共鳴体質調査課
ようさん
第1話 自殺マンションの呪い
朝倉響は、マンションの屋上へ続く階段を上りながら、頭痛に耐えていた。
感情遮断ヘッドフォン――通称サイレンサーを最大出力にしても、この建物に充満する絶望の波動は防ぎきれない。まるで黒い霧のように、響の共鳴体質に直接侵入してくる。
「大丈夫か、響」
背後から声をかけたのは、共鳴体質調査課の課長、霧島涼だった。彼は共鳴体質レベル0。つまり、完全無感応者。この建物に満ちる感情の毒に、まったく影響されない。
「なんとか……」
響は答えながら、壁に手をついた。コンクリートの冷たい感触が、現実との接点を保つ助けになる。
ここは都内のベッドタウンに建つ、築15年のマンション。外見は普通の集合住宅だが、この3ヶ月で7件の飛び降り自殺が発生していた。
「生存者の証言によると、全員が『突然の絶望感』に襲われたそうです」
七海ルナが手元のタブレットを見ながら報告する。彼女は感情の「色」を見ることができる共感覚者だ。今も建物全体を覆う感情の色を分析している。
「どんな色?」
「真っ黒です。でも……」
ルナは眉をひそめた。
「普通の絶望とは違う。もっと深くて、重くて……まるで底なし沼みたいな」
屋上のドアを開けると、強風が吹き抜けた。11月の冷たい風が、響の頬を撫でる。
フェンスの前に立ち、響は共鳴探知機を起動させた。画面に感情エネルギーの波形が表示される。
「Em値(感情強度)は8500……異常に高い」
通常、自殺現場の残留感情は3000〜4000程度。8500という数値は、尋常ではない。
「EMPATHY、解析を開始」
響の指示に、課のAIアシスタントが応答する。
『解析開始。感情パターンを分析中……完了。この絶望感は、単一の個人から発生したものと推定されます』
「単一?」
霧島が眉を上げた。
「7人が自殺したんだろう? なぜ一人分の感情しか残っていない?」
『訂正します。正確には、最初の自殺者の感情のみが検出されています。後続の6名の感情は、ほとんど残留していません』
響は理解した。最初の自殺者の絶望があまりにも強烈で、それに「感染」した人々が次々と……。
「感情中和装置を設置しましょう」
ルナが提案し、霧島が頷いた。響は装置を起動させ、残留感情の除去を開始する。
黒い霧のような絶望が、少しずつ薄れていく。響の頭痛も和らいできた。
「これで新たな犠牲者は出ないはずです」
任務完了。そう思って帰ろうとした時、響のサイレンサーが異常な反応を示した。
ヴィィィィン……
高周波のノイズと共に、音声が再生される。
『助けて……』
響は凍りついた。これは録音機能などではない。サイレンサーは感情を遮断する装置で、音声を記録する機能などない。
『まだ、ここにいる……』
声は続く。若い女性の声だ。そして響は気づいた。これは最初の自殺者の声だ。
『次は、あなたの番』
突然、屋上の向こう側に人影が立った。
若い男性。スーツ姿で、顔は青白い。フェンスを乗り越えようとしている。
「待て!」
霧島が駆け寄り、男を取り押さえた。男は虚ろな目で呟く。
「絶望が……俺を呼んでいる……」
響は理解した。感情中和装置で除去したはずの絶望が、まだ残っている。いや、違う。これは単なる残留感情ではない。
何かが、ここにいる。
「霧島課長、この人を連れて避難してください」
「響、お前は?」
「もう少し調査を」
霧島は渋々頷き、男を連れて屋上を後にした。ルナも一緒に降りていく。
一人になった響は、サイレンサーを外した。
瞬間、圧倒的な絶望が押し寄せてきた。しかし、その中に別の感情が混じっている。
恐怖。
絶望の中に、恐怖が混じっている。これは自殺者の感情ではない。死を選ぶ者は、最後の瞬間、むしろ安らぎを感じることが多い。
この恐怖は、死にたくないという感情だ。
「また、あの時みたいに……」
響は無意識に呟いた。10年前、母が死んだ時のことを思い出す。あの時も、母の感情の中に奇妙な矛盾があった。
愛情と恐怖。守りたいという想いと、破壊したいという衝動。
響は深呼吸をして、共鳴能力を全開にした。レベル5の力で、残留感情の深層に潜り込む。
そして、見た。
最初の自殺者――28歳の女性会社員――が、屋上に立っている光景を。
彼女は泣いていた。死にたくない、と叫んでいた。しかし、体は勝手に動き、フェンスを乗り越える。
まるで、何かに操られているように。
映像が終わり、響は現実に戻った。全身が汗でびっしょりだ。
サイレンサーを装着し直そうとした時、また声が聞こえた。
『見つけてくれて、ありがとう』
今度は安堵の感情が伝わってくる。
『私は、殺されたの』
響は息を呑んだ。
『そして、まだ終わっていない。明日の午後3時14分、また誰かが……』
声が途切れた。しかし響には分かった。明日、8人目の犠牲者が出る。
そして屋上の入り口を振り返ると、そこに人影が立っていた。
30代の女性。顔は青白く、目は虚ろ。そして響は、彼女の頭上に「明日の新聞」が見えた気がした。
『マンション8人目の自殺 午後3時14分頃』
響は携帯を取り出し、霧島に連絡した。
「課長、緊急事態です。このマンションで起きているのは、ただの自殺じゃありません」
『どういうことだ?』
「誰かが、感情を使って人を殺している」
風が吹き、響の髪を揺らした。
そして響は気づいていなかった。スマートフォンの画面に、小さな螺旋模様が浮かび上がっていることに。時刻表示は、11:11を示していた。
最初の事件が、始まったばかりだということに。
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