【第五十六章】 無音の終止符

 事件は、終わった。篠宮理玖はすべてを語り、幕は降りた。

 けれど、音の余韻のように、胸の奥で何かが鳴り止まなかった。残響のような違和感が、いぶきの鼓膜の奥にこびりついていた。

 旧講堂の舞台袖。人の気配がすっかり消えたあと、いぶきとミユはそこに留まっていた。積み重ねられた譜面台と、埃をかぶった椅子。そこに、かつて誰かがいた痕跡だけが、静かに残っている。

 「……これ、なんだろう?」

 ミユが足元の埃を払い、小さな銀色の犬笛を拾い上げた。

 「アヤメさんの?」

 いぶきはそれをそっと手に取る。装飾もない古びた金属の筒。だが、吹き口には微かに指紋が残っていた。見覚えがあった。アヤメがポケットに忍ばせていた小道具。

 「……最後にこれを使ったのかもしれないな」

 「でも、犬笛って……音、聞こえないよ?」

 「だから、だよ」

 いぶきは犬笛を掌に包んだ。

 「誰にも聞こえない音で、謝ろうとしたんだ。……たぶん、ルカさんに」

 ミユは何も言わなかった。ただ、静かにその笛を見つめていた。音楽を呪い、でも捨てられなかった少女の面影が、その無音の筒に宿っているようだった。

 「……ルカさんにだけは、届いていたのかもしれないね」

 そう言ったのは、舞台の奥から姿を現した詩音だった。

 「詩音……」

 ミユが声を漏らす。

 詩音は、舞台袖の隅に背を預けていた。肩をすくめるようにして、そっと視線を犬笛へと落とす。

 「私、ここに来るの、怖かった。あのときも、あなたたちと一緒にいたはずなのに……あの場所だけ、どうしても足がすくんだんです」

 「……なぜ?」と、いぶき。

 詩音は目を閉じた。しばらくの沈黙ののち、淡く、言葉を繋いだ。

 「私……ルカと仲が良かったんです。あまり誰にも言わなかったけど。彼女と一緒に、篠宮先輩に勉強を教わっていました。数学とか、物理とか……音の構造のことも」

 いぶきの表情が、わずかに動いた。

 「……じゃあ、“R.L.”の意味も」

 詩音は、静かにうなずいた。

 「“Riku's Lecture”。彼がつけた、いわばメモの署名みたいなものです。初めて見たとき、彼は笑いながら言ってました。『講義っぽいだろ?』って。……でも、それがルカのロッカーにも、あの封筒にも書かれてた」

 彼女の声音に、震えが混じった。

 「……だから、私は知ってたんです。あの“記号”が意味するものを。なのに、誰にも言えなかった」

 「……怖かったんだね」

 ミユの言葉に、詩音はかすかにうなずいた。

 「ええ。だって、ルカが……まさか、そんな形で死ぬなんて思ってもなかった。あの“R.L.”が、呪いでも暗号でもなくて、もっと……私たちの、ごく普通の日々の一部だったなんて」

 いぶきはそっと犬笛を掲げ、舞台の光の中にかざした。銀色の細い管が、静けさの中で鈍く光った。

 「……音って、面白いよな。聞こえなくても、届く。忘れても、残る。……人の記憶に」

 誰も返事はしなかった。ただ、旧講堂の高い天井に、音もない残響が漂っていた。

 やがて詩音が、小さく微笑んだ。

 「ねえ、いぶき君。……ありがとう。誰にも言えなかったこと、今こうして話せて、少しだけ、肩の荷が降りた気がします」

 「それは、音と一緒かもな」

 「え?」

 「鳴り終えた音は、どこかに消える。でも、そのあとに残る静けさこそが、ほんとうの“終止形”なのかもしれない」

 舞台の照明は、もう落ちていた。だが、窓の外から差す光が、三人の影を柔らかく照らしていた。

 音が完全に消えたとき、静けさがその代わりを担う。

 そして、その静けさの中にこそ――“本当の答え”があった。

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