第3話 断絶

 御影宗司との死闘から数日後――。


 楓は白根峠の北の山道を抜けた。峠の砦はもぬけの殻だった。その背には変わらず『五輪書』。だが、剣に頼る日々の終わりが、心のどこかで近づいていることを、彼女は感じていた。


 ――人を斬ることでしか道を示せないのなら、それは本当に“道”と呼べるのか?


 かつて武蔵が辿った「心」とは何だったのか。その問いが、楓の中で静かに膨らんでいた。


 ある日、吹雪の中で倒れていた老婆を、楓は介抱した。布を焚き、湯を沸かし、血の巡りを促すように手を尽くす。


 命は戻った。


 そのとき、楓はふと気づいた。


 「刃では、繋げぬものがある」


 ◆


 春――。


 楓は、雪深い地の診療所の戸を叩いた。そこは断絶の村・紫津しづ。かつて疫病で村ごと封鎖され、人の出入りすら禁じられた、地図から消された地だった。


 村に残された老人たちは、楓の来訪に驚いたが、やがて彼女のまなざしに心を開いていった。


「刀ではなく、薬を使いたいのです。人の命を救う“道”を、私は学びたい」


 かつて刀で正した者たちがいた。しかし、それで何が残ったのか? 宗司の血が、花札に染み込んだあの夜――楓は、“心”の別の在処を知った。


 ◆


 紫津の診療所には、かつて都で名を馳せた老医師が一人、ひっそりと隠れ住んでいた。名を伊吹玄斎いぶきげんさい


「剣を捨てて、何になる気だ?」


「捨てはしません。ただ、剣では届かぬものがあると知ったのです」


 その言葉に、玄斎は長い沈黙の末、笑った。


「ならば学べ。病もまた、人を斬るのだ。だが薬は、その断絶を繋ぎ直す術になる」


 楓は、弟子となった。


 畑を耕し、草を摘み、血を止める術を覚える日々。夜は『五輪書』を開き、心を問い直す。


 その日々の中で、彼女は自らの中にあった「断絶」――斬り続けた人生と、守りたかった想いの狭間にあった深い谷を見つめ直していた。


 ◆


 季節が巡るたび、村には旅の者が傷を癒しにやってきた。中には、かつて楓が斬り伏せた一座の残党もいた。


 だが、彼らはもう楓に刀を向けなかった。白衣をまとい、薬を調合する楓の姿に、“戦”の残り香はなかったからだ。


 「剣で断たれた縁を、人の手で繋ぎ直す……お前は、武蔵よりも遠くへ行こうとしているのかもしれんな」


 玄斎はそう言って、そっと楓に一本の薬包を渡した。


「これは、“咲かぬ春”を咲かせる薬じゃ。命の炎が、まだ灯るうちに使え」


 それは、命を救う最後の手段。


 ◆


 ある夜、楓はかつての町――花守に戻った。


 かつて“鬼札”が撒かれていた街道には、今や花が植えられ、静かな灯が並んでいた。


 そして、宗司の屋敷跡には、小さな診療所が建てられていた。


 その看板には、筆でこう書かれていた。


 〈心花堂〉


 武蔵の“心”、花のように咲き、誰かを癒す場所でありたい――楓の願いが、形になった場所だった。


 旅は続く。だがその手には、もう刃はない。


 “心”の道は、剣でなく、癒しと再生の道へ――。


 楓の歩みは、静かに、そして確かに、世の闇に灯を点していく。


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