第5話望んだ誓いの歩みの果てに
騒がしい日常の有り様は私の精神の平穏を保つ必須の要因だ。
それが無くなれば私の自我も日々の時間の流れの中へ消えていく事だろう。
ヨハネスは自分の執務室の中、来客の対応中珍しく思案にふけっていた。
自分を表している称号であり責務を背負っている証である「ヨハネス」という言葉は彼女本人の運命の在り方を定義する魔術的文字列だ。
それに加えて彼女が率いるアリステイル財閥は欧州魔術文化圏のみならず中南米の下部組織の日常の在り方を保証する責務を担っている政財界ネットワーク管理団体でもある。
そう、"ヨハネス•アリステイル"という綴りのスペルは関係者各位にとって「現実」という概念を表す記号ですらあるのだ。
それゆえに自分の感情に向き合ったことはあまり無い。
様々なトラブルの裁定を下すのに人間らしい感情に振り回されていては自身のメンタルが持たないからだ。
それは人々の日常を背負う者として適切な要因だと信じていた。
…しかし。
ヨハネスはようやく意識を戻して話を進める事にする。
来客はヨハネスがやっと戻ってきた事に一息つくと話を再開した。
「ヨハネス…いつも通りの懸命な選択をしてくれるわね?貴女の役目はセンチメンタルな正義感を示す事ではないはずよ。」
「ソフィア。私もひとりの人間として良心の呵責に耐えられない事もあるの。全てが理屈通りの正しさで解決するわけではないはずよね?」
双方の意思が激しく衝突する。
質問を疑問形で返されたソフィアは気分を損ねたようで訝しい視線をヨハネスに突き刺す。
「この事案は放っておけば日常における現実の意義が塗り替わる程の異常事態を引き起こすモノよ。極東における"超越者"の異常増加の件、把握してないわけないわよね。」
痛い腹を直接探られたヨハネスは苦々しい思いを噛み締めてせめてもの反論をする。
「件の"ボーダーライン"に付随する"超越論"案件は現状の優先度が第一ではある。しかしそれでも財団が今まで運用してきた「禁忌の果樹園」のルールに非常事態条項を加える事は想定外の不都合をどれだけ生み出すかわからない事。
その危険性は無視できるモノではないのよ。」
何とか絞り出した言葉は現状の打開に繋がるモノではなかった。
そして現状維持で破滅要因が肥大していくのを黙って見ていることもできない。
それでも…
ヨハネスは今まで積み重ねてきた平穏と共存のロジックに縋りたい気持ちを手放せないでいる。
「果樹園」がもたらしてくれた豊かさと理想的日常。
その恩恵は本来独占してはいけないものだと薄々感じてはいた。
その恩恵がいつか不可逆的破滅を呼び込む原因になるだろう事も。
しかし大丈夫だろう、そんな日は来ないだろうと考えない自分をその都度正当化して問題はなかったのだ。
暗黙の了解に基づく関係者との共犯関係に安心すらしていた。
それでも必然の運命の日はついに訪れてしまった。
放って置かれてすっかり冷めてしまった二つの紅茶…もはや飲めたものではない状態のソレは私とソフィアの今の関係性を視覚化しているように感じる。
「ヨハネス…この事案は導知評議会にも通してあるの。日常を危機に晒している重大インシデントとしてね。」
ついに最終通告が突きつけられた。
もはや天秤にかけて次善の策をとかいう段階ではないのだ。
ソフィアのサファイアの瞳がヨハネスの降伏宣言を言外に促している。
しかしヨハネスは交渉でも拒絶でもない選択をすることにした。
それは新たなる自らの日常への誓いとなるモノ。
この場に控えているに違うない死神の喉元を締め上げる覚悟をヨハネスが決めたのだ。
歴史の新たなページは厳然たる人の意思でめくられることとなった。
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