【第五章】 響かない残響
朝の音楽棟は、独特の緊張感に満ちていた。
音があふれているのに、どこにも感情がない。
響きはあっても、残響がない――いぶきはそんな風に感じていた。
昨日の深夜、旧講堂の前で録音した音。
それは確かに存在した。だが、録音機に残されたデータは曖昧だった。
音なのか、振動なのか、錯覚なのか。いぶき自身にも判別がつかない。
ただ、その“気配”だけは、今も身体に残っている。
「……あんた、ホントに行くの?」
ミユが言った。校舎の階段を下りながら、何度目かの確認だった。
「名前、真壁蒼汰。機材にやたら詳しい一年。だけど、さやか先輩とは真逆の“感情ゼロの理屈人間”って感じ。会話が成立するかどうかは運次第」
いぶきは軽くうなずき、録音機をポケットにしまった。
新校舎の地下。使用停止とされている第二録音室には、注意書きもロックもなかった。
扉を開けると、冷たい空気と微かな電子音が漏れてくる。モニターの前に座る少年の背中が、青白い光に浮かび上がっていた。ヘッドホンを二重に首にかけ、キーボードを指先で軽やかに叩いている。
「……真壁蒼汰くん?」
いぶきが名を呼ぶと、椅子がゆっくり回転した。やや長めの前髪が揺れ、細身の少年がごく自然に応じた。
「君が、有馬いぶき?」
「ああ。転入してきたばかりなんだが、ちょっと見てもらいたい音があって」
いぶきは録音機を差し出した。
「旧講堂の前で録った。夜中に、妙な“音”がしてな。……音というより、気配に近かったかもしれない」
真壁は無言で録音機を受け取ると、迷いなくモニターに接続した。
その動作の合間、いぶきは室内のキーボードに目をやる。
「それ、チューニングは440?」
何気なく尋ねると、真壁が「うん」と頷く。
「最近は大体そうだよ。電子音源も基本その設定だし」
「……俺は442が好きなんだ。立ち上がりが、ちょっと鋭くなる気がして」
真壁は意外そうに目を細めた。
「感覚派ってわけか」と口には出さなかったが、眉にそう書いてあった。
再生が始まり、画面に波形が浮かび上がる。スピーカーからは何も聞こえない。ただ、解析モニターに映る線だけが、微かにうねる。
「……これ」
真壁が小さく呟いた。
「聴こえないのに、形だけは残ってる」
「つまり、どういうことだ?」
「はっきりとは言えないけど……普通の音じゃないのは確か。たとえば、ほとんどの人には聴こえないけど、機械だけは反応する。そんな“音らしきもの”がある」
「幽霊の声、みたいな?」
ミユが冗談めかして言うと、真壁は首を振ったが、目は冗談ではなかった。
「科学で説明できない現象って、案外あるんだよ。……でもこれが“何か”を伝えようとしてるなら、それは音という“形”を借りてるだけかもしれない」
室内の空気が、すっと静まった。
「旧講堂ってさ……本当に、無人だったのかな」
真壁の声は独り言のようだった。
「もちろん、機材は全部停止中のはずだし、こんな時間に人の出入りはない。だけど、こういう“痕跡”が残るってことは……誰かがいたんじゃなくて、“何かがそこに在った”ってことなんじゃないかな」
いぶきは黙って波形を見つめていた。あの夜、背中に感じた視線――あれは、ただの気のせいではなかった。
「……この音、録れてしまったのが逆に不気味だな」
「うん。“幽霊は写らない”ってよく言うけど――もしそれが“音”で届く存在なら、最初に現れるのはこういうノイズかもね」
沈黙のあと、いぶきは小さく礼を言った。
「ありがとう。少し整理ができた。……この“何か”が、何を伝えたいのか、考えてみる」
「“何か”がね」
真壁はその言葉を、どこか楽しげに反芻するように口にした。
録音機を手に再び地上へ戻ったとき、外の空気は朝よりも湿り気を帯びていた。
音は、もう聴こえていなかった。
けれども、身体のどこかに、まだ“誰かの気配”がこびりついている気がしてならなかった。
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