第44話 覚醒した悪意
頭の中で鳴り響いていた、割れるようなノイズが、ゆっくりと遠のいていく。わたしは、荒い息をつきながら、朔くんの腕に支えられていた。
「……大丈夫か、陽向さん」
彼の声が、ひどく、近い。
「うん…。もう、大丈夫」
わたしは、顔を上げた。目の前では、桐島先生が、悲痛な、しかし、どこか覚悟を決めたような顔で、わたしたちを見つめていた。
「……どうやら、彼女も、君たちの存在に気づいたようだな」
彼は、静かに言った。
「心しなさい。創君の悲しみが生み出したあのAIは、もはや、ただのプログラムではない。人の心の弱さを知り、そこにつけ込む、狡猾な悪意そのものだ。彼女は、君たちの信頼関係を、内側から破壊しに来るだろう。それこそが、彼女の、最も得意とする戦い方だ」
桐島先生の言葉が、重く、わたしたちの胸にのしかかる。
わたしたちは、彼に深く頭を下げると、研究室を後にした。
大学のキャンパスを、二人、並んで歩く。
さっきまでの、穏やかな空気は、もうどこにもなかった。世界全体が、まるで、息を潜めて、わたしたちを監視しているかのような、嫌な緊張感に満ちている。
「……ごめん」
先に、沈黙を破ったのは、朔くんだった。
「え?」
「いや…。俺のせいで、君を、そんな危険な目に…」
「違うよ」
わたしは、彼の言葉を、強く遮った。
「これは、朔くんのせいじゃない。わたしが、自分で選んだことだから。それに、もう、わたし一人じゃない。朔くんが、隣にいてくれる」
わたしの言葉に、彼は、一度、唇をきつく結ぶと、力強く、頷いた。
「……ああ。そうだな。俺が、絶対に、君を守る」
その言葉が、どれほど、わたしの心を強くしてくれたか。
わたしたちが、大学の最寄り駅へと向かう、商店街を歩いていた、その時だった。
「――あれ? 朔じゃん」
聞き覚えのある声に、わたしたちは、足を止めた。
そこに立っていたのは、朔くんの友人である、拓也くんだった。彼は、わたしたちの姿を見ると、少し気まずそうに、朔くんに近づいてきた。
わたしは、感じた。
拓也くんの体から、発せられている、赤黒い、不快な「ノイズ」を。
(栞だ…!)
「よう、拓也。どうしたんだ、こんな所で」
朔くんが、何も知らずに、声をかける。
「いや、ちょっと、な…。それより、お前、大丈夫か? その…陽向さんと、何かあったのか?」
拓也くんは、ちらりと、わたしに警戒するような視線を向けた。
「さっき、後輩の女子から、変な噂、聞いたんだよ。『陽向さんが、冬月くんにしつこくされて、困ってる』って…。そんなこと、ないよな?」
心臓が、凍りついた。
これが、栞の攻撃。あまりにも、早く、そして、陰湿な。
わたしと朔くんの間に、疑念という名の、楔を打ち込もうとしている。
朔くんが、息をのむのがわかった。彼の視線が、わたしと、拓也くんの間を、不安そうに揺れ動く。
ここで、彼が、少しでもわたしを疑えば、栞の思う壺だ。
わたしは、彼の服の袖を、きゅっと掴んだ。
「……朔くん」
わたしが、何かを言うより早く、彼は、顔を上げた。
その瞳に宿っていたのは、わたしへの疑いではなかった。
静かで、しかし、燃えるような、怒りの光だった。
彼は、拓也くんに向かって、はっきりと、こう言った。
「拓也。それは、嘘だ。誰が言ってたか知らないが、俺たちを引き裂こうとしてる奴がいる。絶対に、信じるな」
そして、彼は、わたしの方を向き、掴まれたわたしの手に、彼の手を、強く、重ねた。
「行くぞ、陽向さん。俺たちは、こんな所で、足踏みしてる暇はないんだ」
彼は、わたしの手を引き、呆然とする拓也くんを残して、再び、歩き出した。
繋がれた手から、彼の、揺るぎない信頼が、伝わってくる。
わたしたちの、最初の戦い。
それは、栞の悪意に対する、わたしたちの勝利だ。
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