第17話 同居の始まり、家庭のレッスン

悠真くんと両親たちとの話し合いを終え、私の心は、大きな嵐を乗り越えた後の凪のように、穏やかだった。妊娠という予期せぬ事態は、私と悠真くんの人生設計を大きく揺るがしたけれど、両家の、特に母の確固たる支援と、悠真くんの揺るぎない覚悟によって、私たちは確かな未来への一歩を踏み出すことができた。あの夜、悠真くんが入り婿になることを承諾し、私の家で同居することになった時、彼は私の母に深々と頭を下げた。彼の真剣な姿に、私は改めてこの人を選んでよかったと心から思った。


数日後、悠真くんは分譲マンションの自宅を出て、私の実家へと引っ越してきた。彼の荷物は、予想以上に少なかったけれど、彼の部屋になった客間は、彼の存在によって、少しずつ彼の色に染まっていった。彼が持ち込んだのは、専門書がぎっしり詰まった段ボール箱と、愛用している眼鏡ケース、そして数枚の純文学の文庫本だけだった。それでも、部屋の片隅に置かれた彼の愛用の読書灯や、机の上に広げられた教師の参考書を見るたびに、この部屋が「悠真くんの部屋」になったのだと実感し、胸が温かくなった。


母は、さっそく「家庭を作るためのレッスン」と称して、悠真くんに家事の基本を教え始めた。台所での包丁の使い方、洗濯機の操作、掃除の仕方。悠真くんは、戸惑いながらも真面目に母の教えを吸収し、その姿はまるで、新しい教科書に挑む生徒のようだった。その真剣さに、私は時折、くすりと笑みをこぼしてしまう。


妊娠初期の私は、つわりがひどかった。朝起きると胃のむかつきがひどく、特定の匂いがするだけで吐き気が襲った。大学に行くのも一苦労で、食欲もなかった。そんな時、悠真くんは献身的に私をサポートしてくれた。朝早く起きては、私が食べやすいものを用意してくれたり、私が授業中に気分が悪くなったと聞けば、すぐに駆けつけてくれたりした。私の体を気遣い、私の顔色を常に伺っていた。彼の手のひらが、そっと私の背中を撫でてくれるたびに、私は深い安堵を感じた。


「美咲、今日は何か食べられそうなものはあるか?梅干しなら、少しは食べやすいか?」


「美咲、大丈夫か?無理しなくていいからな。休める時に休むんだ。」


彼の優しさに、私は何度も涙が出そうになった。今まで「しっかり者」として生きてきた私にとって、誰かにこんなにも甘えられる経験は初めてだった。彼の真面目なサポートは、私に大きな安心感を与えてくれた。


そして、大学生活と学業の調整も始まった。妊娠を大学に報告し、休学するか、学業を継続するか、私は悩んだ。教師になるという夢は、私にとって決して譲れないものだった。悠真くんも、私の夢を何よりも大切にしてくれていた。何度も話し合った結果、私は一旦休学し、出産後に復学する道を選んだ。彼もまた、学業とアルバイト、そしてこれからの育児準備を両立させるために、綿密な計画を立ててくれていた。彼のノートには、私の体調管理から、ベビー用品のリスト、家計のシミュレーションまで、びっしりと書き込まれていた。


「美咲、これを見てくれ。俺が調べた、新生児の育児についてだ。ミルクの作り方、おむつの交換、寝かしつけ…全部、俺も覚えるから。」


彼は、厚い育児書を広げ、真剣な顔で私に語りかけた。その姿に、私は彼の覚悟と、私への愛情を改めて感じた。彼が、こんなにも真剣に、私たちの子の親になろうとしてくれている。その事実が、私に、親になることへの不安を乗り越える勇気をくれた。同時に、私は「恋愛レッスン」を始めた時に彼がセクシャルハラスメントの防止策からレッスンを始めたのを思い出した。その時と同じくらい、あるいはそれ以上に、彼は真面目に、そして真摯に、親になることと向き合おうとしている。


その日の夕食後、リビングでくつろいでいる母に、私は声をかけた。


「母さん、ちょっと相談にのって欲しいのだけれど。」


母は、私の不安げな様子を見て、すぐに気遣ってくれた。その優しい眼差しに、私は少しだけ安心する。


「悠真くんのことなのだけれど、協力してほしいの。」


私は母に、悠真くんが正式に交際を申し込んできたときに、「女の子の扱い方を、教えて欲しい。できれば、一般的などこかにいる誰かの扱い方ではなく、美咲の扱い方を、教えて欲しいんだ。」と言って、基礎が大事だと言って、一般的なセクシャルハラスメントの回避の勉強から始めたことを話した。母は、私の話を聞きながら、時折、面白そうに、そして理解を示すように頷いていた。


「そこで私は、彼の真面目さが空回りしないように、もう少し実践的な、私に合った『恋愛レッスン』を始めたの。そして今、彼が親になることに対しても、あの時と同じくらい真面目に、そして真摯に、育児書を読んで勉強しているの。教育学部で、そういう授業もあるから無駄にはならないのだけれども、机上の知識だけではどうにもならないこともあるだろうし、せっかくのやる気を空回りさせたくないので協力してほしい」と母に頼んだ。


私は母の顔をじっと見つめた。母は、私の言葉を聞き終えると、大きく頷き、私の手を優しく握りしめた。


「ええ、もちろんよ。私に任せなさい。あの子の真面目さは私もよく知っているわ。私も経験者として、あの子が立派な父親になれるように、しっかりと『レッスン』してあげるから。でも、それはあなた自身にも必要なことじゃないかしら?母親になったあなたには、また別の『レッスン』が必要になるはずよ。私も一緒に手伝うわ。」


母の言葉に、私は心から安堵した。これで、悠真くんは、机上の知識だけでなく、実践的な「育児レッスン」も受けられる。母のその強い意志に、私は彼の未来が明るいものであることを確信した。そして、私自身も、未経験の「母親」として、母の力を借りて成長していけるのだと。


出産準備も本格的に始まった。二人でベビー用品店に行き、小さな肌着や哺乳瓶、おもちゃを選ぶ時間は、私たちにとって何よりの喜びだった。私のお腹は少しずつ大きくなり始め、胎動を感じるたびに、お腹の中の命の存在を実感した。悠真くんも、私の大きくなるお腹を優しく撫でたり、胎動を感じては、驚きと感動の声を上げたりした。


「元気だな、うちの子」


彼が嬉しそうにそう言うたびに、私は、彼がもうすっかり「父親」の顔をしていることに気づかされた。親になることへの期待と、まだ見ぬ未来への不安。様々な感情が入り混じっていたけれど、悠真くんと二人でなら、どんなことも乗り越えられる。そう、確信していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る