こころ(作:一ノ瀬 詩織)
日付:20XX年某月某日
場所:文芸部部室
議題:『こころ・レター・コンプレッション・チャレンジ』発表会
出席者:一ノ瀬詩織(部長)、二階堂玲(副部長)、三田村宙、四方田萌
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一ノ瀬「さあ、皆の者! 約束の一週間後、ついにこの日が来たわ! 夏目漱石が遺した、あまりにも長大で、物理的に矛盾した、あの、美しい遺書。それを、我々の解釈で、完璧な形へと昇華させる時が来たのよ!」
(一ノ瀬、自信に満ちた表情で、恭しく和綴じにした原稿を胸に抱き、すっくと立ち上がる)
一ノ瀬「言い出しっぺである、この私、一ノ瀬詩織が、まずはお手本を見せるわ。皆、心して聞きなさい! 私が、漱石の魂を我が身に宿し、物理的矛盾を解消した、最も正しく、最も悲しい『こころ』の遺書を、披露します!」
(朗々とした声で、彼女は朗読を始めた)
***
こころ
作:一ノ瀬 詩織
あなたへ。
あなたに、この古びた手帳を託そうと思います。これは、私が長年にわたり、誰にも見せることなく、ただ己の罪と向き合うためだけに書き綴ってきた、魂の記録です。私が死んだ後、これをどうしようと、あなたの自由です。ただ、あなたにだけは、私の汚れた心の全てを、知っておいてほしかったのです。
【明治三十年 夏】
私は、信じていた叔父に、裏切られた。金のために、人は、いとも容易く、人を欺く。その時から、私の心は、固く閉ざされてしまった。世の中の人間は、全て、あの叔父と同じ、偽善とエゴイズムの塊なのだと。そう思うことでしか、私は、自分を保てなかった。
【明治三十四年 春】
下宿先で、私はKと出会った。彼は、私とは正反対の男だった。ストイックで、求道的で、己の信じる道を、ただ真っ直ぐに進もうとしていた。私たちは、よく議論を戦わせた。彼の、あまりに純粋な理想論を、私は、心のどこかで嘲笑しながらも、同時に、強く、惹かれていた。彼の隣にいる時だけ、私は、人間への不信感を、束の間、忘れることができた。
【明治三十四年 秋】
お嬢さんの存在が、私の心を、かき乱し始めた。彼女の、一点の曇りもない、清らかな魂に触れるたび、私は、自分が救われるような気がした。この人となら、あるいは、私も、もう一度、人を信じられるかもしれない。そう、思ったのだ。
それは、淡い恋であると同時に、私にとっては、一つの、希望の光だった。
【明治三十五年 冬】
その希望の光が、私に、再び、罪を犯させることになった。
Kが、苦しげに、こう打ち明けたのだ。「お嬢さんのことが、好きになってしまった」と。
その瞬間、私の心に、あの、叔父に向けたものと同じ、黒い炎が燃え上がった。嫉妬。私から、唯一の光を奪おうとする者への、激しい憎悪。
私は、Kを出し抜いた。彼が、思い悩んでいる隙をつき、下宿の奥様へ、お嬢さんとの結婚の許しを得たのだ。奥様が、Kではなく、私を選んだと知った時の、あの、卑劣な満足感を、私は、生涯忘れることはないだろう。
【明治三十五年 春】
Kは、死んだ。
自らの部屋で、血にまみれて。
彼の枕元には、短い遺書が残されていた。『もっと早く死ぬべきだったのになぜ今まで生きていたのだろう』
その一文を読んだ時、私は、全てを悟った。彼は、恋に破れて死んだのではない。この私に、この世でただ一人、信じていた友に、裏切られた、その絶望によって、死んだのだ。
彼の死は、全て、私のせいだった。私の、醜いエゴイズムが、彼を殺したのだ。
私は、彼の亡骸を前に、ただ、震えることしかできなかった。
【明治四十年】
妻との間に、子はいない。私たちは、静かに、穏やかに暮らしている。妻は、私の心の闇に、気づいているのか、いないのか。彼女は、時折、寂しそうな顔で、書斎に閉じこもる私を見ている。私は、彼女を幸せにしたいと願いながら、その実、彼女を、私の孤独の、道連れにしているに過ぎない。
私は、生きながら、死んでいる。Kの死を、その記憶を、まるで十字架のように、背負いながら。
【明治四十五年 夏】
君と、出会った。
初めて、由比ヶ浜で君を見た時、私は、驚いた。君の、あの、若く、真摯な瞳の中に、私は、遠い昔に失った、Kの面影を見たからだ。
君は、私を「先生」と呼び、慕ってくれる。その純粋さが、私には、眩しく、そして、恐ろしかった。君を知れば知るほど、私は、私の犯した罪の重さを、改めて、思い知らされる。
ああ、君は、私と出会わなければ、もっと、健やかな人生を送れただろうに。すまない。
【最後の手記】
私は、もう、限界だ。
この、罪の記憶を抱えたまま、これ以上、生きていくことはできない。妻には、十分な財産を残した。彼女は、私が死ねば、悲しむだろう。だが、いずれ、私のこの呪縛から解き放たれ、本当の幸せを見つけてくれるに違いない。
君よ。君は、まだ若い。未来がある。決して、私のような、人間の暗い面に、囚われてはならない。人を信じなさい。たとえ、裏切られることがあっても。
この手記は、私の、心の全てだ。君に、私の全てを、託すことにした。
この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。
***
(一ノ瀬、朗読を終え、感極まった様子で原稿を閉じる。その目には、達成感と感動の涙が光っている)
一ノ瀬「……どう、かしら……? 遺書を、長年書き溜めた『手記』と再定義することで、袂に入るサイズという物理的矛盾を解消しつつ、先生の、長年の苦悩を描ききったわ! これこそが、最も正しく、美しい解釈でしょう!」
(自信満々に部員たちを見回す一ノ瀬。しかし、三人の反応は、どこか微妙なものだった)
四方田「う、うーん……。話は、授業でやった通りなんですけど……。なんていうか……その……ありきたりすぎません? せっかく書き直すのに、結末が同じだと、ちょっと……。もっとこう、先生とKの、行間から滲み出る、尊い何かとか……そういうのが……ない……」
三田村「……遺書を、長期間にわたる精神状態のログファイル(日記)として再定義し、物理的矛盾を解決する。論理的なアプローチとしては、妥当です。……しかし、そのログに記録されているのは、極めてありふれた、予測可能な人間の感情の変遷のみ。何の新規性も、意外性も観測されませんでした。退屈です」
二階堂「……なるほどね。遺書の『形式』を変えることで矛盾を解決する、というのは、まあ、一つの手ではあるわね。でも部長、あなたの書いたものは、ただ原作のプロットを要約して、日記風に並べ替えただけじゃない。そこに、新しい解釈や、謎を解き明かすロジックが、一切、存在しない。ミステリーとしては、完全に落第よ。これでは、ただの読書感想文だわ」
一ノ瀬「ら、落第ぃぃぃぃぃ!? 読書感想文ですってぇぇぇぇ!? わ、私の、この、血と涙と魂の結晶が……! ありふれて、退屈で、ただの感想文ですってぇぇぇぇ!?」
(がっくりと両膝から崩れ落ちる一ノ瀬。その背中は、あまりにも悲壮感が漂っていた)
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