第48話 つくばの夜明け

 小夜子が病院の中へと戻っていった後も、葵はしばらくその場に立ち尽くしていた。夜明けの空が、少しずつその色を変え始める。陽翔の存在が、彼女の中で急速に、そして確実に、大きくなっていくのを感じた。理性では割り切れない感情が、胸の奥で渦巻いている。

(私、どうして……)

 疲労と、まだ覚めやらぬ興奮が入り混じり、足元がおぼつかない。しかし、彼女の心は、陽翔の言葉と触れ合いによって、ある種の解放感を覚えていた。

 葵は、病院の玄関を出て、早朝のつくばの街を歩き始めた。ひんやりとした空気が頬を撫で、どこからか研究都市らしい機械の稼働音が聞こえてくる。普段なら、疲れた体を休めるためにすぐに家路につくはずだが、今の彼女には、散策が必要だった。

 つくばは、まだ静かだった。広々とした公園には、朝靄が立ち込め、科学技術を象徴するようなモダンな建物群が、その姿をぼんやりと浮かび上がらせている。歩きながら、葵は陽翔との触れ合いを反芻する。彼の熱い視線、囁くような声、そして、肌を伝わる彼の体温。それら全てが、彼女の冷静な医師としての仮面を剥がし、奥底に眠っていた感情を揺さぶった。

 ふと、人気のない路地を曲がったところで、彼女は自身の鼓動が速くなるのを感じた。頭の中に、陽翔の熱を帯びた吐息が蘇る。

(私、何を考えているの……)

 理性では、これは医師としてあるまじき感情だと分かっている。しかし、身体は正直だった。全身の血が熱くなり、指先が微かに震える。葵は、そっと自分の胸元に触れた。陽翔の触れた箇所が、まだ熱を持っているような錯覚に陥る。

 通り過ぎる建物のガラスに映る自分の姿を見て、葵は息をのんだ。頬は紅潮し、目は潤んでいる。まるで、恋に落ちた少女のようだ。その事実に、彼女は背徳感と、しかし抗いようのない快感を覚えていた。


 タイムマシンの眠る場所

 散策を続けるうち、葵は無意識のうちに、つくばの研究施設が集中するエリアへと足を踏み入れていた。そこは、普段は立ち入ることのない、厳重な警備が敷かれた区域だ。しかし、今日の彼女は、何かに導かれるように、その奥へと進んでいく。

 夜明けの光が、建物の隙間から差し込む。コンクリートの壁と、銀色の金属が剥き出しになったパイプが、無機質な雰囲気を醸し出している。その一角に、ひときわ大きく、しかし古びた研究棟が建っていた。窓は少なく、壁にはひびが入っている。

(ここ……?)

 葵の胸騒ぎは、さらに大きくなった。どこからか、微かな機械音が聞こえてくる。それは、まるで巨大な何かが、地下で眠っているかのような、重く、規則的な音だった。

 彼女は、人気のない通用口に近づいた。警備の目はあるものの、今は夜明け前。人の往来もまばらだ。葵は、まるで何かに憑かれたように、重い扉に手をかけた。すると、鍵はかかっておらず、扉は軋みを上げて開いた。

 内部は薄暗く、埃っぽい空気が漂っている。古い機材や資料が山積みにされ、まるで時間が止まったかのようだ。葵は、細い通路を進んでいく。

 地下へと続く階段が見えた。その先から、先ほどの機械音が、さらに大きく聞こえてくる。まるで、彼女を誘い込むかのように。葵は、迷うことなく階段を降りていった。

 地下は、さらに巨大な空間だった。薄暗い照明が点滅し、中心には、巨大な機械が鎮座している。それは、球体と円筒が組み合わされたような複雑な形状で、至るところからコードが伸び、計器が光を放っている。

(これは……)

 葵は、その機械が何であるかを直感的に理解した。それは、SF映画でしか見たことのない、しかし今、目の前に実物として存在するものだった。

 タイムマシン。

 彼女の知る、陽翔の「感覚同調」の研究とは、全く異なる次元の科学技術が、ここに眠っていたのだ。そして、その機械からは、微かに、しかし確かに「陽翔」の気配が感じられた。それは、彼女の心が引き寄せられた理由でもあった。

 葵は、吸い寄せられるようにタイムマシンに近づいた。その巨大な存在感は、彼女の医師としての常識を揺るがす。この機械が、陽翔の「感覚同調」とどう関係しているのか。そして、小夜子の研究の真の目的とは一体何なのか。

 彼女の胸には、陽翔への切ない感情と、未知の科学への好奇心、そして、何か巨大な陰謀の予感が入り混じっていた。


 時を超えた転落、そして邂逅

 佐々木は、狂乱の中でタイムマシンの計器を叩き続けたが、時空の渦は止まることなく、彼の憎悪と混乱を巻き込みながら加速していく。モニターに映し出されたお通の顔は歪み、やがてノイズに掻き消された。

「くそっ……! なぜだ……! なぜこんなことに……!」

 彼の復讐計画は、思わぬ形で頓挫した。過去を変えるどころか、歴史の闇に隠された真実の一端を垣間見てしまったのだ。そして、タイムマシンは制御不能のまま、どこかへと向かっていた。

 やがて激しい振動が収まり、タイムマシンの窓の外には見慣れない景色が広がっていた。それは2025年の日本とは似ても似つかない、古びた、しかし活気のある街並みだった。電波の入らないスマートフォンを手に、佐々木はタイムマシンが予想もしない時代、そして場所に彼を連れてきたことを悟る。

 混乱の中、彼はタイムマシンのハッチを開けた。焦げ付いた土の匂いと、熱狂的な歓声が飛び込んでくる。そこには古めかしい野球場があり、彼の知る野球選手・宮本武蔵の父親が、往年の伝説的な選手たちと共に「マシンガン打線」の一員として活躍していた。佐々木は、純粋な感動を覚える一方で、自身のギャンブルと宮本を陥れた過去が、まるで遠い出来事のように感じられた。


 1980年の不買運動と謎の女

 試合が終わり、球場を出た佐々木は、どこをどう歩いたのか、気づけば見慣れない商店街に立っていた。アーケードには古びた提灯がぶら下がり、懐かしい歌謡曲が流れている。そして、彼の目に飛び込んできたのは、赤々と燃え盛る新聞の山と、それを囲む人々の群れだった。

「読売新聞は帰れ!」「公正な報道をしろ!」

 怒号が飛び交い、人々は口々に叫んでいる。佐々木は、状況を理解できないまま茫然と立ち尽くした。

「これは……読売新聞不買運動……!?」

 彼が学生時代に社会科の資料で見た、1980年代に実際に起こった出来事だ。まさか、自分がその渦中にいるとは。混乱が佐々木の心を支配する。この時代は、彼の予想を遥かに超える過去だった。

その時、人々の怒号の中心で、ひときわ異彩を放つ女の姿があった。彼女はボロボロの着物をまとい、髪は乱れ、まるで野獣のような形相で叫んでいた。 その手には、どこから拾ってきたのか、古びた木切れが握られている。

「この腐った世の中を、焼き尽くしてやる!」

 女がそう叫んだ瞬間、手に持った木切れが、ぼうっと緑色の光を放ち始めた。佐々木は目を疑った。それは、まるで魔法のような光景だった。木切れから放たれた光は、瞬く間に燃え盛る新聞の山へと吸い込まれ、炎は一層激しく燃え上がり、奇妙な悪臭を放ち始める。

 周囲の人々は、その光景に恐怖し、後ずさりする。しかし、女は一切動じることなく、さらに狂気じみた笑みを浮かべた。

「ほう……お前、面白いものを持っているな」

 突然、女の隣に、影のように一人の男が現れた。その男は、全身を黒いローブで覆い、顔はフードで隠されている。彼の声は低く、どこか底知れぬ響きを持っていた。

 女は、男の出現に一瞬ひるんだが、すぐに警戒の表情を浮かべた。

「何者だ、貴様……!」

「私は、お前と同じく、この世の『歪み』を正す者。その力、私に預けてみないか?」

 男は、女にゆっくりと手を差し伸べた。女は、その誘いに乗るか乗らないか、葛藤しているようだった。佐々木は、その異様な光景にただただ圧倒されていた。彼は、自分がただの過去に迷い込んだのではなく、何か大きな、そして危険な「力」の渦中に巻き込まれたことを直感した。

 この時代の「読売新聞不買運動」の裏には、このような「魔法」を使う者が関わっていたのか? そして、この謎の男の正体とは? 佐々木のタイムスリップは、彼の想像を遥かに超える、異次元の戦いの幕開けを告げていた。

 佐々木は、この奇妙な状況で何を目撃し、どのような選択を迫られるのでしょうか? そして、彼自身の「歪み」であるギャンブル癖や復讐心は、この「魔法」の世界とどう関連していくと思いますか?

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