第3話「容疑者は“俺”かもしれない」

 その朝、四課の空気はやけに静かだった。静かすぎて、逆に怪しかった。


「……金のペンが、ない?」


 毒島 翼(ぶすじま つばさ)は手を止めた。ペンを走らせるべき紙の上で、静止する思考。


「課長の退官祝いです。昨日の会議室には、確かにありました」


 まどかの声には、わずかな警戒が滲んでいた。──“これは、また面倒な方向に行く”という予感。


 毒島は静かに眉をひそめた。


「……事件か」


「まだ何も起きてません」


「いや。物が消えたということは、存在が“再定義された”ということだ」


 胸ポケットを叩きながら、毒島は言った。


「つまり……犯人は……俺かもしれん」


 まどかは一歩下がった。本能だった。


* * *


 毒島は、自分のデスクに戻ると、机の引き出しを勢いよく開けた。

 紙クリップ、ホッチキス、謎の紙屑、ペン──すべてが“容疑物”に見えるらしい。


「……この配置。まるで“俺に罪を着せろ”と言っているような……陰謀か?」


「いや、自分の机ですから」


 まどかはもはや椅子にも座らず、毒島の半歩後ろで腕を組んでいた。


「いやな予感しかしないんですよね……この展開……」


 毒島はホワイトボードに自らの名前を書いた。

 そして矢印を引き、そこに「容疑者A」と赤で書き足す。


「自白前提かよっ」


 毒島は「記憶の断片」と称しながら、どうでもいい過去の話を語り始めた。


「──そう、俺が課長から“最後まで頼りにならなかったな”って言われたあの日……あれは確かにペンを受け取ったような、受け取ってないような……夢だったかもしれん……あるいは予知夢か……」


「え、なにその“反省してるようで何も反省してない”モノローグ」


 彼は次に、署内の別室に乱入した。給湯室で冷蔵庫を開け、しばらく沈黙。


「……ここに、“記憶の封印”がある気がした」


「無理ある! ただの牛乳ですよねそれ!」


 戻ってきた毒島は、今度は周囲の机を“現場検証”し始めた。

 インクのシミ、紙の折れ方、誰かが置いたコーヒーカップの水滴──


「これは……指紋じゃない。“涙の跡”かもしれん」


「どこの法医学だよ!」


 書類棚をあさっていた若手巡査──新人の梶原が毒島に聞いた。


「毒島さん、もしかして捜査されてます?」


「いや、自己捜査だ。“心の手錠”をかける覚悟はできている」


「……あっ、はい」


 署内の空気が薄くなる。


 そのとき、毒島は机の奥から“封筒の切れ端”を発見する。


「これは……課長の筆跡? いや違うな、これは俺の文字……しかも“おつかれさま課長へ”って……まさか俺……贈ったのか? ペンを……自分に!?」


「いやだからなんで“自己宛ギフト”が自然に出てくるの!?」


 まどかは深呼吸した。手を口元に当て、言葉を飲み込む。

 ──限界だった。


「もういい加減にしてぇ!!」


 その叫びが署内にこだましたが、誰も振り向かなかった。

 いつものことだった。


 梶原がそっと呟いた。


「……あっ、今日もこの人、調子いいな……」


* * *


 署内の会議室。

 ブラインドの隙間から差し込む陽光のなか、毒島は静かに椅子に座っていた。


 正面の机には何も置かれていない。ただ、彼の前にあるのは「沈黙」と「勝手な罪悪感」だけだ。机の端には、自分の運転免許証と、反省文のようなメモ──内容はポエムが3割を占めていた。


「……もう、言葉は要らん」


 まどかがドアを開けて覗いたが、毒島は首を横に振る。


「黙秘権を行使する。俺は……俺自身と向き合う時が来たようだ」


「自分で勝手に取り調べ部屋に入って黙ってるって、なにそれ……」


 その背中はどこか哀愁を漂わせているようで、単に休憩してるようにも見えた。


「まどか君……罪とは何か、考えたことがあるか?」


「ありますけど、それ“自分で盗った記憶がある人”が使うセリフですよね?」


 毒島は窓の外を見つめ、詩のような声で語る。


「ペン……あれは人から人へと想いを継ぐ道具。俺は、それをどこかで踏みにじったのかもしれん……たとえば、課長の送別会で……熱燗の海に浮かべたか……」


「酔っ払って記憶なくしたことだけはわかりました」


 そのとき、ガラリと扉が開いた。


「おーい、毒島ァ!」


 現れたのは、被害者──課長だった。


「ペン、あったぞ。自宅の上着のポケットに入ってた。飲み会のあと脱いでそのままだったらしい」


「……!」


 毒島はゆっくりと立ち上がる。


「つまり……俺は……犯人ではなかった……?」


「いや最初から誰も疑ってないし、事件じゃないし」


 まどかが額を押さえる。


 だが、毒島はその場に深々と頭を下げた。


「ありがとう、課長。俺はこの数時間で、多くを学びました。“人を疑うよりも、自分を疑う勇気”……これが、捜査の第一歩だと……」


「……あ〜、これ、またあとで会議資料に“毒島タイム”って書かれるやつだ……」


「帰れ!!!」


* * *


 その日の夕方。

 署内の空気は、何事もなかったかのように、いつもの雑音と書類の音に満ちていた。


 毒島は自席に戻り、腕を組んで遠くを見つめていた。


「……人は、真実に辿り着くことで、また一歩、迷いを深めるものなのかもしれん……」


 誰も聞いていない。まどかもいない。だが毒島は、ひとり言葉を続けた。


「俺は今日、“何もしていない”ことで、“何かを知った”気がする……」


 そこへ、まどかが無言で戻ってくる。椅子に座り、何も言わずパソコンを開いた。


「まどか君、聞いてくれ。“疑わしきは罰せず”──それはつまり、“疑われるほどに生きた”証拠なのだ」


 まどかはタイピングの手を止めず、ただ呟く。


「……昼休み、30分しかなかった気がします」


「ふむ。時間という概念もまた、捜査の中では曖昧なもの──」


「あと15秒で“毒島タイム延長”って書きますからね」


 毒島はふっと微笑んだ。


「ありがとう、まどか君。君の冷静な観察眼が、今日もまた俺の妄想を適切に包み込んでくれた」


「もう包まなくていいんですよ……」


 そのとき、梶原が資料を持って通りかかり、軽く会釈した。


「毒島さん、次の会議、15時からっす」


「了解した。“事実”よりも“印象”を重んじて発言しよう」


「それだけはやめてください」


 夕日が傾き、ブラインドの隙間から射し込む光が、毒島の机を照らしていた。


 その影の先には──なぜか、再び紛失している課長のペン。


 まどかは、小さく息を吸ってから呟いた──


「もう知らない」


 その声が完全に無機質になったところで、今日の捜査(?)は幕を下ろす。


(つづく)

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