かさぶた

浅野じゅんぺい

かさぶた

転ぶ前って、

ちょっとだけ、浮いてる気がする。


足の裏が、ふわりと地面を離れて、

空中にぶら下がってるみたいな。

その一瞬だけ、時間も、呼吸も止まる。


子どもの頃、よくそうなった。


膝をすりむいて、血が滲んで、

泣くよりも先に、まず悔しかった。


母さんはいつも言ってた。

「放っておけば治るから」って。


ほんとに放っておくと、

かさぶたができて、

それがいつの間にか剥がれて、

新しい皮膚が顔を出す。


そうやって、ちゃんと回復するものだと思ってた。



でも、

風呂に入ると、ふやける。


柔らかくなったその部分に、

つい、指が伸びてしまう。


そしてまた、同じところから血がにじむ。


──癖なんだと思ってた。


でもきっと、癖なんかじゃない。

治りかけてることが怖くて、確認してしまう。


痛みがまだそこにあると、

なんだか安心する。


今も、そんなふうに生きてる。



先週、バスケで転んだ。


膝にできたかさぶたが、

今ちょうど、湯の中でふやけてる。


ぼんやり眺めているうちに、思い出す。


──あの夜。


「ちょっと、距離を置こうか」

そう言った瞬間、

彼女の顔が、すっと静かになった。


しばらくして、ぽつりと落ちた言葉。


「距離、って便利だね」


湯気みたいな声だった。

触れたら消えてしまいそうで、

でも確かに、そこにあった。



「ちゃんと終わるのって、

きっと、もっと痛いんだよ」


目をそらさずに、ゆっくりと言葉を選んでた。


「わたし、まだそこまで冷めてないだけ。

それって、未練っていうのかな。

よくわかんないけど」


そう言って笑った彼女の目は、

ぜんぜん、笑ってなかった。


あのとき、何も言えなかった。

言えばよかったのかもしれない。


でも、なにが正しかったのか、

今もわからない。



あれから一か月。

連絡はしなかった。向こうからも、なかった。


何度かスマホを開いては、

“元気?”って打って、消した。


「なんで俺がそんな顔しなきゃなんないんだよ」

って思ったこともあった。


でも、最近になってふと思い出す。

彼女のあの言葉。


「ちゃんと終わるのって、もっと痛い」


きっと、

かさぶたが自然に剥がれるのを待つ、ってことだったんだろうな。


俺には、それができなかった。

治る前に、自分で剥がした。

怖くて、待てなかった。


「なんで自分から傷つくほうを選ぶの」


──昔、彼女に言われたことがある。


今なら、少しだけ意味がわかる。



湯がぬるくなってきた。


膝のかさぶたが、端から浮いてきている。


でも──今日は、剥がさない。


風呂を出て、タオルでそっと膝を包む。

スマホを手に取る。


画面はすぐには開かない。

ただ、じっと眺める。


やがて、保存されたままのメッセージに、指が触れる。


──未送信のままの言葉。


 


《ねえ、あのとき

わかってなかった、ちゃんと。

でも今は、少し違う。

話せるかな、もしよかったら》


 


指が、ほんの少しだけ震える。

でも、送る。


送ってから、

また風が窓を揺らした。


あのときの彼女の声に、

少し似てた。


まだどこかに、体温が残ってる。

ちゃんと終わらなかったぶんだけ、ほんのわずかに。




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かさぶた 浅野じゅんぺい @junpeynovel

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