空想旅行
シロツメ
第1章 草の駅と花を待つ子ども
列車の中で、僕たちは並んで座っていた。
どれくらい前からこうしているのか分からない。気づけば隣に少女がいて、気づけば外は草原になっていた。
誰かが窓を開けたわけでもないのに、草の香りがほんのかすかに漂っていた。
「……どこかの駅、みたいだね」
少女が言った。
「駅、って……これ?」
「うん。草がこんなにあるなら、きっと誰かが手入れしてる」
「こんな草ばかりのところを?」
「うん、草も……誰かのものかもしれないから」
彼女はまっすぐ窓の外を見ながらそう言った。
その声には迷いがなかった。まるでずっとそこを知っていたかのように。
「……降りてみる?」
「うん」
僕はなぜか、そのとき“断る”という発想が浮かばなかった。
扉が音もなく開き、風が少しだけ頬をなでた。
風があることに気づいたのも、それが初めてだった。
駅と呼ぶにはあまりに小さな場所だった。
「草ノ原」という駅名看板が傾いていて、木のベンチがひとつだけある。
まわりは、ただ草。広くて、静かで、空ばかりが遠かった。
草は風に揺れていた。
一本一本がまるで眠っているようでいて、どこかに語りかけているようでもあった。
目を凝らすと、背丈の低い花がちらほら混ざっていた。名も知らない、白い小さな花。
少し離れたところに、小さな少年の姿が見えた。
しゃがんで、地面に向かって何かをしている。
彼のまわりだけ草が踏まれていて、土が顔を出していた。
「……あの子」
少女がつぶやいた。
「見たこと、ある気がする」
「知り合い?」
「ちがう。でも、あの背中……覚えてる」
彼女はそう言って、ゆっくり少年に近づいていった。
僕も黙ってあとをついていく。草の中を歩くと、足元からサラサラと音がして、何かがすぐに消えていくような感覚があった。
「ねえ、何してるの?」
少女が声をかける。
少年は顔を上げず、手元を動かしたまま、小さく返事をした。
「……植えてる」
手には、小さな白い球根があった。
それを、まるで大事な宝物みたいに、土に埋めている。
「花が咲くの?」
「うん」
「誰かに見せるの?」
「……来るって、言ってたから」
その言葉に、彼女の手がぴたりと止まった。
「誰が来るの?」
「……わからない。でも、咲いたら分かる気がする」
彼は淡々とした口調で言った。
でもその声の奥に、“待ちくたびれた何か”が滲んでいた。
風が彼のまわりだけ止まっているようだった。
彼女は彼の隣にしゃがみ、土に指先を触れた。
「名前、ある?」
「……忘れた」
「……私も、そうだった。ずっと」
彼女は土を軽く押さえながら、微笑んだ。
「でも、たまに──思い出す気がするの」
列車に戻るころには、草の色が少しだけ濃くなっていた。
風がさっきより少し温かかった。
少年は何も言わずにこちらを見て、手を振った。まるで、また来てくれると知っているような振り方だった。
車内に戻ると、静けさがまた戻っていた。
ただ、彼女の横顔だけが、なぜかほんの少しだけ変わって見えた。
「……さっきの子、君に似てたね」
僕がぽつりと言うと、彼女は少し驚いたように目を見開いた。
けれどすぐに、あの微笑みを浮かべた。
「似てたかな。うれしいな、それ」
しばらくの沈黙。
列車はゆっくりと動き出し、また草原をあとにする。
彼女は窓の外を見たまま、誰にも届かないような小さな声でつぶやいた。
「……ユイ」
それだけ。
僕は聞こえなかった。けれど、たしかに彼女の表情が、何かを確かめたように変わったのを見た。
「ん? なんて言ったの?」
「……ううん、なんでもないよ」
彼女はそう言って、もう一度窓の外を見つめた。
草が風に揺れていた。
僕たちはまだ、互いに何者かも分からない。
名前すら知らないまま、けれど確かに、同じ時間を過ごしていた。
列車は、次の駅へと向かっていた。
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