かさぶた
浅野じゅんぺい
かさぶた
転ぶ前って、
ちょっとだけ、浮いてる気がする。
足の裏が、ふわりと地面を離れて、
空中にぶら下がってるみたいな。
その一瞬だけ、時間も、呼吸も止まる。
子どもの頃、よくそうなった。
膝をすりむいて、血が滲んで、
泣くよりも先に、まず悔しかった。
母さんはいつも言ってた。
「放っておけば治るから」って。
ほんとに放っておくと、
かさぶたができて、
それがいつの間にか剥がれて、
新しい皮膚が顔を出す。
そうやって、ちゃんと回復するものだと思ってた。
*
でも、
風呂に入ると、ふやける。
柔らかくなったその部分に、
つい、指が伸びてしまう。
そしてまた、同じところから血がにじむ。
──癖なんだと思ってた。
でもきっと、癖なんかじゃない。
治りかけてることが怖くて、確認してしまう。
痛みがまだそこにあると、
なんだか安心する。
今も、そんなふうに生きてる。
*
先週、バスケで転んだ。
膝にできたかさぶたが、
今ちょうど、湯の中でふやけてる。
ぼんやり眺めているうちに、思い出す。
──あの夜。
「ちょっと、距離を置こうか」
そう言った瞬間、
彼女の顔が、すっと静かになった。
しばらくして、ぽつりと落ちた言葉。
「距離、って便利だね」
湯気みたいな声だった。
触れたら消えてしまいそうで、
でも確かに、そこにあった。
*
「ちゃんと終わるのって、
きっと、もっと痛いんだよ」
目をそらさずに、ゆっくりと言葉を選んでた。
「わたし、まだそこまで冷めてないだけ。
それって、未練っていうのかな。
よくわかんないけど」
そう言って笑った彼女の目は、
ぜんぜん、笑ってなかった。
あのとき、何も言えなかった。
言えばよかったのかもしれない。
でも、なにが正しかったのか、
今もわからない。
*
あれから一か月。
連絡はしなかった。向こうからも、なかった。
何度かスマホを開いては、
“元気?”って打って、消した。
「なんで俺がそんな顔しなきゃなんないんだよ」
って思ったこともあった。
でも、最近になってふと思い出す。
彼女のあの言葉。
「ちゃんと終わるのって、もっと痛い」
きっと、
かさぶたが自然に剥がれるのを待つ、ってことだったんだろうな。
俺には、それができなかった。
治る前に、自分で剥がした。
怖くて、待てなかった。
「なんで自分から傷つくほうを選ぶの」
──昔、彼女に言われたことがある。
今なら、少しだけ意味がわかる。
*
湯がぬるくなってきた。
膝のかさぶたが、端から浮いてきている。
でも──今日は、剥がさない。
風呂を出て、タオルでそっと膝を包む。
スマホを手に取る。
画面はすぐには開かない。
ただ、じっと眺める。
やがて、保存されたままのメッセージに、指が触れる。
──未送信のままの言葉。
《ねえ、あのとき
わかってなかった、ちゃんと。
でも今は、少し違う。
話せるかな、もしよかったら》
指が、ほんの少しだけ震える。
でも、送る。
送ってから、
また風が窓を揺らした。
あのときの彼女の声に、
少し似てた。
まだどこかに、体温が残ってる。
ちゃんと終わらなかったぶんだけ、ほんのわずかに。
かさぶた 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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