【第五十三章】 完璧の誤算

「おそらく、Bluetoothとともに、この基盤も……篠宮さんは夜のうちに回収したかったんだと思います」

 いぶきはそう言いながら、ゆっくりとペダルの下へと視線を落とした。

「でも――できなかった」

ミユが、いぶきの横顔を見つめる。

「……どうして?」

 いぶきは、ほんのわずかに目を伏せた。

「理由は、二つある。……一つ目は、物理的に不可能だったこと」

 間を置いて、言葉を選ぶように続ける。

「装置はペダルの裏側に、強力な接着剤とネジ止めで、完全に固定されていた。簡単に取り外せる構造じゃなかったんだ」


静かな沈黙。

ミユが、少し考えるようにして言った。


「シャッターが閉まって入れなかったとか、そういう理由じゃないの?」


 その問いに、いぶきはわずかに首を横に振った。


「自分で言ってただろ?――シャッターの開閉は、チャイムに連動してるって」


 いぶきはそこで言葉を切り、ゆっくりとミユの目を見た。


「PAのスピーカーからは……本物と似た音が出るけど、シャッターは動かない。……音そのものじゃなくて、“本番チャイム”を流すときにだけ、PAが制御信号を出してるんだ」


 ミユは目を見開いた。


「じゃあ……音を偽装しても、シャッターは誤作動しないってこと?」


「そう。誰かが“偽チャイム”で人をだましたとしても、設備自体は――騙されない」


「……つまり、スピーカーから“チャイムそっくり”の音が流れても、システムは“これは偽物”って、ちゃんと見分けてる」


「そう。だから……旧講堂のシャッターは――ずっと開いたままだった。犯人は……最初から、いつでも出入りできたってことです」


 「そして、二つ目の理由が一番大きい。……論理的に、戻れなかった」

 ミユの眉がわずかに動く。

 「“零時ちょうど”に鳴ったチャイム。篠宮さんは、それを偽装した。みんなの時計が“零時”に揃ったあの瞬間、自分は生徒会室にいたと証明できるように」

 「……その“零時”という共通認識が、アリバイを作ったのね」

 さやかの問いにいぶきは頷く。

 「だからこそ、講堂には戻れなかった。戻って機器を外せば、自分のアリバイが崩れる。つまり――自分が仕掛けた時間トリックに、自分が縛られてしまったんです」

 「皮肉な話ね……」

 さやかは息を吐く。

 「ええ。そして、朝になってから回収しようとしたときには――すでに遅かった。警察が“遺体を旧講堂で発見した”という報が流れ、現場は即座に封鎖された。さらには、監視カメラの設置。そのときから、二度と中には戻れなくなった」

 いぶきは、最後に静かに言い切った。

 「だから、Bluetoothと回路の痕跡はそのまま残された。アリバイのために“仕掛けた嘘”が、逆に“真実の証拠”になったんです」

沈黙が、数秒だけ続いた。

 それを破ったのは、さやかの落ち着いた声だった。

「……シャッターが閉まっていたはずだという認識と、死因が心室細動。警察もすぐ“事件性なし”と判断したことで、遺体の周辺を深く調べることもなかった。通電装置の存在にも――気づかなかったんだろうね」


 誰もが、ペダルの下を見ていた。何もない空間に、いまも電流が潜んでいるような錯覚。

 そして――篠宮は、ただ沈黙を貫いたまま、微動だにしなかった。

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