第15話 逃げろ!!

黒木先生は、相変わらずパソコンの前で困ったような表情を浮かべ、画面を見つめていた。

タイピングの音が止まり、独り言のように口を開く。


「……四日前に一回……南の方で……鳥かなー……で、今日も?」


3人は、ドアの隙間からその言葉を耳にして、顔を見合わせる。


「鳥……?」


蒼司が小さく呟いた。

颯は、はっとしたように目を見開いた。


──四日前。

航と一緒に南のキョウカイセンを越えた日だ。


あのとき、偽の空、景色に化けた“見えない壁”に向かって、航が石を投げた。

それが「異常」として感知されたのではないか。


そして今日──西のキョウカイセンでも、同じように航が石を投げた。


すべてが繋がった。


「……マジか……」


颯は、ごく小さく呟いた後、2人に向かって小声で指示する。


「……帰ろう。やばい、先生……気づくぞ」


頷いた2人が動こうとした、その時。


「……あれ、四日前って──あの子たち、キョウカイセンの先に行った日……?」


黒木先生の声が静かに部屋に響いた。


──ビンゴだった。


その瞬間、3人は一気に表情を変えた。蒼司と航も、何を意味するのか理解したようだった。


「やばっ……!」


航が反射的に、ドアをバタンと閉めてしまった。


「ドタッ!」


重い音が、建物の中に響き渡る。


「……だれ!? そこにいるの!?」


ドアの向こうから、黒木先生の声が鋭く飛んでくる。


颯は、できるだけの大きな小声で叫んだ。


「逃げろ!!」


その一言で、3人は一斉に駆け出した。来た時のルートをそのまま逆走する。

廊下を抜け、出入り口のドアを開けて──飛び出す。


「……待って!!」


遠くから黒木先生の声が聞こえる。


「うわあああ!!マジだ!マジで追ってきた!!」


「やばいやばい!!チェイスだチェイスー!!」


蒼司と航は興奮したような半笑いで叫びながら走っている。どこかで楽しんでいるようなテンションに、颯は思わず「似てるな、こいつら……」と思ってしまう。


でも、もちろん心は穏やかではない。


航が持ち出した大量の紙が、走るたびにバサバサと音を立てている。

田舎道を駆け抜け、草を踏み分け、闇の中を全速力で走る。


颯は、走りながらスマホを取り出し、グループLINEを開いて、手短に打つ。



【颯】

「みんな帰れ!」



焦って文章は荒かったが、言いたいことは2つだった。

──蒼司たちに、「とにかく家に帰れ」と伝えること。

そして、特に今も見張りをしているかもしれない美晴に、「今すぐ逃げろ」と警告すること。


幸い、足は遅い方ではない。


「……まあ、いけるか……」


そう思って後ろを振り返った──その瞬間。


「……っ!!?」


およそ70メートルほど後方。

そこに、走ってくる人影がある。


──黒木先生だった。


「はっや……!」


颯は思わず呟いた。

年配の女性のはずなのに、信じられないほどの速度でこちらを追ってくる。

おばさんにしては速すぎる。ほぼ同じペースで追ってきている。


「待ちなさい!!あなたたち!!」


声が響く。

その声に、確かに怒気は含まれていたが──それ以上に、混乱と焦りのような感情も滲んでいた。


──あの背格好、逃げてるのは学生だってバレたか。

でもまだ誰かまでは分かっていないようだった。


颯は、航に向かって怒鳴る。


「町に戻ったら、二手に分かれて!そのまま家に帰れ!!」


返事はなかったが、航はちらりとこちらを見て、頷いたように見えた。


もう、後ろを振り返らない。


全員が、草原を抜け、暗闇の中をただひたすらに駆ける。


──やがて。


見えてきた。


目印となっていた、東のキョウカイセンのライン。


そしてその向こう側に──いつもの、静かな町の風景がぼんやりと浮かんでいた。


颯が周囲を見渡す。


──人影は、ない。


「……美晴、帰ったか……」


そして──

颯たちはキョウカイセンの線を再び飛び超える。

航は自分の家の方向に向かって走っていった。


未舗装の土道から、アスファルトに切り替わる地点まで戻ってくると、急に空気が変わったような気がした。地面の感触も、風の匂いも、町に戻ったと肌で分かる。


道沿いには、点々と街灯が灯り、ライトをつけた車が数台、すぐ脇を通りすぎていく。車の音が、現実に戻ってきたことを告げているようだった。


息を切らしながら、大通りを避けるように横道へそれ、何度も角を曲がりながら、見慣れた住宅街の中を進んだ。


──やっと、見えてきた。


家の近くの、あの小さなお店の前。


そこでようやく足を止める。

胸が大きく上下し、息が整わない。2km近く全力で走ったのだ。


「……っは……ぜえ……っ、ふぅ……」


ただ、静かに息を吐く。

あたりを見回しても、黒木先生の姿は見えない。──振り切れたらしい。


「……はぁ……よかった……」


颯は安堵の吐息を漏らしたあと、足早に自宅の方へ向かう。


玄関のドアを開け、靴を脱ぎながら、再び荒い息をつき──

ようやくリビングに顔を出す。


「……ただいま……」


「遅かったねー。なんかあったの?」


母親がソファから振り返ってきた。


「まさか、またキョウカイセンに行ったんじゃないでしょうね?」


冗談っぽく笑って言ったその言葉に、颯の心臓が一瞬だけ止まりかけた。


「……そんなわけないじゃん」


笑って返したが、声がかすれていたかもしれない。


「お風呂入ってくる!」


そう言って逃げるように脱衣所へ向かい、ドアを閉める。

すぐにスマホを取り出す。──気になって仕方がなかった。


グループLINEを開くと、すでに数件のメッセージが届いていた。


──みぱ

「みんな帰れた?」


──みぱ

「帰りに蒼司に聞いたよ」

「ていうか、今黒木先生、学年中の生徒の家に電話してるらしいから、気をつけて」

「うちにも電話かかってきた」


画面を見た瞬間、颯の心臓が凍るような音を立てた。


──…やばい。

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