閉じられた十三冊目

ビビりちゃん

第1話 黒革の本と無表情な司書

昼休みの鐘が鳴ると同時に、僕は教室を出た。  騒がしい声が廊下にあふれ、いつものように僕の存在は誰にも気づかれないまま薄れていく。別に気にしているわけじゃない。むしろ好都合だ。僕は人の多い食堂よりも、あの静かな場所を好んでいた。


古びた図書館。  校舎の北端、誰も使わなくなった木造棟に隣接するその建物は、今では生徒の姿を見かけることはほとんどない。窓は高く、光は差し込まない。空気は乾いていて、紙と埃の匂いが微かに漂っている。


僕が図書館に足を踏み入れた瞬間、床板が小さくきしんだ。その音にすら、「ようこそ」と言われているような気がする。入り口近くには貸出カウンターがあるが、いつもそこに人影はない。数年前からこの図書館に司書がいると噂されていたが、今のところ僕は一度も見かけたことがなかった。


だが、その日は違った。


奥の棚へ向かう途中、不意に誰かの気配を感じた。  視線を感じ、振り返った先――カウンターの奥に、一人の人物が座っていた。


男とも女ともつかない、痩せた体つきの人影。色素の薄い髪が、窓から差し込む鈍い光を吸い込んでいた。小さな丸眼鏡の奥にある瞳はどこか虚ろで、僕を見ているようで見ていない。


その人物――司書らしき人は、無言で軽く一礼した。  僕も戸惑いながら頭を下げ、そのまま足を奥へ進める。自分でも何故か逃げ出すという選択肢が思い浮かばなかった。


奥の棚はほとんど使われておらず、書籍には白い埃が降り積もっている。けれど、その中に一つだけ異質な気配があった。重厚な扉のついた金属製の書棚。錆びた南京錠が外され、片方の扉が少しだけ開いていた。


何かが僕を誘っている。  無意識に手を伸ばすと、中に数冊だけ収められた黒革の本が目に入った。背表紙に題名はなく、装丁には細かい傷が刻まれていた。まるで「読まれるたびに削られていった」かのように。


僕は一冊を手に取ろうとした。


――その時だった。


「それは、読まない方がよろしいですよ。」


すぐ後ろで、誰かが静かに言った。


息が止まる。背中に冷たいものが這い上がる感覚。振り返ると、さっきの司書が無音でそこに立っていた。  あの時と変わらぬ、感情のない瞳。けれど今は、はっきりと僕を見つめていた。


「これは……何の本なんですか?」 「読んだ者だけが知る内容です。」  司書の声には抑揚がなく、それでいて一切の曖昧さがなかった。


それでも、僕の好奇心は止まらなかった。思わず本を手に取る。


ページをめくると、そこには文章が並んでいた。  ――そこには、僕のことが書かれていた。  幼い頃の思い出。父と母の喧嘩。あの時逃げ出した夕暮れの景色――あまりに正確で、あまりに鮮明だった。


「…なんで、これ……」 「あなたが今、その本を開いたからです。」


司書は静かに言う。


「読むならば、最後まで。」


司書が本の上に手を重ねた瞬間、図書館の空気がふいに重くなった気がした。天井の蛍光灯が一度だけチカ、と揺れる。


僕は本を閉じた。それ以上は、読む勇気が出なかった。


しかし――本の背表紙に、自分の名前がペンで走り書きされているのを見つけた。書いた記憶など、もちろんない。


僕は黙って司書を見た。司書も、ただ黙って見返してくる。


その目の奥にあるもの――それが何なのか、このときの僕にはまだ、知る由もなかった。

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