第2話 謎の街、リヴァーデン
「い、つつ……!」
ガンガンと痛む頭を抑えて、マーガレットは身体を起こした。
「わ、私、生きてる……?」
頭の中で跳ね回る痛みと、腰と腹に食い込むようなコルセットの痛みが、まだ死んでいないことの証明になっているような気がして、マーガレットはげんなりしつつもどこか安堵を覚えた。
「此処は……? 一体、どうなったの……?」
頭を軽く振って、そっと目を開ける。頭痛の影響で視界は霞んでぼやけていたが、時間の経過と共にだんだんと焦点が合わさってきた。
「え……!?」
そして驚愕した。そこは、さっきまで居た汽車の客室ではない。
赤煉瓦を積み上げて作られた、伝統ある従来の建築様式の他に、鋼鉄やコンクリートといった時代の最先端をゆく豊かな建築物の習合。それらを彩る装飾の数々も、ひと目見て非常に洗練されたデザインだと分かる。壮麗な意匠を凝らして造り上げられた都市の街並みが、マーガレットの眼前に広がっている。
どうやら自分は、いつの間にか街のど真ん中に倒れていたらしい。
「嘘!? 汽車は……!?」
慌てて周囲に首を巡らして自分の乗ってきた汽車を探すも、辺りには汽車どころか線路も駅も見当たらない。それどころか、見渡す限り建物群ばかりで人の姿がまったく無い。
完全に、自分は見知らぬ街中でひとり放置されていた。
「あのー! 誰か、誰か居ませんかー!?」
声の限りに呼びかけてみても、どこからも反応は返ってこない。やはり、少なくともこの近辺に人は居ないようだ。
「と、とにかく移動しなきゃ……! あの汽車を探さなきゃ!」
不気味な沈黙が横たわる街の空気に押し潰されそうになりつつも、マーガレットは自分を奮い立たせて立ち上がった。とにかく、此処でじっとしていても始まらない。何ひとつ分からない、理不尽極まる状況とはいえ、ただうずくまっているよりは無理やりにでも行動した方がずっと良い。
何はともあれ、まずは汽車だ。来た時に乗っていたあの汽車を見つければ、何か分かるかも。
「もう、なんなのよ……! なんで私が、こんな目に遭わないといけないの?」
無人の街中を恐る恐る進みつつ、マーガレットは湧き上がる怒りを言葉にして吐き出す。そうすることで、絶えず膨らむ不安と恐怖を払い除けようとしていた。
それにしてもおかしな街だ。所狭しと建てられている建築物も、自分が今踏みしめて歩いている道路も、どれもお金をかけて整備された立派なものだというのに人っ子ひとり見当たらないなんて。
街路沿いに並んでいるレンガ造りの家屋も、軒先に看板が垂れているところから何かの商店と推定できるのだが、奇妙なことにどの看板ものっぺりした無地だ。これでは何の店なのか分からない。ショーウィンドウらしきものも見当たらないので、中の様子がどうなっているのかも不明だ。
目線を更に上に上げてみる。空はどんよりと赤黒く、ところどころに雲のようなものが渦を巻いており、夕焼けともまた違う異様な有り様となっていた。まるで地獄のような空模様だ。その陰鬱な空気が地上にまで降りてきて、街全体を余計におどろおどろしいものにしているのだろう。
「あいつが言っていたのって、この街のことなの? 確か、リヴァーデンとか言ってたけど」
その名前を頼りに記憶を掘り起こそうと試みたが、該当する都市は浮かばなかった。マーガレットはこれでも、王都在住の貴族階級に連なる身分だ。淑女の嗜みとして、やりたくもない数々の勉強を両親に強いられてきたけど、それでもいくらかその甲斐はあって恥をかかない程度の知識は身に付いている筈だ。国の主要な都市から地方の田舎の名称まで、基礎的な地理情報はちゃんと把握しているが、どこにもリヴァーデンなどという街は無かったと記憶している。
こんな不可思議な街、あったとしたら必ず噂のひとつくらい耳に入って来そうなものだが。
「もしかして、私の居た国じゃないの?」
もしそうだとしたら非常に厄介だ。万が一誰か見つけたとしても、言葉が通じない可能性が高い。そうなると、当然ながら助けも求められない。
「ああもう! 本当に、なんでこんなことになってるのよ!」
苛立ちを隠そうともせず、マーガレットは艷やかな自分のブロンドヘアーをかきむしった。とてもレディのやることではないし、せっかくのセットも乱れてしまう行為だが、構わない。どうせ見ている人も居ないし、コルセットといいドレスといい好きで着ている衣服でもない。
「落ち着きなさい、私。順を追って思い出しましょう。まず、今日は朝から館で過ごしていたのは間違いないわ。メイドや執事と普段通りのやり取りをして、いつものように退屈な休日を送っていただけ……」
言葉にして整理してみると、徐々に記憶が鮮明になってきた。
毎日課される諸々の勉学も、時には息抜きさせてもらえる日がある。ただし、そんな日でも大抵は好きに外出も出来ないのだが。
両親が自分に何を求めているのか、マーガレットは嫌というほどに分かっていた。貴族階級の娘として生まれ、恵まれた環境で人生を送れていることにはどれだけ感謝してもしたりない。それと引き換えに自由が制限されるのも、ある意味では仕方ない部分はあると頭では理解している。
平民には平民の、貴族には貴族の役割がある。産業革命だ近代化だと近頃は技術の進歩が著しく、それに伴って人々の意識も変化していってるこのご時世、封建制度の名残である貴族階級は既に形骸化しつつある。だが、たとえ死にかけの古い価値観だとしても、今はまだそうした意識は根強く残っているのだ。自分も当然、その務めは果たさなければならない。
そして、マーガレットに求められた役割とは……。
「あーダメダメ、今はそんなことどうでも良いの」
脱線しかけた思考を、首を振って修正する。
自分はずっと館の中に居た、それは間違いない。自由に外出ができないだけで、館の中では特に行動が
そして汽車の中で微かに浮かんだヴィジョン。ロウソクを片手に何かを抱えながら地下室へ降りていく自分の姿。
あれは一体なんだったか。館の中を探索して、何かを見つけたのだろうか。それを持って、人目を避けるように地下へ降りていったのが最後の記憶だ。
それから汽車の中で目覚め……後はこの通り。
「何よ、私は一体何をしていたの? こんな状況になっているのは、そのせいだとでも言うの?」
自分が見つけた『何か』、それが鍵なのだろうか。相変わらず記憶には欠落があり、それは埋まる気配がない。苛立ちと共に意識に浮上してくるのは、汽車の中で出会ったあの謎の青年だ。彼なら、マーガレットが失った記憶について何か知っていただろうか?
「……少なくとも、間違いなく私の現状に一枚噛んでるでしょうね。ああ、思い出したら腹が立ってきた」
癇癪をぶつけるように、傍に立っている街頭を足で蹴る。上質の革で作られたかかとの高いブーツが鉄柱にこすれて汚れたが、気にしない。此処にはマーガレットの粗相を咎める人間など誰も居ないのだから。
「誰だ?」
突然、街頭の後ろに広がる路地の闇の中からしわがれた声が飛んできて、マーガレットは仰天した。無人の街だと思い込んでいたが、それは間違いだったようだ。無作法を見られたという焦りと羞恥、そして得体のしれない謎の街で出会う最初の人間ということで、マーガレットはひどく緊張し心拍数が跳ね上がる。
「お前、見ない顔だな。新入りか?」
路地の暗がりからぬうっと現れたのは、見るからに困窮していると分かる男性だった。くたびれて所々がほつれた灰色のフロックコートを着て、頭には茶色に変色したカンカン帽を被っている。ひげだらけの顔には生気が乏しく、痩せこけた頬にはシミのようなものが浮き出ていて、見るからにやつれて不健康だ。だがそんな弱々しい佇まいとは対照的に、目だけがやたらと血走っていて底知れない光を瞳に宿していた。
「あ、し、失礼したわ。私はマーガレット、ウォレス家のマーガレット・ウォレスという者よ。王都に住んでいたんだけど、何の因果か自分の知らない内にこの街にやって来ちゃっていてね。途方に暮れていたところなのよ」
男の持つ不穏な雰囲気に気圧されつつも、淑女の嗜みとしてマーガレットは軽く自己紹介と現状の説明をした。言い方が多少居丈高で
果たして、男はマーガレットの言葉遣いに大して感情を表さず、値踏みするようにジロジロと見てきた。
「女か、それも若い。しかもどうやら、良いところのご令嬢みたいじゃないか」
上から下まで、舐めるように何度も視線を這わせる。その粘っこい目線に本能的な嫌悪感が掻き立てられるが、マーガレットは努めて平静を装い男に言った。
「ねえ、不躾で悪いんだけど、助けてくれないかしら? 今はちょっと、お金の持ち合わせが無いけど、無事に家へ帰ることが出来た暁には充分にお礼をさせてもらうわ。ウォレス家は良くも悪くも義理堅いことで有名なの。危害を加えられれば必ず報いを受けさせるけど、親切にしてもらったら必ず恩返しする、といった具合にね。私を助けてくれるなら、きっと一族をあげてその恩義に報いるわ」
言外に、自分に手出ししてもろくなことにならないぞ、と警告を込める。だがしかし、男はそれを聞いても下卑た笑みを浮かべて怯む様子がない。
「くくっ、なんだそりゃ。脅しているつもりか? お嬢ちゃん、どうやら来たばっかで右も左も分からねえってところだろうが、残念だったな。どれだけ凄い後ろ盾があろうと関係ねえのさ、このリヴァーデンではな」
「この街のことを良くご存知のようね。その様子じゃ随分長く此処に住んでいるみたいだけど、そんなに素敵なところなのかしら?」
マーガレットは余裕のある態度を維持しようと、肩にかかった髪を手で掻き上げる。内心の動揺を悟られまいと、声にも仕草にも全神経を総動員して悠然と構えてみせた。この男に決して弱味を見せてはならないと、本能が警鐘を鳴らしていた。
助けを得られないのなら、せめて少しでも情報を引き出さないと。
「ああ、とても良いところだぜ。此処はな、俺達のような人間を取り込む代わりに、何でも望みに応えてくれるんだ。したいことを、させてくれるんだ。欲しいものを、与えてくれるんだ」
男の目に狂気じみた光が宿る。その異様さに、マーガレットは思わず一歩引いてしまった。
まずい。これは、欲望の目だ。
「まだ今日の宴には早いが、かまうこたねえ。夢魔ばかりで、ちっとばかし飽きがきていたところなんだ。たまにはちゃんと、人間の女を抱いてみないとなあ」
「な、何を考えているのよ!? それ以上近寄らないで!」
ゆらりとこちらに一歩踏み出す男に、マーガレットははっきりと恐怖を覚えた。飢えた猛禽類のようなギラギラした目が、マーガレットの一挙手一投足を捉えて離さない。猛牛のように荒くなった鼻息が、今にも顔にかかりそうだった。
「難しく考えるなよ、お嬢ちゃん。あんただって、この街にこうして流れてきたんだ。うっとおしいことは忘れて、あんたも楽しめば良い。俺と一緒にな……」
男の手がたどたどしくマーガレットに伸びてくる。極度の興奮に酔いしれているせいか、その動きはひどく緩慢で、それが逆に威圧感を醸し出す。
「い、いやあああっ!」
マーガレットはたまらず逃げ出した。胸元に伸びてきた男の指先から飛び退くように後ずさると、そのまま踵を返し全力で駆け出す。
「ははっ、追いかけっこってわけか! 良いぜ、逃げてみな! そっちの方が逆に燃えるってもんだぜ!」
赤黒い空に、男の哄笑が響き渡った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます