花天月地【第1話 再びの風】

七海ポルカ

第1話



 淩公績りょうこうせきは執務室の机で書類と向き合っていた。


 積み上げられた本が、別のものを取ろうとした手に当たって崩れると、彼は顔を顰めて盛大な溜息をつく。

 億劫そうに立ち上がり床に落ちた書類をかき集めて机に戻し、ふと庭先を見ると目にやけに緑が目立ち、彼は窓辺にゆっくりと歩み寄る。


 この一月あまり忙しすぎて、ろくに外の景色を見ていられなかった。


(でも、葬儀の時には桜が咲いていたから……)


 盛大な葬儀の間じゅう、桃の花びらが舞う中、じっと睫毛を伏せていた陸遜りくそんの横顔をよく覚えているから尚更深緑の季節の緑が、目に鮮やかなのかもしれない。


 季節が過ぎゆくことを感じる。

 淩統りょうとうは思い立って仕事を中断し、部屋を出た。


 建業けんぎょうの王宮も、様々なことが変わった。


 一番の変化は、志願兵がとても増えたことだ。

赤壁せきへきの戦い】の大勝利で、呉軍に志願する者が増えた。

 軍は、積極的にこういった者達を受け入れている。


 ――次なる戦に備えるためだ。


 次なる戦というのは。


(……相手はしょくになるだろうな)


 曹魏そうぎはいまだに強大だが、赤壁の戦いで蒙った損害は遥かにを上回る。

 呉同様、軍の再編に躍起になっているだろうから、すぐに行動を起こすということはないだろう。


 呉軍はとにかく、赤壁の戦いで壊滅した船の造船に明け暮れている。

 亡き、周瑜しゅうゆの立てた策は、船は消費しても水軍の兵たち自体はほとんどを温存出来ている。

 彼は生前から、すでに赤壁後の戦いすら見越していた。

 呉は造船に足りない資材や人手は、再編された軍の鍛錬も含み山越さんえつ域に遠征し、材木や捕虜を調達している。

 王宮の修錬場に集まって元気な声を張り上げているのは、まだ軍に組み込まれていない新兵達だ。


 淩統りょうとうも、かねてより任されていた自分の部隊にかなりの数の新兵を引き受けて鍛え上げている最中だ。

 今日も夕刻から部隊修錬の予定がある。

 各武将たちに多くの新兵が割り当てられたが、淩統は積極的にこれを引き受けた。


 ……今、何かをしたいと、強く思ったからだ。


 彼は武将である。淩統は内政にも才能を発揮したが、本職は軍人だ。

 国の為に尽くすなら、軍の為に何かをしたかった。


 こういう新兵訓練などは、以前は孫策そんさくが好んで引き受けていた。

 

 だが、もう彼はいない。

 呂蒙りょもうは今、魯粛ろしゅくと共に、孫権そんけんたちと今後の孫呉そんごの方針を決めることと、周瑜と孫策、そして黄蓋こうがいという大きな柱を失った孫呉軍全体の調整と編成を行っている。


 細かい修錬などには、彼らは時間が割けないのだ。


 赤壁の戦いが開戦する前までは、主に文官たちを中心とする不戦派の主張は強かったが、戦いが終わってからは彼らも以前のように軍の足を引っ張るのは止めたようだった。

 それは間違いなく――死ぬ瞬間まで苛烈に主戦を主張し続けた周瑜しゅうゆの姿を、多くの人間が目に焼き付けたからなのだろう。


 引退を望んでいた韓当かんとうが軍に呼び戻され、黄蓋の穴を埋めた。


 周泰しゅうたい陳武ちんぶ徐盛じょせい朱然しゅぜんなどという者たちが山越討伐軍を率いて遠征している間、王宮で新兵の調練を任されているのは淩統、丁奉ていほう駱統らくとう甘寧かんねいらである。

 

 孫権からの指示を受け文官たちを取りまとめる役は、張昭ちょうしょうが担い、その補佐に赤壁の戦いで周瑜を補佐した諸葛瑾しょかつきん虞翻ぐほんがついている。


 ……いや、もう一人。


 陸伯言りくはくげんも、周瑜亡き後の孫呉において、重要な役を任されていた。

 彼の立場は非常に特別なものだった。

 諸葛瑾や虞翻と違い陸遜りくそんは剣もかなり使うので、戦時は武官として戦場に立つ。

 軍師の一人として、上層部の軍議にも必ず招聘される。

 平時は王宮で文官を取りまとめていた。

 

 ……丁度周瑜が、そういう役回りを引き受けていた。


 彼は戦場に置いては軍師として戦術を練り、自らも戦場で剣を振るい、指揮も執った。 

 もし次の戦が始まれば、恐らく魯粛ろしゅくよりも武官の才がある呂蒙がそういった地位に収まるのだろうが、これは決して呂蒙りょもうを貶める意味ではなく、剣の才で言えば、淩統りょうとうの目には呂蒙よりも陸遜の方が武芸に対して天賦の才があるように映る。


 それに、陸遜は大戦の指揮は未経験だが、軍師としての才も呂蒙より上だ。

 これは呂蒙自身にも、以前淩統は言われたことがある。


 彼はまだ「陸遜りくそんは未熟だが」と前置きをした上で、いずれ陸遜は孫呉軍において重要な役目を負うことになるはずだと言っていたのだ。


 陸遜は周瑜しゅうゆを崇拝していたので彼より前に出るということは今までに無かったが、今この孫呉を包み込む、風――。


 赤壁の戦い直後は悲しみに沈んでいた空気が薄れ、花の目覚める息吹と共に、武将たちには周瑜と孫策そんさくを失ったのだという自覚が芽生えた。


 自分たちの手で、孫呉を守って行かなければならないという。


 その中で未だ才能を眠らせる陸伯言は、天剣てんけん智謀ちぼうにおいて、最も周公瑾しゅうこうきんの流れを色濃く汲む存在だと彼は思うのだった。


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