松茸が1パック300円になった日
技術コモン
きのこの日、来たる
その日、東京国際会議場には異様な熱気が満ちていた。
「第42回 日本菌類学会秋季大会」。
例年であれば静かな専門学会。スライドと学術用語が飛び交い、
淡々と進む研究報告の連続。しかし今年は違った。
入り口の自動ドアが開くたび、フラッシュの光が閃き、
報道クルーが重たい機材を抱えて出入りしていく。
受付にはNHK、日報通信、YTV、さらにはネット配信メディアのロゴが踊り、
カメラがホールの隅々をなめ回すように映していた。
会場中央のメインステージには、白衣に身を包んだ男が静かに立っていた。
松 武雄——世界で初めて松茸の人工培養に成功した、菌類遺伝子工学者。
今年の学会の主役であり、“神の味覚を再現した男”として各紙の一面を飾った人物だ。
「本日は、ついに完成した“人工松茸栽培プロセス”の最終成果をご報告いたします」
その声は、PAシステムを通して澄んだ音でホールに響いた。
壇上のスクリーンには、暗い培養室でゆっくりと成長していく茶褐色の傘が映し出される。
土も山も不要。ステンレスの無機質な培養槽で育ったそれは、
しかし誰の目にも「松茸」そのものだった。
会場がざわつく。
取材エリアから「香りはどうなんですか?」と記者が声を飛ばす。
松博士は一拍置いてから、傍らに置かれた保冷ケースを開けた。
密封パックを開けた瞬間、空気が震えた。
——香る。
秋の深山、落ち葉に抱かれた芳香。それは確かに「松茸」の香りだった。
科学者の列に混じっていた料理研究家・香坂環が小さく息を呑んだ。
だが、彼が語るべき次の瞬間。壇上モニターが切り替わる。
「続いての講演は、
代謝工学研究者・注連竹 上太郎先生による“食品風味成分の異種菌体発現”について」
その名が読み上げられた瞬間、場の空気が微かに変わった。
会場の左手、壇上とは反対側の小ステージに、ラフなスーツ姿の中年男性が立つ。
手には1パックの「しめじ」が入った透明なトレイ。それをかざし、ニヤリと笑った。
「こちら、普通のぶなしめじ。でも、よく嗅いでみてください」
彼がパックのラップを剥がす。次の瞬間——会場が再び騒然となった。
香る。あの香り。松茸そのものの芳香が、確かに、しめじから漂っていたのだ。
「代謝導入により、しめじの細胞にマツタケオールの合成回路を導入しました。
つまり、この香りは自然じゃない。でも、美味しいでしょう?」
混乱と拍手が入り混じる中、竹富哲朗キャスターがそっと中継用マイクを口元に寄せた。
その表情は、いつもの報道の顔ではなかった。わずかに笑みを含んでいる。
彼の背後で、松武雄と注連竹上太郎が、それぞれの技術資料を閉じる。
「本日の発表をもって、両者の研究は理論上の完成を迎えましたが——」
竹富は間を置いた。
「実際の生産および販売は、来年の秋からとのことです」
ホールが再びざわめく。「まだ食べられないのか?」という失望と、
「来年が楽しみだな」という興奮が交錯する。
だが竹富は、報道カメラに向かって静かに言葉を紡いだ。
「香りの主役が、ついに舞台に立つ準備を整えました。
次の秋、日本の食卓はきのこで二分されることになるでしょう
——“本物”の香りをめぐる、新たな食の戦争です」
その映像は、同日の夜19時、YTV系列のニュース番組『Nステーション』でトップ扱いとなる。
「人工松茸と松茸風しめじ、来秋決戦へ」
——そんなテロップが、大仰なBGMとともに全国へと流された。
だがその瞬間、香りの争いはまだ、誰の舌にも届いていなかった。
世間が騒いでいるのは、味の記憶と、想像の中の香りでしかなかったのだ。
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