走れメロス(作:四方田 萌)
一ノ瀬「……ご都合主義……失格作品……」
(机に突っ伏し、小さく呻いている一ノ瀬。その隣で、二階堂がやれやれと首を振り、次の発表者を促した)
二階堂「部長はしばらくあのままにしておきましょう。……じゃあ、四方田さん。お願いするわ」
四方田「はいはーい! では、心して聞いてください! 部長の悲劇を、私の愛で塗り替えてみせますから!」
(四方田、スマホを掲げ、うっとりとした表情で朗読を始めた。その声には、自らの解釈への絶対的な自信が満ち溢れていた)
***
走れメロス
作:四方田 萌
目が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは、夜着のまま庭へ降り、妹のために催された宴の残骸を、色のない瞳で眺めた。これで、この村に縛られるものは、もう何もない。早く帰らねば。あの人の元へ。
三日前、王城での別れ際の光景が、今も鮮明に蘇る。
『この友、セリヌンティウスを、身代わりとしてお預けいたします』
そう告げた時、隣に立つ親友の手が、自分の腕を強く掴んだ。その指の力に、彼の声なき声が聞こえるようだった。『行くな』と。メロスは、彼の顔を見ることができなかった。あの、あまりに真っ直ぐな瞳に見つめられたら、全ての決意が揺らいでしまうから。
衛兵に引き立てられるセリヌンティウスは、最後に、凛として言った。
『待っている。お前を疑ったりはしない』
その声だけで、胸が締め付けられた。ああ、彼はいつだってそうだ。この俺の、身勝手で、嵐のような魂を、ただ一人、静かに受け止めてくれる。我が魂の半身。
メロスは、左手首につけられた、古びた革の腕輪を強く握りしめた。何年も前に、セリヌンティウスが「お守りだ」と言って結んでくれた、たった一つの宝物。
待っていろ、セリヌンティウス。必ず、お前の元へ帰る。
野を駆け、森を抜ける。頭の中は、友への想いで飽和していた。早く会いたい。その一心だけが、メロスの足を驚くべき速さで前へと進めていた。
だが、彼の前に、濁流が立ちはだかった。昨夜の豪雨で川は怪物のように猛り狂い、橋を跡形もなく破壊していた。
「なぜだ……!」
メロスは絶望に打ちのめされ、その場に立ち尽くした。神は、俺と彼を引き裂こうというのか。
その時、脳裏に一つの記憶が蘇った。少年時代、この川で溺れかけた俺を、必死の形相で助けてくれた、若き日のセリヌンティウスの姿。岸辺で、ずぶ濡れのまま、俺をきつく抱きしめ、彼は泣きそうな声で怒鳴った。
『馬鹿者! お前にもしものことがあったら、俺は……!』
その言葉の続きを、俺は知っている。あの時の、俺を失うことへの恐怖に歪んだ、彼の美しい顔。
「……そうだ。あの時、お前が俺を救ってくれた」
メロスは、革の腕輪にそっと口づけをした。
「今度は、俺がお前の元へ帰る番だ」
不思議と、恐怖は消え失せていた。愛する者の記憶が、濁流を渡る勇気をくれたのだ。メロスは躊躇なく流れに身を投じ、ただ対岸に待つ友の姿だけを思い描き、奇跡的に岸へとたどり着いた。
山道で、疲労困憊のメロスの前に、数人の山賊が躍り出た。
「待て。金目のものを置いていけ」
頭目らしい男が、下卑た笑みを浮かべる。メロスは、静かに首を振った。
「私には、友との約束がある。急いでいるのだ」
「友、だと? くだらん。男一人のために命を懸ける馬鹿がいるか。どうせ、ただの友人ではあるまい。シラクスの市でも噂になっていたぞ。お前たちの、その『特別』な関係はな」
その言葉に、メロスの纏う空気が、一変した。
「……黙れ」
地を這うような、低い声だった。
「貴様のような男に、彼と俺の絆の、何がわかる。彼の名を、その汚れた口にするな」
それは、己の神聖な領域を土足で踏み荒らされた者の、静かな、しかし底知れぬ怒りだった。その気迫に、山賊たちがたじろぐ。
「彼が俺をどう思っていようと、関係ない。俺が、彼をどう想っているか。それだけが、俺の真実だ。彼のためならば、俺は命など惜しくはない!」
それは、もはや理屈ではなかった。魂からの、愛の告白だった。その、あまりに純粋で、狂気じみたまでの想いの深さに、山賊たちは完全に気圧されていた。
頭目は、ごくりと喉を鳴らし、どこか遠い目をして呟いた。
「……はっ。昔を思い出すぜ……。俺にも、かつて、それほどまでに守りたい男がいた……。……いいだろう、行け。お前の愛が本物かどうか、見届けてやろうじゃないか」
山賊たちが、さっと道を開けた。メロスは、再び走り出す。その背中を見送りながら、頭目は「達者でな」と、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
日は、地平線に触れようとしていた。もう、間に合わぬかもしれない。メロスの足は感覚を失い、ただ前に進むという意志だけで動いていた。
ああ、セリヌンティウス。すまぬ。俺は、約束を守れそうにない。
メロスは、道端に崩れるように倒れた。悔し涙が、乾いた土に染みていく。
その時、どこからか、幻聴が聞こえた。
『メロス……』
彼の声だ。セリヌンティウスの声だ。
『何をぐずぐずしている。立て、メロス。お前は、俺との約束を破るような男ではないはずだ。早く、俺の元へ帰ってこい』
その、少し呆れたような、しかし絶対的な信頼に満ちた声は、どんな霊薬よりもメロスに力を与えた。そうだ。彼は待っている。俺が帰るのを。俺が彼の全てであるように、彼にとっても、俺が全てなのだ。
「セリヌンティウス!」
メロスは叫びながら、立ち上がった。もはや痛みも苦しみも感じなかった。ただ、愛する人の元へ帰りたいという、純粋な衝動だけが、彼の全身を支配していた。
市の広場は、黒山の人だかりだった。日没の狼煙が、まさに消えようとしている。人垣の向こうに、磔になった、愛しい人の姿が見えた。彼は、少しやつれていたが、その表情は穏やかで、まるでメロスが来ることを寸分も疑っていなかったかのように、静かに西の空を見つめていた。
その姿を見た瞬間、メロスの最後の理性が焼き切れた。人垣を獣のように突き飛ばし、広場の中央へと躍り出る。そして、その魂の全てを込めて、愛する人の名を呼ぶように、叫んだ。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た」
***
(四方田、朗読を終え、恍惚とした表情でスマホを胸に抱きしめる。やりきった、という満足感に満ち溢れている)
四方田「……どうですか!? これこそが、魂の結びつき! 物理的な困難なんて、真実の愛の前では些細な問題なんです! メロスが走った、たった一つの理由なんです!」
(自信満々に三人の顔を見る。しかし、部室は、やはり、生暖かく、なんとも言えない沈黙に包まれていた。最初に反応したのは、机からゆっくりと顔を上げた、一ノ瀬だった)
一ノ瀬「…………そう」
(その声は、怒りも悲しみも通り越して、ただ、虚無に満ちていた)
一ノ瀬「……そういう、ことなのね……。私の愛した、信実と尊厳の物語は……もう、どこにも……」
(それだけを呟くと、一ノ瀬は、再び、音もなく机に突っ伏した。その背中には、もはや何の感情も浮かんでいなかった)
四方田「え!? 部長!?」
三田村「……観測完了。メロスの行動原理は、論理ではなく、極めて高密度の情念データに起因する。『魂の共鳴同期(ソウル・レゾナンス・シンクロナイゼーション)』という新しいカテゴリーを提案する。理解は困難ですが、非常に興味深いサンプルです」
二階堂「はぁ……」
(二階堂、こめかみを押さえながら、心底呆れたように、しかしどこか諦めたように言った)
二階堂「なるほどね。あなたの解釈では、『愛』という名の万能エネルギーが、全ての障害を解決するわけだ。……ええ、認めるわ。あなたの世界では、それが『理』なのでしょう。物理法則の代わりに、『関係性の法則』で全てが動いている。……これ以上、論理で語るのは、無意味ね」
四方田「でしょー!? そうなんです! 愛こそが、この世の真理なんですよ! わかってもらえて、嬉しいです!」
(自分の解釈が受け入れられたと信じて疑わない四方田の笑顔が、部室の奇妙な空気に、やけに明るく響いていた)
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