第2話「犯人は“君”だったのかもしれない」

  商店街の裏路地。朝の光がまだ地面に届ききらないその一角で、警察の制服姿がひときわ目を引いていた。


「事件です……いや、事件“かもしれません”」


 現場に立ち尽くす主婦が指差した先には、数枚のクッキーが、舗道にぽろぽろと点在している。


「これは……“手作り”ですね」


 しゃがみこんだ毒島翼は、指先でクッキーを摘み上げ、まじまじと見つめた。甘い香り。ところどころにハート型のくぼみ。


「この形状……まるで、感情の暴走が焼き固められているな……!」


 躊躇の欠片もない手付きで、毒島はクッキーを口に放り込んだ。


「ちょ、毒島さん!? 何食べてるんですか!」


 横で声を上げたのは、部下の沢村まどか。ツッコミ役、そして理性という名の保冷剤である。


「ふむ……バターの風味と、微かなシナモン。……これは“毒”かもしれんな」


「じゃあなんで食べたんですか!」


「まどか君、真実というものは、口にしないと味がわからんのだ」


「それ、食レポの理屈ですよね?」


 そのやり取りを見守る主婦が、おずおずと口を開く。


「あの、そのクッキー……たぶん、小学生の子が配ってた“ありがとうクッキー”なんです。昨日も、うちに来てくれて……」


 毒島が立ち上がり、逆光の中で言った。


「……つまりこれは、“感謝”という名の偽装工作か」


「ちがいます」


* * *


「それで、その小学生はどこに?」


 毒島の問いに、主婦が困ったように笑う。


「さあ……昨日見かけただけで。ランドセル背負って、にこにこしながら配ってて……でも名前とかは……」


「ふむ。つまり“正体不明の配布者”か。危険だな」


「危険じゃないですって」


 まどかが即座に訂正を入れるが、毒島はもはや聞いていない。


「クッキーの数、五枚。配置は……南西に偏っている。風か? いや、本人の“心理的傾き”か……あるいは、地球の自転と引力による“クッキーの地場移動”……!」


「いや違いますよね!? というか、言ってて自分でも意味わかってないですよね?」


「まどか君。“何もわからない”という事実は、“何かが隠されている”証拠でもあるのだ」


「それ、さっきから詭弁のサンプルとして完璧すぎて逆にすごいです」


 毒島は立ち上がると、いきなり方角を指差した。


「よし、あっちだ!」


「どっち!?」


「北東。直感がそう言っている!」


「せめて根拠ください!」


 そうして二人は商店街を進み始める。


 八百屋の前を通り、揚げ物屋の香りに足を止めかけ、最終的に駄菓子屋の前で立ち止まった。


「ここか……“甘味の源流”……!」


 毒島が入店すると、駄菓子屋の奥から、年季の入った店主が顔を出す。


「おう、また妄想で事件作ってんのかい、毒島さん。こっちは営業妨害だよ」


「事件“かもしれません”。そしてそれは、売上の“真相”に通じる道でもある」


「いや、やっぱ帰ってくれないかな」


 そう言いながら、毒島はショーケースに目をやる。


「……見てください。ハート型のクッキー、ここにもあります。しかもこの、微妙な欠け……これは“心の欠落”のメタファーか」


「割れてただけです」


「割れていただけか……つまり“偶然を装った意図的な破壊”の可能性がある」


「今日はいつにも増して無意味ですね」


* * *


 駄菓子屋を出た二人は、商店街の通りを歩きながら、なおも議論を続けていた。


「つまりだな、“ありがとうクッキー”という名称自体が、すでに心理的トラップなのだ。あえて感謝を口にする者こそ、感謝の欠如に苦しむ裏返し……」


「その理屈でいくと、ありがとうって言うたびに疑われますけど」


 まどかは半ば呆れながら、ふと立ち止まる。


「……あれ?」


 視線の先には、小さな広場とベンチ。そして、ランドセルを背負った少女が、ひとりで何かを配っていた。


「いた……! あの子かも!」


 まどかが駆け寄ろうとするよりも早く、毒島はサッと身を翻した。


「やめろ、まどか君。今、声をかけるのは危険だ」


「えっ!? なんでですか」


「“このタイミングで現れる”ということは、奴は……“我々の動きを先読みした監視者”の可能性がある……!」


「だから何の話ですか!」


「共犯者のふりをして接触する。それしかない」


「そんな諜報ドラマじゃないですから!」


「我々が、“ありがとうクッキー配布組織”の一員を装えば、奴は安心して真意を語り出すはず……」


「ないです」


「いや、ある」


 毒島は真顔で、近くのパン屋に駆け込んだ。しばらくして戻ってきた彼の手には、ビニール袋に入ったラスクの詰め合わせがあった。


「この詰め合わせ……どこか……神の意志を感じる……。これを“感謝の供物”として捧げよう。我々も“仲間だ”と伝えるのだ」


「パン屋さんも迷惑ですよ絶対」


* * *


 毒島は慎重に、まるで外交儀礼のようにラスクの袋を掲げ、少女のもとへと歩み寄った。


「……我々は、“甘き想いの共有者”である」


「怪しいよ!!」


 まどかの叫びを背に、毒島は真剣そのものの表情で、そっとベンチにラスクを置いた。


 少女はきょとんとしつつも、小さく笑った。


「ありがとう、おじさん」


「ふっ……“ありがとう”を受け取る覚悟はある。君の真意を、語ってくれ」


「えっと……今日は“感謝の日”っていう学校の課題で、“ありがとう”を誰かに伝えるって決めたの。だからクッキー配ってるの」


「……“感謝の日”……課題……?」


 毒島はゆっくりと顔を上げ、空を仰いだ。


「……ふむ。“教育の名を借りた思想統制”か……!」


「違います!!」


「……そうか。“君”は……“君”だったのか……!」


「え、何そのポエム」


「犯人は、“君”だったのかもしれない。そしてそれは、最初から“罪”などではなかった……」


 その瞬間、毒島のポケットの無線が鳴る。


『毒島さん、例の器物損壊事件、目撃証言が入りました。でも、毒島さんが“自転車を蹴ってた”ってことになってて……』


「……来たか」


「それ、通報される側じゃないですか!!」


 まどかに腕を引かれながら、毒島はなおもラスクに一礼し、去り際につぶやいた。


「まどか君……今後、この街で“ありがとう”を見るたびに……我々は、少しだけ優しくなれるだろう」


「どの口が言うんですか、それ!」


 ──こうして今日もまた、事件は何も解決しなかった。


 だが毒島は胸を張る。


「……解決しないこと。それこそが、人間の深淵だ」


「黙って走ってください!」


(つづく)

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