リコレクト:君をもう一度、見つけるために
五平
第1話:記憶の断片と見慣れない君
朝、目覚めると、見慣れたはずの自分の部屋の天井がそこにあった。しかし、やはり昨日までの記憶は、高性能な消しゴムで消されたかのように、ごっそり抜け落ちていることを、蓮見レンは肌で感じた。枕元に置かれたスマホを手に取り、日付と今日の予定を確認する。毎日欠かさない習慣だ。ディスプレイに表示された文字をなぞる指先が、わずかに震える。そこに記されたスケジュールも、友人の名前も、すべてが「知らない情報」として目に映る。この「リセット」された感覚は、レンにとって既に日常の一部と化していた。慣れきった諦めが、いつも彼の心を覆っている。
だが、今日はなぜか、いつもよりも胸の奥に漠然とした「ざわつき」があった。鉛のように重い、説明のつかない不快感が、朝からレンを蝕んでいた。それは、まるで忘れ去られたはずの何かが、無理矢理記憶の扉を叩いているかのような、切迫した焦燥感だった。
歯磨き、洗顔、制服への着替え。体が覚えているルーティンを機械的にこなす。鏡に映る自分の顔をじっと見つめるが、そこに映るのは、どこか疲れたような、しかし諦めを含んだ表情。しかし、その瞳の奥には、今日に限って微かな戸惑いが宿っている。朝食の準備。トーストを焼き、コーヒーを淹れる。簡単なメニューだが、これも無意識に体が覚えている動きだ。一口食べると、焼きたてのトーストの香ばしさと、コーヒーの微かな苦味が、なぜか胸を締め付けるような、説明のできない感情を呼び起こした。それは、遠い過去に誰かと分かち合った、温かい食卓の記憶の、ほんの一片のような感覚だった。
家を出る。通い慣れたはずの道なのに、視界に入る景色は常に新鮮で、同時にどこか見知らぬ場所に感じる。風が頬を撫でる度に、何かを語りかけているようにさえ思えた。他の学生たちが楽しそうに談笑しているのが聞こえる。彼らには昨日までの記憶があり、積み重ねてきた関係がある。自分にはそれがないことへの、深く冷たい孤立感と、拭い去れない諦め。しかし、今日のレンは、いつものように周囲に無関心ではいられない。胸のざわつきが、周囲の音や景色をいつもより鮮明に、そしてどこか意味深に感じさせていた。
教室に入る。いつものように賑やかなクラスメイトの声が耳に響く。自分の席に着き、鞄を置く。周囲を見渡すが、やはりほとんどの顔と名前が一致しない。
そんな中、レンの視線は、まるで磁石に吸い寄せられるように、クラスの隅、窓際の席に座る一人の女子生徒に固定された。長い前髪が顔にかかり、ひっそりと本を読んでいる。咲良。レンの記憶には、彼女の存在はほとんどないはずだ。これまでも何度か見かけたことはあっただろうが、意識に留まることはなかった。
しかし、その彼女の姿を見た瞬間、レンの胸のざわつきが、心臓が跳ねるように強く脈打った。まるで、忘れ去られた大切な何かを、今にも思い出しかけているような、もどかしい焦燥感が全身を駆け巡る。
予鈴が鳴る前のざわめきの中、咲良がゆっくりと立ち上がり、レンの席へ向かってくる。手に、丁寧に折りたたまれたメモを持っている。レンの前の席まで来ると、咲良はそっとメモを差し出した。
「これ、蓮見くんに」
その声は、小さくて、しかしどこか澄んでいて、レンの耳に妙に残った。まるで、ずっと昔から、この声を聞き続けていたかのような、不思議な響きがあった。レンは思わず、その声に導かれるように顔を上げた。咲良の瞳は、彼の動揺を見透かすように、しかし優しく、彼を見つめていた。その視線が、レンの記憶の扉を叩く。メモを受け取ると、咲良は何も言わず、すぐに自分の席へ戻っていく。その背中は、なぜか少しだけ震えているように見えた。レンは、その小さな震えに、無意識に心を掴まれた。
レンはメモを開く。そこには、シンプルだが丁寧な文字で短い文章が書かれていた。
『いつも通り、ここに置いておくね。もし、何か困ったことがあったら、いつでも声をかけて。咲良より』
「いつも通り」。その言葉に、レンは強い違和感を覚える。俺の「いつも通り」に、なぜ君がいるのか?自分には昨日までの記憶がない。なのに、「いつも通り」とは、一体何なのか?そして、「咲良」という名前に、再び胸の奥がきゅっと締め付けられるような、説明できない「既視感」が襲った。単なる言葉ではない、もっと深い感情的な繋がりを、この名が示唆しているような感覚。それは、まるで魂の奥底に刻まれた、忘れえぬ名前であるかのような響きだった。レンは、もう一度咲良の背中を見る。彼女の肩が小さく震えているように見えたのは、自分の気のせいだろうか。その小さな背中に、レンは漠然とした「重荷」のようなものを感じた。
授業中、レンは意識せずとも、時折咲良の様子を盗み見た。彼女は真面目に授業を受けているように見えるが、ふとした瞬間に、レンの方に視線を向けているような気がする。そして、目が合うと、すぐに逸らされる。その視線は、まるで何かを隠しているかのような、しかし同時に、深い悲しみを湛えているような、複雑な感情を宿していた。レンは、なぜこんなにも彼女が気になるのか、自分でも分からない。ただ、その瞳の奥に、自分の知らない「真実」が隠されているような予感がしてならなかった。
昼休み。レンは購買でパンを買う。いつもの「焼きそばパン」を手に取った瞬間、また微かなデジャヴに襲われた。それは、誰かとこのパンを分け合ったような、温かい記憶の残滓のようなものだった。教室に戻ると、咲良が、やはり静かに自分の席で食事をしている。周囲に溶け込んでいるようで、しかしその存在は、どこか浮世離れしている。
その時、クラスの男子生徒が不注意でレンのロッカーにぶつかり、ロッカーが大きく傾ぐ。中身が散乱する寸前──
咲良が、まるで予知していたかのように素早く反応し、ロッカーを片手で支えた。静かながら素早い動作で、まるで何度もこの場面を経験したような反応だった。レンは驚き、目を見開いて咲良を見る。「お前、誰なんだよ…」心の中でそう呟く。彼女は普通のクラスメイトではない、という確信がレンの中に強く生まれ始める。不信感が募る一方で、危機一髪で助けられたことへの、説明のつかない「安堵」が、レンの胸に広がる。咲良は、レンの視線に気づくと、何も言わずに自分の席に戻っていく。その顔には、一瞬、深い諦めのような表情が浮かんでいた。その表情は、まるで何度もこの状況を繰り返してきたかのような、疲労と諦念を含んでいた。
放課後、レンは特に目的もなく、図書館で時間を潰していた。ここでも、咲良がいた。彼女は、少し離れた席で、真剣な表情でノートに何かを書き込んでいる。そのノートの表紙には、見慣れない記号が描かれているように見えた。レンは、さっきのメモのこと、昼間のロッカーの件を思い出し、じっと彼女の横顔を見つめる。その静かな横顔からは、深い集中と、何かを懸命に記録しようとする意志が感じられた。すると、ふいに咲良が顔を上げた。レンと目が合う。彼女の瞳は、まるで深い湖のように静かで、レンの知らない感情が宿っているように見えた。レンはすぐに目を逸らしたが、その視線は、彼の心に深く刺さった。それは、まるで彼の知らない過去から、彼をじっと見つめ続けていた視線のように感じられた。
校門を出たところで、後ろから声をかけられた。
「蓮見くん」
振り返ると、そこにいたのは咲良だった。夕日が彼女の長い前髪を金色に染め、その表情を少しだけ柔らかく見せていた。
「あの、もしよかったら、これ」
彼女が差し出したのは、可愛らしいリボンで飾られた、小さな包みだった。中には、手作りのクッキーが入っているのが、包み越しにも分かった。その包みから、微かに甘い香りが漂い、レンの心臓がまた妙にざわつく。
「いつも、その……忘れるから、これで少しでも、元気になってくれたらって」。
咲良の声は小さく、しかしその言葉には、途方もない優しさと、そして深い悲しみが滲んでいた。レンの胸に、その言葉が突き刺さる。「忘れる」。そう、俺は毎日、全てを忘れてしまう。そんな自分に、なぜ彼女はこんなにも尽くしてくれるのか。理解できない咲良の献身に、レンの心は激しく揺さぶられた。
「……なんで、俺なんかに、こんなことするんだ?」
思わず、感情が乗りすぎた言葉が口から出た。咲良は、一瞬だけ寂しそうな顔をしたけれど、すぐにいつものように、ふわりと微笑んだ。その微笑みが、レンの胸を締め付けた。まるで、彼女がどれだけこの言葉を言われ続けてきたかを物語っているかのようだった。
「いつか、思い出してくれるって、信じてるから」。
その言葉は、まるで何十年も繰り返されてきた祈りのようだった。咲良は、レンの返事を待たずに、そっと背を向けて歩き出す。その背中が、夕日に照らされて、ひどく小さく見えた。彼女の背中からは、測り知れないほどの「覚悟」と「諦め」が滲み出ていた。
レンは、その場に立ち尽くしたまま、遠ざかる咲良の背中を見つめていた。手の中のクッキーの包みが、じんわりと温かい。その温かさが、彼の心にじわりと染み渡る。
何かが、ずっと昔から、この胸に引っかかっているような気がする。この、記憶の抜け落ちた日常の中で、彼女だけが、唯一の「異物」として、レンの心に存在していた。その異物が、彼の日常に、決して消えない波紋を広げ始めた。
クッキーを一口食べる。その甘さが、なぜか懐かしく、そして少しだけ悲しい味がした。それは、過去の優しい記憶の味がした。
「咲良……」。小さく呟いたその名前が、レンの記憶の奥底に、微かな波紋を広げる。彼は、この名に、自分がなぜこんなにも惹きつけられるのか、その理由を探らずにはいられなかった。
今日という日も、明日になればすべて忘れてしまうだろう。しかし、この胸に残るざわつきと、咲良の言葉だけは、なぜか消え去らない予感がした。
レンは空を見上げる。夕焼けが空を赤く染めている。その赤色が、レンの胸の焦燥感を煽るようだった。
明日、また記憶は消える。それでも、俺は、この咲良という少女の謎を解き明かしたい。彼女は一体、何者なのか?そして、俺と彼女の間に、一体何があったというのか?物語は、レンが「知らない日常」と、その中に確かに存在する「咲良」という、最も大きく、そしてかけがえのない謎に、不可避的に引き寄せられていく。この日から、彼の記憶を巡る、逆転の真実が始まる。
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■ 次回予告
第2話:香りが呼ぶ、見知らぬ絆
クラスの片隅に息を潜める彼女の香りが、記憶を失った蓮見レンの心に、奇妙な波紋を広げる。
なぜ、俺は君を知らないのに、こんなにも心が揺れるのか──。
明かされる、もう一つの「日常」。
次週、『リコレクト:君をもう一度、見つけるために』、お楽しみに。
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