『解決ゼロ!毒島刑事は今日も堂々無能』

椎茸猫

第1話「犯人は、この中には……いません」

 朝の喫茶“どんぐり”。モーニングセットのトーストが、トレイの上でカリッと鳴った。


「店長、この“うっすらコーヒー”は何ですか?」


 ドン、とカップをテーブルに置いたのは、警視庁・捜査四課の刑事、毒島 翼(ぶすじま つばさ)――四十代独身、顔は濃いが記憶力は薄い男である。


「いや、すみません……それ、お湯です。お湯のポットと間違えて……」


「……なるほど。つまりこのカップ、外見は“コーヒー”に見せかけながら、正体は“お湯”。変装だな」


「いや違いますって」


「ふむ、偽装工作の可能性がある。つまりこれは――犯人からのメッセージかもしれない」


 そう呟いて毒島は立ち上がり、カップを逆光にかざして真顔になった。周囲の客の視線が痛い。


「毒島さん、ただの注文ミスです。お湯です。しかも自分で頼みましたよね、ホット」


 冷静にツッコむのは、捜査四課の新人刑事、沢村まどか。毒島の部下であり、唯一まともな思考を持つ人物である。


「まどか君。この世のすべての事件には、些細な違和感がつきまとうんだ。例えばこのトーストの焼き目、左下だけが微妙に焦げてる。何かのサインかもしれない」


「単にオーブンのムラ焼けです」


「その“ムラ”が重要だ。そこに犯人の心理が表れている……気がする」


「気がするだけなんですね」


 毒島は「ふむ」と腕を組んで目を閉じた。その表情は、深遠なる推理を巡らせているようで、実際には朝のメニューを思い出しているだけだった。


 まどかがコップの水を飲もうとしたとき、毒島がふと店の観葉植物に目を向けて言った。


「……あの葉っぱ。少し左に傾いているな」


「風です」


「違う。これは“視線”の歪み……つまり誰かがこの店内を監視している可能性が高い」


「監視されるほどのことしてません」


「いや、植木鉢の向き、店内の音響反射……そしてこのストローの曲がり角度。完全に“何かを誘導している”設計だ」


「飲み物のストローで導線を読むのやめてください」


 そのとき、喫茶店のドアが勢いよく開いた。


「事件です! 交番の前に人が倒れてるって通報が!」


 息を切らして駆け込んできた若い巡査が叫んだ。


「……来たか」


 毒島が低く呟いた。


「やっとですか?」


「いいか、まどか君。事件というのは“呼ばれている”ときに行くものじゃない。こちらが“引き寄せる”ものだ」


「……今の何かっぽいだけで意味ゼロです」


 喫茶店を飛び出す二人。


 だが事件現場に着くと、倒れていたのは単なる酔っ払いのサラリーマンだった。


「……とりあえず、意識はあります」


「……うーん」


 毒島はその男のネクタイの結び目を見つめて言った。


「これは……ウィンザーノット。つまり彼は“きちんとした社会人”だった可能性が高い」


「今はどうでもいいです」


 まどかは既に救急車の手配を済ませていた。通報者の主婦たちは毒島の話を聞きながら、微妙な表情で相槌を打っている。


「で、この事件、どうします? ……あれ、事件じゃないですよね」


 まどかの問いに、毒島は空を見上げて言った。


「事件じゃない……その判断が、実は最大の罠だった……なんてことは、よくある」


「ないです」


「まあいい。とにかく、我々がここに来たことに意味がある」


「来て、コーヒーを飲み損ねて、酔っ払いを見ただけですよ?」


 そう言いながら、まどかはふとポケットからチョコバーを取り出し、かじる。


 毒島はそれを見て呟いた。


「……事件だな」


「なんでですか」


「それ、チョコバーなのに……常温。普通、夏場は少し溶けるはずだ。つまり冷えてる。これは“冷蔵保存されていた”ということだ」


「冷蔵庫に入れてただけです」


「……ふむ。まどか君、君の部屋に“冷蔵庫”があること、署の誰にも言ってなかったな?」


「普通にみんなありますよ」


「なるほど。だとすればこの事件――いや、これは“未然に防がれた可能性”が高い」


「もう、何言ってるか自分でもわかってませんよね?」


 そのとき、署から連絡が入る。


『毒島さん、例の盗難事件……やっぱり手がかりなしです』


「……よし!」


「え、何が『よし!』なんですか」


「まどか君。手がかりがないということは、“何もわからない”という“何かがわかった”ということだ」


「帰りましょう」


 二人は交番の前で、沈む夕日を背に並んで立っていた。


「……本当に、何も解決してませんね」


「ああ。だが事件というのは“解決しないこと”こそがリアルだ」


「……そういう言い訳ばっかり上手になってますよね」


「ありがとな、まどか君。君のその冷静なツッコミが、今日もまた事件の真相を遠ざけてくれる」


「本当にどうかしてますよ」


 ――そして翌日。


 署の会議室。


「昨日の事件、毒島くん。君は一体何をしていたんだね」


 課長の問いに、毒島は堂々と答えた。


「事件の空気を、深く吸い込んでいました」


「はぁ?」


「……そして結論に至りました。“犯人は、この中にはいません”」


「いや、そもそも事件が起きてないんだよ!」


 毒島は胸を張って言った。


「それが、最大の謎なのです」


「もう帰れ!!」


(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る