない美しい大型船だった。

 

 呂蒙りょもうの側に、副官の淩統りょうとうの姿が並ぶ。

 そして、新兵を水の上で鍛え上げるからと孫権そんけんにごり押しをして、出撃許可を勝ち取った甘寧の、いつもの鳥の羽と鈴で身を飾る姿が甲板に見えると、先だっての赤壁の戦いでも、張遼ちょうりょうを撤退させ、曹仁そうじん軍を壊滅させるという大きな武勲を挙げた話は民にも行き届いているようで、歓声が波立つように大きくなる。

 甘寧かんねいは腕を組み、仁王立ちすると満足気な笑みを浮かべた。


 黄祖こうその元にいた時は「水賊上りが」などと言われ決してこのような重用を、望むことが出来なかった。

 孫策そんさくと周瑜から投降の呼びかけがあり、甘寧は黄祖を見限って建業にやって来た。

 あの選択は、間違いではなかったのだろう。



(ついにここまでやって来た)



 今や甘寧の名は、呉軍においてその筆頭にあげられる。



 ――そして、少し遅れて、彼らの傍らに立った。



 群衆が、ざわり、とどよめいた。


 青い糸で装飾を施された白い戦装束が、目を引いたのだ。

 彼の目を引く容姿もあり、屈強な武具を身につけた武将たちの中で、その姿は異質なものに見えた。

 だがそれは、同じように、まるで楽師のような涼しげな風貌で軍船に乗り込み、戦場では、誰よりも苛烈な号令と戦功をあげて来た周瑜しゅうゆの姿を、真逆の色ながらも彷彿とさせた。


 陸遜りくそんは以前は周瑜と同じように真紅の軍服に身を包むことで知られていたが、今ここに現れた彼は、白い纏いに着替えていた。


 淩統はその清廉な姿に一瞬目を奪われたが、傍らに立った陸遜が少しだけ唇で笑った。


「……真紅は、あの方の色ですから」


 彼はそんな風に言った。

 軽薄な口笛が聞こえた。

 甘寧だろう。


「じゃー、お前はこれから、白い軍師さんとか言われんのかね?」


 楽し気な声に、淩統りょうとうは眉を寄せる。

 またあの野郎は、考えもしねえで軽々しく。

 危ないじゃないかこんな真っ白な目立つ出で立ち。俺が敵なら戦場で真っ先に狙うぞ、などと彼は不安に思ったが、呂蒙りょもうの笑い声が聞こえた。


「美しい出で立ちだな、陸遜。戦場では何かと気が滅入る。

 綺麗な白は、気分がいい」


「はい」


 船が動き出す。


 そんなもんかね。

 淩統は小さく息を付き、改めて白い陸遜の側に立って、後ろ手に手を組んだ。


「……お似合いです」


 本当は真っ先に言いたかった一言が、今度は素直に何とか出た。

 淩統を見上げた陸遜の琥珀の瞳が瞬き、微笑む。


「……ありがとうございます」


 彼は水面に、視線を戻した。


 船が動き出す。

 風が辺りを包み込む。


 かつては、陸遜の前には周瑜しゅうゆがいた。

 孫策が。

 その陰に隠れて、守られて、自分たちは風を受けることが無かった。


(でも今は)


 淩統は、顔に吹き付ける風の先を強く見据えた。

 後ろから吹き返す風は、孤独を感じさせる。

 後ろに誰もいないと陸遜が感じることが無いよう、淩統は陸遜の後ろに控えた。



「出陣!」



 呂蒙の声が晴れやかな空に響く。


 後方でオオ――ッ! と威勢のいい声を上げたのは、甘寧軍の兵達だろう。


 白い衣の袖が大きくはためく。


 陸遜はただ、真っ直ぐに前を見つめた。


 風は再び、駆け出したのだ。




【終】


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