第5話「毒島、有能(当社比)」
都内のとある商業ビル裏。朝の光がビルの影に遮られ、倉庫裏の通路はまだ冷たい空気に包まれていた。
「現場、こちらです」
誘導された捜査四課の毒島 翼は、今日は珍しく名乗ることもなく、黙って現場に歩み寄る。
倒れた鉢植え、砕けた花瓶、踏み荒らされた土。そして床面には、指でなぞったような「8→2→5」の数字。
「……風の流れと、土の乾きが一致していない。まるで“誰かがここに未練を残した”ようだ」
砕けた花瓶の水跡は、現場に涙のように広がっていた。
しゃがみ込んだ毒島が、土の表面にそっと指を這わせながら呟いた。
風の中に、ほんのり甘い香りが漂っていた。まどかはふと眉をひそめたが、すぐに視線を毒島に戻す。
隣で見ていた相棒・沢村まどかは、思わず息を呑む。
「(……えっ? 今日の毒島さん、なんか、違う……!?)」
いつもなら最初の発言で“事件じゃない”と言い放つか、空に向かって詩的な言葉を叫ぶはずなのに。今日は違った。観察している。分析している。言葉が、妙に的確──っぽい。
毒島は数字の書かれた地面を見つめながら、さらにひと言。
「“8→2→5”……ふむ、西洋数秘術でいえば“浄化”の流れ。たしか、昔テレビの占いコーナーで見た気がするな……あるいは、単なる順番の逆読みか……」
まどかは驚きの表情で固まりかけ、思わずつぶやく。
「えっ……推理っぽい……?」
その背中に、ほんの少しだけ信頼の光が差し込んだ。
刑事として、初めて“風格”があった──気がした。
──まさかこのあと、すべてが“たまたま当たっていたように見えただけ”だとは、誰も思っていなかった。
* * *
「左利きの犯人、逃走方向は東……」
現場で毒島がメモも取らずに次々と情報を口にするたびに、まどかの心の中で“有能フラグ”がどんどん積み上がっていった。
「見てみろ、まどか君。鍵穴の摩耗が下方向に偏っている……これは日常的に左手で差し込んでいた痕跡だ」
「左利き……確かに。でも、そんなところまで……」
まどかは内心で焦りすら覚えていた。
(……なにこれ、私よりよっぽど観察できてるじゃん)
毒島はさらに、花瓶の破片を丹念に眺める。
「破片の飛散方向が東側に偏っている。つまり、割れた瞬間、犯人は西から東に動いていた」
「動線まで……分析してる……」
まどかは完全に“すごい人を見る目”になっていた。いつの間にかメモ帳を取り出して、毒島の言動を記録している自分に気づき、少し頬を赤らめる。
「そして……“8→2→5”だが……これは逆順ではない。“5→2→8”、つまり……ごふつや。いや……“やまもと”? 逆五十音だと……いや待て、これはフェイクか……!」
「この土の踏み跡……重心が左足寄り……悩みを抱えた人間の歩き方だな。ふむ、罪悪感が滲んでいる。あとこの石、やけに丸いな……前世で磨かれたかもしれん」
まどか「(いや何言ってるかわかんないけど、かっこいい……!)」
その場にいた巡査のひとりがボソッと呟く。
「……今日の毒島さん、なんか刑事っぽいですね……」
別の署員も頷いた。
「正直、課長より有能なんじゃ……」
まどかは苦笑しながらも頷く。これまでさんざん空回りしてきた毒島が、今日に限って“事件の核心に迫っている感”がある。
(こんな毒島さん、初めて見た……かっこいい……かも)
──だが、その錯覚を強く確信させる決定的な出来事が、次の瞬間に起きた。
現場近くの路地から、フードを目深にかぶった若い男がひょっこりと現れたのだ。
「……あの……この辺で……鍵とか、落ちてませんでした? あの……昨日、ここの倉庫でちょっと……」
毒島がスッと立ち上がる。視線が鋭くなる。
「君……その足元、土がついてるな」
「えっ……あ、いや、これは……その……鍵、落としたかもしれなくて……戻ってきたら……」
毒島の目線がスッと細まり、鋭い口調で続けた。
「“戻ってきた”というその行動、既に罪を認めているようなものだ……なぜ戻った?」
男は一瞬たじろぎ、しどろもどろになりながら言った。
「いや、その……現場にあんな目で見られたら、観念しますって……この刑事、只者じゃないと思って……」
まどかが一歩踏み出そうとした瞬間、男は顔を覆って叫んだ。
「ごめんなさい! 俺です! 俺がやりました! 鍵……落としたと思って戻ってきたら、まさか警察が来てるとは……!」
まどか「……え?」
毒島「……ふむ。つまり“戻ってきた犯人”……見事、事件は解決、か」
その瞬間、現場にいた全員が一斉に拍手しそうな空気になった。まどかはぽかんと口を開け、次の言葉が出なかった。
(……えっ、すごくない? 本当に解決……した……?)
毒島は背筋を伸ばし、まるで百戦錬磨のベテラン刑事のような面構えで呟いた。
「まどか君、今日は昼休憩を削ってでも、この件にケリをつけたかったんだ。どうしても、ね」
まどか「え……なんでですか?」
毒島は何も言わず、ポケットからカフェのスタンプカードを取り出し、指で“あと1回”の欄をトントンと叩いた。
「……オムライスに“にんむかんりょう”って書いてもらいたくてね」
まどか「目的……そこぉ!?」
* * *
取調室のガラス越しに、まどかは資料をめくっていた。
現行犯で連行された男――山本健二・二十四歳・アルバイト。すでに犯行は自供済み。被害品も回収され、事件としてはまさに“パーフェクトな解決”だった。
……のはずだった。
「まどか君」
背後から聞こえたその声に、彼女はビクリと肩を跳ねさせる。
「毒島さん……。なにか?」
「今朝の現場写真をもう一度見てくれ。“あの石”が……なかった」
「は?」
「丸くて、前世で磨かれたかもしれないあの石だ。どこにも写ってない」
「そりゃ、そもそも意味のない石ですから」
毒島は腕を組み、窓の外を見つめながら呟いた。
「ふむ……“存在しなかった証拠”……つまり、我々が見たあの現場は、すでに誰かの手で“整えられていた”可能性がある」
まどかは沈黙する。彼の横顔は、異様なまでに真剣だった。だが語っているのは、石だった。
「え、ちょっと待ってください……」
まどかは焦る。
「毒島さん、もう解決したんですよ? 自白もしたし、盗まれた工具も返ってきたし、物的証拠も一致して――」
「それが逆に怪しい」
「逆に?」
毒島はまっすぐに言った。
「まどか君。“完璧に一致する証拠”ほど、捏造しやすいものはない」
「いやいやいや!」
まどかが勢いよく立ち上がる。
「それ、ドラマとかでしか聞かないセリフですよ!? 本物の事件って、だいたい地味で雑で証拠が曖昧で――」
「そう、“雑さ”こそが真実の証だ。だが今回は、あまりにも整いすぎていた。これは……何かが“嵌められている”構図かもしれない」
「嵌めてないです! 嵌めてないですよ!!」
彼の目はまっすぐで、まるで真理を見つめる学者のようだった。
──ただし、話しているのは石についてである。
そのとき、課長が取調室のドアを開けて顔を出した。
「おい、毒島。何をごちゃごちゃ言ってるんだ。もう報告書出せよ。完了だ、完了」
「……課長。“完了”という言葉、軽々しく使うと“真実”が逃げますよ?」
「はいはい、いつものやつね。もう締め切りだ。帰れ!」
毒島はなぜか誇らしげな表情を浮かべた。
「ふむ……やはり、“にんむかんりょう”には、慎重な検証が必要ということだな……」
まどかは天を仰ぎながら心の中で叫んだ。
(この人と仕事してく未来が、一瞬見えなくなった……)
「(あっ、いま伏線回収しにかかってる……!)
毒島は静かに背筋を伸ばした。
「まどか君、昼休み――まだ、間に合うかな?」
* * *
カフェ“どんぐり”。昼下がりの店内は落ち着いた空気に包まれていた。
毒島とまどかは、いつもの席に腰を下ろしていた。
「……今日は、頑張りましたからね」
まどかがそう言うと、毒島は静かに頷いた。
「確かに……真相に迫るには、“感覚”を研ぎ澄ませることが大事だ。地面の乾き、風の通り道、石の有無……すべてが“声”を発している」
「その中で“石”の優先度が高すぎる気がしますけど」
店員がオムライスを運んできた。
白い皿の中央に、ふっくらとしたオムライス。その上に、ケチャップで丁寧に書かれた赤い文字。
「……“にんむかんりょう”」
毒島はしばしそれを見つめ、静かに頷いた。
「美しい……」
「何がですか」
「この文字のバランス。左から右へ、見事な構成。崩れのないレイアウト。これが、真の“事件解決”だ」
「違いますよ」
毒島はスプーンを手に取りながら、ふと天井を見上げた。
「まどか君。今日は、俺が本当に“刑事”だったかもしれない。……偶然だけどな」
「自分で言います!?」
そのとき、店内のテレビからニュースが流れた。
『本日未明、区内で発生した窃盗事件について、犯人が現場に戻った際に、偶然居合わせた警視庁の毒島刑事により逮捕されました──』
まどかは小さく肩をすくめた。
「“偶然居合わせた警察官”……って言い方、すごく合ってますね」
毒島はにやりと笑う。
「偶然を味方にできる人間こそ、本物の刑事なのさ」
「“味方にした”んじゃなくて、“たまたま居ただけ”です」
毒島はオムライスをひと口食べた。
「……うむ。“完了”の味がする」
まどかも、思わずケチャップの文字をじっと見つめてしまった。
「……これが“事件解決”の味なんですかね」
「気付きましたか」
「いや、気付いてないです」
毒島は満足げにスプーンを置いた。顔には、“全任務達成者”の表情が浮かんでいた。
店の外では、午後の陽光がゆるやかに差し込んでいた。
事件は解決し、真実は……まぁ、たぶん、どこかにあった。
だが今日も、毒島は胸を張る。
「……にんむかんりょう、っとな」
それは奇跡ではなく──日常である。
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