無音の共鳴

その日の帰り道、琴音の耳には“音”が戻っていた。

けれど、あのカフェで感じた静寂の深さを思い出すたび、彼女の心はわずかにざわめいた。

日常の喧騒に身を投じてみても、ふと胸の奥に“何か”が聴こえてしまうような――そんな感覚だった。


それから何度か、彼女は放課後になると自然に「カフェ・サイレント」へ足を運ぶようになっていた。

凛太朗との“静かなセッション”は日々の楽しみになり、彼の描く世界に触れることで、琴音の内面も少しずつ解きほぐされていった。


その日も、ふたりはテーブルを挟んで座り、それぞれの音を描いていた。

凛太朗のスケッチには、前よりも明るい色が多くなった気がする。琴音は、彼にそっとメモ帳を差し出した。


 ¦最近のあなたの絵、なんだか前より弾んでる気がします。


凛太朗は少し首を傾げてから、筆を取り、こう返した。


 ¦君と描いてると、音が増える。

 ¦世界が、少しだけ広がる。


琴音はその言葉に、不思議なあたたかさを感じた。

彼の持つ静けさは、単なる“音のなさ”ではなく、たしかに心の深いところで響いている音だった。


ふと、彼女は思い立ち、スマホから一曲――以前お気に入りだったクラシックの旋律をスピーカーに流しかけて止まった。

音を出すことは、この場所では禁じられている。

だがそのとき、凛太朗が軽く手を上げて“いいよ”と頷く仕草を見せた。


音が空気を震わせ始める。店内に流れる旋律は柔らかく、けれど確かにその空間の“沈黙”を破った。

しばらくして音楽が終わると、凛太朗は目を閉じて、そっと微笑んだ。


 ¦僕には音は聴こえない。けど、振動と色で“感じた”。

 ¦君が、心から好きな曲なんだね。


琴音は驚いた。言葉にせずとも、伝わったのだ。

“音”という媒体を超えて、感情が響いた瞬間。


彼女は静かに頷いた。

この静けさの中にこそ、ほんとうの共鳴がある。

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