第32話 上杉景勝

 「火生ヶ淵ひしょうがふち」――


 かつて越後の地で起きた“大火”は、すべてを焼き尽くし、村も人も湖底へと沈めた。


 だが、それはただの災害ではなかった。火を操る一族が暴走し、制御を失った“炎の神子”が封じられた場所。以来、この地には近づく者もなく、地図からも名前を消された。


 その水面のほとりに、ひとりの老武士が立っていた。


 上杉景勝――


 かつて越後の太守にして、謹厳実直の名で知られた男。だが、これは史に記されぬ「影」の景勝である。


 齢はすでに七十を越えているはずだったが、その双眸にはなお、炎のごとき厳しさが宿っていた。


 彼は、湖面を見下ろしながら、背後の気配に静かに口を開いた。


 「“風切”の継承者よ。ついに来たか」


 楓は、背の子を守るようにしながら男に対峙する。


 「あなたが……“火生ヶ淵”を守っていたのね」


 景勝は小さく頷いた。


 「封火院が崩れたことは察している。“火”は、再び巡りを始めた。だがそれを迎えるには、この淵の底に眠る“怒り”を鎮めねばならぬ」


 楓は息を飲む。


 「この地にも、“灯”を憎む者が?」


 「……いや。かつて“灯”であった者が、裏切られ、“火”を呪いへと変えたのだ。私の娘だよ」


 景勝の声には、震えるほどの痛みが滲んでいた。


 「彼女は“火”を継いだが、それを制御できぬまま、家中の争いに巻き込まれ、火刑に処された。だが、その魂はこの淵に残り、怨念として湖底を焼き続けている。私は……その魂を、ただ鎮められぬまま、ここに立ち尽くしていた」


 沈黙が降りる。


 湖面には、わずかな蒸気――“怨火”の気配が立ち上っていた。


 景勝は、懐から一振りの太刀を差し出した。柄に刻まれた家紋――“竹に雀”。


 「これは、かつて娘が持っていた“火守の刃”。これを湖底に返すことで、魂が何を求めているのか、わかるだろう」


 楓は、それを静かに受け取った。


 「私は“封じる”ためにここへ来たのではない。彼女の魂が、再び“灯”として昇れるよう、話を聞きに来た」


 景勝は目を閉じ、微かに笑った。


 「そうか……ならば、おまえに託す。わしには、もう火に触れる資格はない」


 ◆


 その夜、楓は湖面の小舟に乗り、子を胸に抱いて静かに漕ぎ出した。


 湖の中心――かつて村の神殿があったという地点で、“火守の刃”を湖底へと沈める。


 その刹那、水面が赤く染まり、空気が爆ぜた。


 湖の中心から立ち昇る、“紅蓮の人影”。


 髪を振り乱し、燃え盛る目で楓を睨む女――かつて景勝の娘であり、火に呑まれた“炎の神子”の成れの果て。


 「なぜ……今さら灯そうとする!? 私は焼かれ、裏切られ、誰にも……!」


 楓は、舟の上で静かにその叫びを受け止めた。


 「あなたが灯した火は、今も残っている。苦しみも、憎しみも、命の証。それを、私はこの子に伝えたい。あなたの炎を、恐怖ではなく、希望として――」


 子が目を開き、ふわりと手を伸ばした。


 その瞬間、女の炎がふっと揺らぎ、紅蓮が白炎に変わる。


 「……その名を……“楓”というのか。奇しくも、あの季節に燃え落ちた私の名と、同じ響きだ……」


 女は、楓と子を見つめたまま、柔らかく笑い――そして静かに、湖へと還った。


 ◆


 朝。


 火生ヶ淵は、蒸気ひとつない穏やかな水面へと戻っていた。


 岸辺で待っていた景勝は、遠く水面を見ながら、そっと刀を抜き、空に掲げる。


 「ありがとう。これでようやく、娘を送り出せる……」


 楓は黙って一礼し、また背を向けた。


 > 火を封じず、灯し続ける。


 風切の剣と、灯を継ぐ子――その旅は、まだ続く。


 次に向かうは「灰鳴りはいなりやま」。


 火と風、そして土が交わる、最も古い封印が残る地。


 そこでは、火を“神”として崇め、戦火を呼ぼうとする者が待ち構えていた――。


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