第8話「毒島なき日──感染る推理」
朝の四課は、やけに静かだった。
コピー機の起動音がやけに朗々と聞こえる。“静けさ”という贅沢を、人は簡単に忘れる。
「毒島はインフルだ。しばらく自宅療養。出禁。以上だ」
課長が一枚の紙を掲げた。検査結果。陽性。
室内に小さな拍手が起きかけて、誰かが咳払いで押し殺した。
「……仕事が捗りますね」
まどかが正直に言う。課長は頷き、次の紙をめくった。
「で、本題。匿名通報。商店街の“カフェ・ルーチェ”──仕入れと売上の数字が合わない。電子マネーの返金を悪用してる可能性。例の組織との繋がりが疑われている店だ。毒島がいないうちに、静かに、正しく、終わらせるぞ」
「了解です」
毒島がいないだけで、会議が三分で終わった。天変地異の前兆みたいだ。
* * *
カフェ・ルーチェは白いタイルと観葉植物で“善”を演出していた。
香りはいい。流れる音楽は薄い。店員の笑顔はよく訓練されている。
「警察です。責任者の方は」
課長の声は柔らかいが、会話を短く終わらせる種類の柔らかさだった。店長はすぐに出てきた。白いシャツにエプロン。手の甲にミルクの飛沫。正しく“カフェの人”。
「任意提出で、過去三か月の帳簿、POSデータ、仕入れ伝票、キャッシュレス決済の返金履歴。それとレシートロールの予備も見せてください」
店長は一瞬だけ目を泳がせ、すぐ笑顔に戻した。
用意がいい。用意が良すぎるのは、だいたい用意が悪い。
奥の事務スペース。紙の匂いが濃い。
まどかは思わず、メモに矢印を書きかけて手を止めた。──導線、と書きそうになった。危ない。
彼女の指はペン先を宙で泳がせ、矢印は生まれなかった。毒は回る。だが、まだ致死量ではない。
「課長、この帳簿……紙が新しいです。三か月前のページなのに」
「目視か?」
「匂いです。インク、乾いたばかりの匂い。紙も“ふやけ”がない」
店長の肩が一ミリ沈む。課長は瞬き一つせず次の質問に切り替えた。
「レシートロールは?」
「えっと……今朝、取り替えたばかりで」
「取り替える前の芯、どこ?」
店長の笑顔が、今度は戻らなかった。
* * *
聞き込みは早いほうがいい。鮮度は正義だ。
隣の雑貨屋、正面の青果店、カフェに豆を入れる焙煎所の配送ドライバー。
帳尻を合わせるのが上手い人間は、たいてい“いつも通り”を崩さない。崩せない。
「夜、シャッター閉まってる時間にレジの音がするって。青果の兄ちゃんが言ってたぞ」
「配送の人も、仕入れの袋数とゴミ袋の数が一致しない日があるって」
まどかは頷きながら、もう一度、危うく矢印を書きそうになる。
やめろ。紙に“資金の流れ”なんて書くのは、あの人の専売特許だ。
ポケットの中でスマホが震えた。差出人:毒島。
『咳は真実の逆翻訳。喉に罪の痕跡あり』
読み捨てる。既読はつけない。ウイルスは電波にも乗る。
* * *
帰署。データの照合作業は、現場より地味で、現場より緊張する。
POSの売上は右肩上がり。見事だ。仕入れは緩やか。“正しい”。
返金履歴は──異常だ。閉店時間帯に集中している。レシート番号は綺麗すぎる連番。
誰かが“事後に”売上を作って、誰かが“事後に”返金している。
売上は盛れる。税は減らせる。ポイントは二重に抜ける。抜いた分の“現金”は、だれかの懐に落ちる。
「課長。ここ、返金に紐づく商品コードが“ギフト券”になってます」
「現金化しやすい。王道の悪さだ」
「しかも、返金の決裁者が“店長のみ”。締め時間後に集中」
課長はため息の代わりにコーヒーを飲んだ。
薄い。だが、薄いのはコーヒーであって、証拠ではない。
「任意で再訪。レジ周りの監視カメラ、バックヤード、端末ログ、全部確認する。強制捜査の前に、やることは多い」
「はい」
まどかは、メモの余白に小さく“薄い=隠蔽”と書いて消した。危ない。比喩は毒島の麻薬だ。
* * *
二度目のカフェ・ルーチェ。
店長は笑顔を捨てた。書類は出した。だが部屋の空気は、何かを隠す空気だった。
「閉店後に返金処理してますね。レジとPCのログ、時間が一致してます」
「追加で、レシートロールの空芯を全部。捨ててるなら回収袋を開けます」
店長の喉仏が上がり、下がった。
バックヤードの段ボール。ゴミ袋。レシートの紙芯。
その一つに、蛍光黄色のマーカーで“×”が付いていた。他の芯とは違う。
まどかは手袋をはめ、そっと芯の内側を指で撫でる。──うっすら、ボールペンの押し跡。
「課長。これ、メモの押し跡が残ってます。“ギフト 23:10”“全部 返”……」
「写真。角度変えろ。光を斜めに当てる」
浮き上がる線。稚拙だが、十分だ。
店長の口から、ようやく台詞が出た。
「──うちは、悪いことはしてません」
悪いことをしている人間が最初に言う言葉のトップ3だ。
課長は頷き、淡々と続けた。
「電子マネーのギフトコードを“売ったことにして”、あとで“全部返す”。返金はカード会社から。現金はそのまま。あなたは“売上”を立て、“税は減らし”、ポイントは二重取り。で、誰に渡す?」
「渡してません。……渡してませんよ」
“よ”が余計だった。余計な助詞は、余計なルートを教える。
課長は、紙一枚のような沈黙を作ってから言った。
「暴力団フロントの資金洗浄。あなたは“窓口”。違いますか」
店長は目を閉じた。
* * *
事情聴取は、いつも通り進んだ。
“いつも通り”とは、想像より地味で、想像より長い。
誰と繋がっているのか。何を、どれだけ、いつから。
“渡してない”という言葉は、十分な時間と、十分な書類の前に、静かに形を失う。
途中、まどかはふと、帳簿の角に鼻を近づけた。インクの匂い。新しい紙の乾いた匂い。
──毒島の声が脳内に割り込む。「匂いは嘘をつかない」
やめろ。
だが、その“やめろ”が、結果として正しいページを開かせた。
“やめろ”の結果で事件が解ける。皮肉は、だいたい正しい。
* * *
夕刻。四課の会議室。
報告書は事実だけで構成された。ポエムはゼロ。比喩はゼロ。
課長は印鑑を押し、淡々と閉じた。
「やっぱり、毒島抜きは早いな」
「はい。……でも、静かすぎて落ち着かないのも事実です」
「贅沢言うな。静かさに感謝しろ」
課長は椅子から立ち上がり、ドアの前でだけ振り返った。
「それにしても──紙の匂いで気づいたのは、あいつの悪癖のおかげだな」
「……感染りますね、あれ」
「おまえは濃厚接触者だからな。あれはインフルより厄介だ」
二人は同時にため息をつき、同時に少し笑った。
笑いの理由は違うが、笑いの温度は同じだった。
* * *
──町の内科。白い壁。優しいポスター。優しくない現実。
マスク姿の男が座っている。毒島 翼。声変わりしたカラスみたいな声で咳をした。
「では、症状を教えてください」
白衣の医者は穏やかな声を作った。作り慣れている。
「まず、鼻水の粘度が事件現場の泥に近い。これはすなわち──」
「風邪の話でいいんですが」
「いいや、ここからが本題だ。昨晩から頭痛......いや、それより診断書というものは社会の“通貨”だ。虚偽診断書等作成罪の温床になり得る。例えば、診断書を悪用して休業補償を不正取得、そこから地下組織の資金源へ還流──ギフトコード、返金、二重取り、ほらカフェだって──」
「診断してほしいんですか!? してほしくないんですか!?」
「両方だ」
「どっちだぁぁ!!」
待合室まで医者の怒声が抜けた。
看護師が眉を八の字にしてドアを閉める。
毒島は咳を一つ、詩を一つ。
「……真実は、喉に潜む」
「帰れ!!」
白衣の怒声がもう一段階上がった。
廊下で、インフルの張り紙が、空調に微かに揺れた。
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