遥香

泙川

遥香

 ハルカくんは、その日キスをしていた。

 教室のガラス窓を穿つ真っ白な朝の光を一身に受けて、少しだけ背伸びをして、彼の目の前に立つ男の子と唇を合わせていた。ハルカくんの体操着の半袖シャツから覗いた二の腕は強張っていて、陸上部で鍛えている脹脛の盛り上がりがいつもよりくっきり見えていた。それに応えるように、たしかレオくんといった男の子は少し前のめりに立って、ハルカくんの細い髪を見つめている。いや、その向こうにある、まだ明るくて見えないほうき星を目に描いている。

 そんなはずないのに、教室の入り口からミントの香りが流れ込んできた。私が一年ほど前、ハルカくんにあげたミント味のフリスクと似た香り。それが、レオくんの唇の皺を通して、私の鼻の穴に届いた。

 二人の背中は光に覆われて半分溶けたように透明で、キレイだった。私はその場から動けなくなって、鉛のように固くなった四肢は廊下の影に飲み込まれていく。

「来週の運動会のことですが……」

 廊下から担任と学年主任の会話が聞こえた。それまで空を見ていたレオくんの肩が少しだけ動いて、私は反射的に後ずさる。内臓からわあっ、と熱っぽくなってきたので、思わず身を翻して摺り足で駆け出した。えんじ色の床と靴下が擦り合い、足裏はどんどん熱くなっていくけれどもう止められなかった。雨上がりで湿った砂場へ飛び込んだとき下っ腹に張り付くひゃっこい砂を想像して、何とか気を紛らわせた。

ミントの匂いを鼻腔に残しながらなだれ落ちるように階段を降り、玄関の靴箱からスニーカーを放る。いつも部活の先生から言われている、靴をつぶしたまま履かないようにという指導は守りながらも急いで靴紐をほどき、広がった穴に片方ずつ足首を滑らす。

 隣の席のハルカくん。同じ陸上部の副部長で、ハードルをしているハルカくん。授業中はいつも俯いて先生に小言を言われているハルカくん。

 つい数十秒前、バスケ部の部長で女子一人気なレオくんとキスをしていたハルカくん。

 脳の右後ろでそんな二人を思い浮かべながら、私は玄関を出て靴紐を結び、二段飛ばしで校舎前の階段を降りた。速足で帰っている途中、日に焼けた膝小僧を見ていると、波打つスカートがちょっかいを出すように視界の邪魔をする。

 顔こそ見えなかったけれど、あのときのハルカくんもこの膝小僧みたいだったのかもしれない、と気持ち悪い空想をした。


 翌日、私が朝練帰りで混み合った教室に入ると、すでに片づけと着替えを終えたハルカくんが着席していた。運動会を翌週に控え浮足立った教室の中で、いつものように少しだけ俯き、筆箱にくっついた付箋を見つめているようだった。

 私はできるだけいつも通りを装いながら椅子に座る。スカートに触れている太ももの内側がきゅー、と締まって、誰かに背中を押されている錯覚に陥った。目の隅に映る黄色の付箋がどうしても気になる。ハルカくんにばれないよう視線を動かすと、そこには部活の当番表で見慣れた字がいくつか並んでいた。


『昨日のこと誰にも言わないでほしい』


 達筆で滑らかな字と似合わない文言に、私は口を開いてハルカくんの顔を見上げてしまった。彼の耳朶は所在なさげに赤らんでいて、私は図らずとも彼と秘密を分かち合った気分になった。

「うん」

 すぐに、そう言ってあげなければいけない。レオくんとの秘密の契りを他の誰かから侵されないために、あのとき出てきた「わあっ」を宇宙へ葬ってやらねばならない。そういう母性的な気遣いのもと私はそう答えた。

「ごめんなさい、気持ち悪いもの見せてしまって」

 気持ち悪いもの。私は、それが何を指しているのか分からず、そしてその正体を本人に問い詰めるほど馬鹿な女ではない。視線を自分の机に戻し、バッグのファスナーを開けながら呟く。自分を慰めるために言うつもりだったので、相手が聞こえていようがいまいがどうでもよかった。

「謝らないで。好き勝手にやっていればいいのよ」

 ハルカくんは、あのときのレオくんと同じ、自分の内側を見るような遠い目をして頷いた。一年前のミントの匂いが、私の鼻腔を刺激する。

 好きな人がいるので、とフリスクを受け取った掌の先で言い放った彼は、ほうき星に吸い込まれて消えていった。

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遥香 泙川 @Hirakawa

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