第5話 九鬼家
秋のはじめ、楓は
九鬼家――。かつて武門として名を馳せ、今は隠れ里のようにひっそりと生きる一族。だがその裏には、絶え間ない血の因習と、痛みを押し殺した歴史があると噂されていた。
「お招きいただき、感謝します。楓と申します」
古びた襖を隔てた奥座敷から、白髪の老人が現れた。名を**
「……“武蔵の心”を継ぐ者が来るとはな。お前に見せたいものがある」
源十郎は、楓を屋敷の奥、土蔵へと案内した。そこにあったのは、一振りの古刀。
「影打ちの武蔵刀じゃ。表に出ることのなかったもうひとつの“魂”だ。だがな、これに触れた者は、みな心を病んだ」
その刃には、確かに何かが宿っていた。楓はただ、静かにその前に正座し、掌を地に添えた。
「……“痛みを知る剣”ですね。これは、人の心を試すものです」
源十郎の目が鋭く光る。
「お前には見えるのか? この家の者たちは、皆“痛み”から逃げるために、剣を手にしてきた。だがそれも限界じゃ。わしの孫・**
◆
翌日、楓は九鬼家の裏山で、新兵衛と対峙していた。
若き剣士、新兵衛の目には迷いも、悔いもなかった。だが、それゆえに楓は感じた――この男は、己の痛みに気づいてすらいない。
「俺は、この家の“型”の中で生まれ育った。痛みなんて、教わっていない。感じる必要もなかった」
「それは、“教わっていない”のではなく、“奪われた”のです」
楓の言葉に、新兵衛の眉がわずかに動いた。
「この刀を受け取ってください」
楓は自らの白鞘の太刀を、地に置いた。
「これは、痛みを知る剣。人の命を斬る剣ではなく、人の命を救うために振るう剣です」
新兵衛はしばらく無言のまま、楓の刀を手に取った。するとその瞬間――
指先がわずかに切れ、血が滲んだ。
「……これは……痛いな」
その呟きに、楓はゆっくりとうなずいた。
「それが、あなたの始まりです」
◆
九鬼家の土蔵には、いま、新兵衛が一人で座していた。影打ちの武蔵刀は、静かに納められ、もう誰の手にも渡ることはない。
その隣に、新兵衛が植えた小さな山百合の花が、夕暮れの風に揺れていた。
◆
楓はふたたび旅路につく。
九鬼家の古道を下りながら、懐から一枚の札を取り出した。それは、弟を斬ったときに宗麟が残した“終の札”――炎に幕。
彼女はそれをそっと、山の焚火にくべた。
「痛みを捨てた者が、再び痛みを抱けたなら――この札もまた、救われるでしょう」
風が吹き、火が瞬き、やがて静寂が戻る。
楓の旅は、まだ終わらない。
痛みを知る者の心に、そっと手を添える――“武蔵の心”は、今も生きていた。
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