第8話 神様は知らない


桃陰高校は進学校でも問題校でもない、いたって普通の高校である。

朝の風物詩である「聖女の巡礼」はあくまでも学内の話題である。

無悪乙輪は背が高く目鼻が整った女生徒だ。彼女が校内に入るとまず、教職員がずらりと職員室前の廊下に並んでいる。

「おはようございます」

微笑みながら挨拶すると、明るい色の髪がふわりと空を舞う。

教職員はそれぞれに挨拶を返す。乙輪はその中をゆっくりと歩き、通り過ぎていく。それが終わると、教職員たちは満足な声を上げながら職員室に帰っていく。

はた目には女生徒が廊下を歩いていっただ。しかし、教職員たちは体調が少し良くなったような満足感を得る。

職員室前の廊下の端では小柄な体から元気が迸り出そうな少女が待っている。右に分けた前髪を赤い髪飾りで止めている安倍晴子は、聖女の従者を自称している。

「おはようございます。今日も素敵です!」

「ありがとう」

乙輪は元気な挨拶にそっけなく答える。

晴子は気にすることなく、先に立って階段を登り始めた。二階は一年生の教室が並んでいる。入学当初は遠慮がちだった一年生も、最近では列をなして聖女様が来るのを待ちかねるようになっていた。

「道を開けてくださぁい。通してくださぁい」

 晴子は群衆をかき分けて道を作り、乙輪はその後をにこやかについていく。ちょっとしたパニック状態ではあるのだが、乙輪に飛びかかったりする者はいない。謎の力が働いて、謎の秩序が保たれているのだ。

三階の二年生のクラス、四階の三年生のクラス前の廊下は、一年生ほどの熱烈歓迎ぶりではないが、それでも大勢の生徒が廊下で待ち受けている。

そして乙輪たちが通り過ぎると、少し良くなった体調に満足しながら教室に戻っていく。

昨年から始まったこの朝の行事を最初に「聖女の巡礼」と呼んだのが誰だったのかは定かでない。

乙輪は産まれながらに治癒能力を持っていることを、転生前の世界で聖女と呼ばれていたことを、公言していない。

「聖女の巡礼」とは、自然発生的な呼び名なのだ。

なんとなく体調が良くなることを良しとする者たちが、理由は分からないけれどなんとなく良しとしている謎の行事なのである。


三年生の教室前を通り過ぎた乙輪たちはそのまま廊下を進み、特別教室の前を通り過ぎ、一番端の科学準備室の前まで歩く。この辺りにはもう、生徒の姿はない。

晴子は科学準備室の扉をガンガンとノックすると返事を待たずに開けた。

すると目の前には晴子の双子の妹、明子が憤怒の顔で立っていた。明子は前髪を左に分けて青い髪飾りで止めている。

「不敬だぞ!」

「ふ、ふけい?父兄?お父さん?お兄さん?……私はお兄さんじゃねえよ!」

「誰もそんなこと言ってねえよボケ!」

「じゃあどういう意味だよボケ!」

「不敬、不敬って言うのは……」

「失礼と言う意味だよ」

 部屋の中から助け船が飛んでくる。

「そう、そうです。失礼だぞお前!」

「だったら最初からそう言え!そもそも何が失礼だって言うの!」

「ノックを二回しかしなかっただろう」

「ちゃんとノックしてるだろ」

「ノック二回は、トイレで「入ってますか?」って意味なんだよ!魔女様がおられるこの部屋に対して「トイレ入ってますか?」とはどういうことだ!」

「知らねえよそんなの。そんなアホなことを誰が決めたんだよ」

「誰が決めたかなんて知らねえよ。そう決まってるんだよ」

「誰が決めたかも知らねえことをえらそうに言ってんじゃねーよ」

「じゃあお前は世界中のマナーを誰が決めたのかを知っているのかよ」

「そんなこと知るわけないだろうがボケ!」

 パン!

 乙輪が手を鳴らした。双子はびくっと震えて口を閉じた。

「部屋に入りたいんだけど、何回ノックすれば良いのかしら?」

「どうぞ」

 さっと道は開けられ、乙輪はため息をつきながら部屋に入った。部屋の両側には様々な実験器具が収納されたガラス戸の棚が並んでいる。部屋の奥の窓の分厚いカーテンは閉められており、その前には大きな実験台がある。

窓の前に陣取っている背が高くて眼鏡をかけ黒い実験着をまとっている女生徒、丘上輝夜はコーヒーを入れていた。双眸は爛々と輝いているが、顔色は悪い。

「おはよ。あー疲れた」

 廊下を歩いていた時の清楚で凛とした佇まいから一転、乙輪は丸椅子をガタガタと引きずって座ると、実験台にぐったりと突っ伏した。

「おはよう」

すかさずコーヒーが入ったマグカップが差し出される。ブラックだ。

「ありがと」

乙輪は一口すすって「にがっ」と顔をしかめて舌を出す。再び一口すすり「にがっ」と舌を出す。

乙輪は目の下の隈がひどい輝夜の顔を見て再び顔をしかめた。

「また徹夜したの?ほどほどにしなさいよ」

 注意している間にも隈は消えていき、顔の艶も良くなった。

「いつも助かってる」

「どういたしまして」

 コーヒーをすすり、舌を出す。

「聖女様って……」入り口付近に立つ明子がおずおずと二人の空間に声を挟んだ。

「魔女様の体調はコーヒーをすすりながら簡単に治すのに、巡礼をすると疲れるんですか?」

「祝福している人数が違うだろ」

 隣に立つ晴子が不満げに言う。聖女の巡礼の時に治癒能力の恩恵を受けている者は、少なくても三百人ぐらいいるだろう。

「まぁ人数も関係なくはないけど……」

 乙輪は実験台に背中を預けて足を組む。

「手加減が難しいのよね」

「手加減ですか?」

「うーん。力をセーブするって言った方が分かりやすいのかな。ゲームにヒットポイントってあるでしょ。例えば、ヒットポイントのマックスが百で、ゼロになった時に死んじゃうとき、私は、ヒットポイントが一でも残っていれば、簡単に百にすることができるの。でも、一を十にするとか、五十にするのは苦手なの」

「力が強すぎて細かい制御ができないということかな」

輝夜が分析する。

「苦手なだけで、できるんだけどね。毎朝やっていますし!でも、めっちゃ疲れる」

「じゃあ、学校全員のヒットポイントをマックスにできるんですか?」

「力の届く範囲であればね。学校の広さぐらいならいけるかな」

 乙輪は軽く肯定した。

「……だったらなんでマックスにしないんですか?巡礼は、みんなのヒットポイントを十回復させる程度ですよね」

晴子が疑問を素直に訊く。

「みんなが元気溌溂になったら大変でしょ」

「元気なら良いじゃないですか!」

元気娘は胸の前で両手を握りしめて、ふんすと力を入れる。

「そうか?うっとおしいよ。それに……」

乙輪は憂鬱そうに続ける。

「体調が少し良くなったぐらいならみんなありがたがるで済むけど、ヒットポイントが全回復したら、例えば骨折が治ったり、近眼が治ったりしたら大騒ぎになるでしょ」

「そ、そんなにすごいんですか」

「そう、すごいの」

晴子は驚嘆の声をあげるが、乙輪はつまらなそうに答える。


一方で明子は顔を曇らせていた。晴子がトラックに轢かれた時の惨状を思い出したのだ。骨は何本も折れていただろうし、大量に出血していた。内臓にもダメージがあっただろう。なにより、首があらぬ方向に曲がっていた。それこそ、ヒットポイントは一しか残っていなかっただろう。

それを乙輪はあっさりと治した。

倒れている晴子の隣に座って、ちょっと手を翳しただけだ。一瞬で晴子は生気を取り戻した。

確かに、そんな力が知られたら大騒ぎになるだろう。医者に匙を投げられたような重症の怪我や病気の人が治してくれと殺到してくる。

それだけではない。力の秘密を解明しようとする者、利用しようとする者も現れる。

平穏な日常は終わる。

それが分かっていても思わざるを得ない。

その力を使えば、もっとたくさんの人を救えるんじゃないの?


「その力を使って、たくさんの人を救おうとは思わないんですか?」

「医師法第十七条」

明子が思い切って口にした疑問に、意外かつ無味乾燥な言葉が返ってきた。

「医師法?」

「医師法第十七条。医師でなければ、医業をなしてはならない。同三十一条、これに違反した者には三年以下の拘禁刑若しくは百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する」

輝夜がつらつらと法律を暗唱する。

「拘禁刑?罰金?」

明子の理解が追い付かずにまごまごしていると、乙輪がつまらなそうに説明する。

「法律で、医者じゃない人が病気や怪我を治してはいけないって決まってるの。百万円ぐらいは簡単に稼げるだろうけど、拘禁刑三年は嫌よね」

「……牢屋は嫌ですね」

明子はそう答えるしかなかった。

思わぬ法律の壁であった。

「じゃあ医者になれば良いって言うのはパスね。そんなに頭良くないから」

「だったら宗教団体を作って、神様になったらどうですか?そういう宣伝、よく見ますよね」

晴子の突拍子もない考えに、乙輪は苦々しい顔をする。

「そっちはそっちで色んな法律があるの」

「そっかぁ難しいんですね」

「そう。難しいの」

そう言われてもなお、難しい顔で考え事をしていた晴子がピンと何かを閃いた。

「そっか!私は神様に会ったけど、聖女様は神様に会ったことがない。その謎が解けました!」

晴子は事故で死にかけた時、三途の川で神を自称する男に会っていた。これから異世界転生させるから、と説明されているところで乙輪の力で引き戻された、らしい。

一方、乙輪は前世でも、異世界転生してきた現世でも強大な治癒能力を持っているが、神に会ったことはない。

「言ってみなさい」

乙輪は少し楽しそうに発言を促す。

「聖女様は聖女ではないんです」

晴子は力強く断言した。

「存在を否定された!聖女でありたいわけではないけど、ちょっとショックね」

肩を落とす乙輪に、晴子は力説する。

「聖女様こそが神様なんです」

「飛躍しすぎでしょ」

「神様だから神様に会ったことがないんです」

「なるほど、その考えは理にかなっている」

「これに賛成するの?」

きりっとした表情の輝夜に乙輪は突っ込む。

「神に与えられた力ならばその人は聖女になるけれど、神に与えられたのでなければ、絶大な治癒能力を産まれながらに持っている人だ。乙がそんなとんでもない能力を持った人に出会ったとき、その人を何だと思う?それは人なのか?神様だ、と思うかもしれないだろう。生死に関わるような怪我も病気も簡単に治すことができるんだ。技術も知識も魔法も使わないでね。そんな存在は確かに神だよ」

「そんな屁理屈もあるだろうけど、神様にしちゃ、私は何も知らなすぎない?この力の由来も知らなければ、正しい使い方も知らないのよ」

「神は己が力を持っていることを不思議に思ったりしないものだ。最初から力を持っているのが当たり前なんだからね。そんなものが自由気ままに力を振るっているんだ。下界にいるもののことなんかろくに考えもせずにね」

「私ってそんなに傍若無人ですかね?」

「ん……」

拗ねた口調に一瞬怯んだ輝夜だったが、すぐに立て直し、乙輪を讃える。

「いや、そうだね。やっぱり乙には、神よりも聖女様の方がふさわしい。なんだかんだいっても、この学校の人たちが日々健やかに過ごせているのは、聖女様の慈愛に満ちた祝福のおかげだからね。傍若無人な神の力なんかじゃない」

両手を広げて天に掲げ、感謝しているポーズを取ったとき、予鈴が鳴った。

「お先に失礼します」と双子が慌ただしく出ていく。

乙輪は立ち上がると実験台の端に付いている流し台の中の洗い桶にマグカップをポチャンと入れる。

輝夜の黒い実験着はするっと消えて、制服姿になった。


「ところで、ノックの回数は何回が正しいの?」

科学準備室に鍵を掛ける輝夜の背中に、乙輪が訊く。

「公式な場では四回、親しい間柄では三回。と、昨夜のテレビでやっていたそうだ。聖女様はそんなことを気にするのかい?」

振り返った輝夜が眼鏡の奥から表情を伺うと、乙輪は挑発的に笑った。

「つまらないマナーだって、この世界で生きていくなら知っておいて損ではないでしょう」

そして小さな拳を作ると、輝夜の胸を軽く三回ノックした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る