第4話「指紋が語る──何も語ってない」

午後の署内は、昼食後の静けさと満腹の眠気が混ざりあい、どこか緩んだ空気が漂っていた。書類棚の前で、沢村まどかはひとり眉をひそめていた。


「……なんで、こんなにはっきり?」


手にしていたのは、一枚のコピー用紙。角が少し折れ、なぜか中央付近に指紋がくっきり浮かび上がっている。インクではない。脂か、それとも何か別の――


「おっ、どうしたまどか君。その紙、俺のか?」


声をかけてきたのは、いつも通り悠然とした歩みの毒島 翼。カップに入ったぬるいコーヒーを片手に、書類の山を眺めながら近づいてくる。


「この指紋、誰のかって思って。ただの汚れならいいんですけど、気味が悪くて」


毒島は一瞥して紙を受け取ると、不意に目を細めた。


「……これは……おそらく“俺だ”な」


「なんでいきなり自白するんですか」


まどかのツッコミが入るより早く、毒島はスッと目を閉じ、紙を両手で包み込むように持ち上げた。


「この感触……これは“記憶に沈んだ証拠物件”の質感……。触れたことすら忘れた、あるいは忘れさせられた“何か”だ」


「急に陰謀論みたいな言い回しやめてもらえます?」


毒島の視線が紙の指紋に吸い込まれていく。


「……この曲線、この脂のにじみ。まるで“罪を躊躇った手”の残像……俺は……過去に、何を拒んだ?」


「もう詩の世界に入ってますよね? 現実戻ってきてください」


その頃、若手巡査の梶原がちょうど通りかかり、二人の様子を見て深いため息をついた。


「……また始まったか。これ、午後まで引っ張るやつだな」


毒島はそんな周囲の反応にはまったく気づかぬ様子で、さらに言葉を重ねた。


「指紋は“事実の抜け殻”だ。そこには、意志の名残と、触れてはいけなかった過去が潜む……ような気がする」


「気がするだけで突き進まないでください」


「……この脂……鶏皮か……いや、過去の罪の味だな」


「うわ、例えが雑になってきた!」


──こうして、「ただ指紋が付いていただけの紙」は、“事件の気配”どころか、“妄想の渦”を生む導火線へと変貌していくのだった。


──何も語ってないのに、語っているつもりの男がひとり、今日も堂々と事件を始めていた。


* * *


「で、この紙が何なんですか?」


まどかの問いかけに、毒島は一歩前に出て、ホワイトボードに向かって指を伸ばした。


「まずは照合だ」


「……何と?」


「俺の指紋と、紙の指紋の一致率を“感触”で確かめる」


そう言って、毒島はホワイトボードに自分の指をぺたりと押し付けた。


「……べたべたですね」


「この“粘度”、この“圧力”……同じだな」


「感覚的すぎて逆に怖いんですけど」


まどかが疲れたように額に手をやっている間にも、毒島はどこかからルーペを取り出し、紙を覗き込み始めた。


「見てくれ、この脂の分布。中心に向かって渦を巻いている。まるで、“何かに引き寄せられた意志”が……」


「紙を雑に掴んだからです」


「ちがう。これは“感情の旋回”だ。つまり、この紙に触れた瞬間、俺は何かを思い出しそうになった。だが、思い出せなかった。それが“罪”だ」


「いや違いますよね? というか、話が進んでるようでずっと足踏みしてますよね?」


そのとき、そっと様子を見ていた梶原が手を挙げた。


「あの、すみません。紙って、それ、さっき僕が使ってたやつじゃ……?」


「……なんだと?」


毒島がゆっくりと振り返る。まどかと目が合い、完全に“めんどくさい予感”で表情が一致する。


「僕、お昼に油染みた唐揚げ落としちゃって、それ拭いた紙かと……」


毒島は紙をじっと見つめた。そして静かに言った。


「……つまり、“この脂は唐揚げの記憶”……?」


「“罪の味”じゃなかったんですね」


「ふむ……ならばこれは、“欲望に屈した痕跡”とも言える」


「いや何かそれっぽく言い換えてるだけですよね?」


毒島は唐揚げを想像して目を閉じ、うっとりと微笑んだ。


「……やはり“罪”だな」


「この人、今日いつにも増して迷子ですね」


──唐揚げの香りの奥に、毒島は一瞬、記憶の断片を見た気がした。


「……この脂の匂い……あの日の屋台と、同じだ……あの夜も、俺は……逃げた……」


「いや何からですか」


──こうして、紙の正体が“ただの唐揚げ脂”である可能性が高まってもなお、毒島の推理(?)は止まらないのだった。


* * *


 午後の書類室。その片隅で、毒島は唐揚げ脂の染みた紙をホルダーに丁寧に収納していた。


「保存してどうするんですかそれ」


 まどかの問いに、毒島は真顔で応える。


「“記憶の具現”は、いつか証拠となる。……これは“感情を保存する試み”だ」


「昼食の残り物ですよ?」


 そこへ、巡回から戻った課長がタイミング悪く通りかかる。


「おい毒島、なんだその紙。まさかまた勝手に事件扱いしてるんじゃ……」


「課長。これは“人類の欲望が可視化された断片”です」


「弁当のゴミだろ」


 課長の冷酷な現実投下にも動じず、毒島はふいに手帳を取り出して何やら書きつける。


「“脂は、記憶の滑走路”……」


「いやそれポエム!」


「ポエムではない、報告書の序文だ」


「書類に詩心いらないから!」


 そこへ、若手巡査の梶原が再登場。


「あっ……さっきの紙、やっぱり僕の弁当用でした! ポケットに入れといたつもりが、落としたんです」


「……そうか……つまり、これは“落とされた真実”……!」


「違いますって」


 課長が頭を抱える。


「いい加減にしろ毒島……このままじゃまた報告会で“タイムロス要因”に記録されるぞ」


 だが毒島は一歩も退かず、逆に問い返す。


「課長、“意味があるもの”しか調べる価値はないのですか?」


 署内が一瞬、静まり返る。言葉の重みに呆れているのか、それとも何か響いてしまったのか、判然としない。


 その空気を打ち破ったのは、まどかだった。


「毒島さん、ちょっとだけ、いいこと言った風になってますよ」


「ふむ。ならばこの紙も、“ちょっとだけ意味がある風”になるだろう」


「どこまでポジティブなんですか」


 毒島はそのまま紙を抱え、誇らしげに署内を歩き出す。


「まどか君、我々の使命は“意味がないとされるものに、光を当てること”だ」


「それ、警察の仕事じゃないですよね?」


 しかし毒島の目は、どこまでも真剣だった。


* * *


 夕方。書類室の窓から斜陽が差し込み、署内に長い影が伸びていた。


 その影の中、毒島は自席に戻ると、例の脂染みの紙を丁寧に三つ折りにし、クリアファイルに収めた上で、引き出しの最下段“私的観察記録”フォルダへそっと差し込んだ。


「……俺は今日、何かを調べた気がする」


「いや、調べてないです。脂を見てただけです」


 まどかが無感情で返す。


「だが、“調べなかったこと”の中にこそ、“真実が潜む”のではないか……」


「それ、今日一日で何回目のポエムですか」


 そこへ課長が通りかかり、チラと毒島の机を見た。


「……お前、報告書に“脂の記憶”とか書いたら承認しないからな」


「ご安心ください。今回は“視察報告書”として提出します。視たものを、察した記録です」


「もう帰れ」


 課長の声を背に、毒島は立ち上がり、まどかに向き直った。


「まどか君。我々が手に取ったこの紙切れは、何も語らなかった。

 だが……語らないものほど、我々に何かを訴えかけてくる」


「だから“何も語ってない”ってタイトルにしたんですよね?」


「ふむ。“指紋が語る──何も語ってない”。良いタイトルだ」


「自画自賛すぎて逆に清々しいですね」


 ふたりは連れ立って署の外へ出た。空はほんのり朱に染まり、風が涼しく吹き抜ける。


「……今日も事件は、未然に防がれたな」


「いや最初から事件じゃなかったです」


 夕陽の中で、毒島は静かに目を閉じた。


「……つまり我々は、“無事な一日”という名の事件を、解決したのかもしれん」


「誰も求めてない名言ですよそれ」


 こうして今日もまた、毒島刑事の一日は終わる。

 

 解決はなかった。

 だが確かに、“何かをした気にはなれた”──


 それこそが、毒島刑事の本領なのかもしれない。


(つづく)

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