理想の隣人:彼と彼女の恋愛設計図

舞夢宜人

第1話 生徒会室の晩秋、計画の始まり

高校最後の秋が、深く、しかし穏やかに日々を刻んでいた。11月。推薦入試で同じ大学の教育学部への進学が決まった望月悠真と香坂美咲は、受験という巨大な重圧から解放され、どこか晴れやかな、しかし少しばかり寂しさをはらんだ心持ちで、残された高校生活を送っていた。悠真は社会科課程、美咲は国語科課程と学科は異なるものの、卒業後も同じ学び舎で過ごす未来が確約されているという事実は、彼らの間に漠然とした安堵感をもたらしていた。


生徒会の任期は既に10月で終えていたが、卒業アルバムの編集作業や卒業式に向けた準備は、生徒会役員としての最後の雑務だ。それは、放課後、彼らが生徒会室で過ごす時間を、これまで以上に密なものにした。空調の効いた生徒会室は、外の世界から隔絶された、二人の秘密の空間のようだった。窓の外では、陽が傾き始め、富士の街並みを茜色に染め上げていく。遠くの山の稜線が、ぼんやりと霞んで見えた。


悠真は、生徒会長の席に座り、卒業アルバムのレイアウト案に目を走らせていた。今日の彼は、制服のブレザーを脱ぎ、白いカッターシャツの袖を肘まで丁寧にまくり上げている。完璧に整えられた髪は変わらないが、どこか肩の力が抜けたような、柔らかい雰囲気をまとっていた。眼鏡の奥の瞳は、資料の一文字一文字を追うことに集中し、その表情は真剣そのものだが、以前のような張り詰めた空気はない。彼にとって生徒会活動は与えられた職務であり使命だったが、「終わった」という感覚が、彼の中に微かな解放感をもたらしていた。しかし、その解放感とは裏腹に、別の種類の焦りが胸中に燻っていた。


「悠真くん、ここの集合写真の配置、もう少し中央に寄せて、周りの余白を少なくした方が、引き締まって見えるんじゃないかな?」


彼の隣に座る美咲が、同じレイアウト案に目を通しながら、澄んだ声を上げた。彼女もまた、ブレザーを脱ぎ、白いブラウスの上に、淡いベージュのカーディガンを羽織っている。ブラウスの胸元は、相変わらずボタンが二つ開けられ、華奢な鎖骨が覗く。そこから覗くのは、祖母からもらったという銀色のペンダントだ。髪は肩で跳ねるボブスタイルで、作業の邪魔にならないように、右側の髪を耳にかけていた。そこから覗く耳たぶには、小さなパールのピアスが揺れている。彼女から漂う、甘く爽やかなフローラル系の香りが、静かな生徒会室に微かに満ちていた。外の冷たい空気とは裏腹に、生徒会室の室内は二人の体温と温かいコーヒーの匂いで、ほんのりと満たされていた。


「ああ、香坂の言う通りだな。確かに、少し間延びした印象がある。この写真の配置だと、全体のバランスも崩れるか」


悠真は眼鏡の位置を直し、美咲の意見に即座に同意した。二人の間に、無駄な言葉は必要ない。互いの思考を理解し、補完し合う関係性は、クラス委員から始まり、この三年間、何らかの生徒会関係の仕事を共にこなす中で築き上げられた揺るぎないものだった。悠真にとって美咲の存在は、生徒会関係の仕事をこなすのになくてはならない存在で、優秀な同志として全幅の信頼を置いていた。


周囲の生徒たちは、二人がいつも一緒にいること、そして互いに完璧な連携を見せることから、いつしか彼らを「生徒会夫婦」と揶揄するようになっていた。推薦入試で同じ大学に進学することが決まってからは、その呼び名も半ば定着し、二人を見る周囲の視線は、どこか微笑ましいものに変わっていた。


もちろん、当の本人たちはそんな呼び名など気にも留めず、ひたすらに職務に邁進している。少なくとも、悠真はそう思っていた。美咲にとっては「おしどり夫婦」なんて呼ばれていることで、好みではない邪魔な男が寄ってこなかったので、都合よく噂を利用していた。実際の悠真と美咲の関係は、尊敬できる親友というべきもので、恋愛感情はなかった。


しかし、悠真にとっては「おしどり夫婦」なんて呼ばれていることで、既に彼女持ちの相手とみなされ、好みの女の子から相手にされないという状態が続いていた。高校生活で思い残したこととして、恋愛関係の思い出が欲しいと強く願っていた悠真は、この状況に焦りを感じていた。彼は、女子生徒たちの陰口を知っていた。「悠真は友人としてならいいが女の子の扱い方が下手だ。美咲はよくあんなのと一緒にいられるなあ」「似た者同士だからじゃないか」──そんな声が、彼の耳に届いていたのだ。だからこそ、美咲を恋愛対象から除外していた。しかし、そこをはずしてしまえば、美咲は悠真の好みの女の子そのものであることに気が付いた。いや、美咲と一緒に過ごしているうちに好きな女の子のタイプが美咲になってしまったともいえる。


今日の作業は、卒業アルバムの生徒会ページと、卒業式での在校生代表送辞の草案を練ることだった。悠真は理路整然と意見を述べ、美咲はそれを補足するように、具体的な構成案を提示する。意見の対立が生まれることは稀で、二人の議論は常に建設的だった。


「…で、この集合写真の人物配置、少し顔が隠れてしまっている生徒がいるんだが、どうすれば良いだろうか?」


悠真は企画書の広げられたページを指差した。その指先が、美咲の指先に微かに触れた。ごく一瞬の出来事。しかし、美咲の指先から、微かな、しかし確かな電流が走ったような感覚がした。肌と肌が触れた、それだけのことだ。普段から生徒会室で資料を広げる際など、こうして指先が触れ合うことは珍しくない。なのに、今日のそれは、なぜか、心臓を跳ねさせる。


(…なんで、今、こんなに心臓がうるさいんだろう?)


美咲は、自分の心臓がドクン、ドクンと、不自然なほど強く脈打つのを感じた。熱いものが胸の奥からこみ上げてきて、頬がじんわりと熱くなる。慌てて顔を伏せ、企画書に視線を落とす。悠真は美咲の指先に触れたことに気づいているのかいないのか、視線は依然として資料に固定されたままだ。彼の表情からは、何の動揺も見受けられない。そのことに、美咲は安堵すると同時に、一抹の寂しさを覚えた。自分だけがこんなにも意識していることが、少し恥ずかしく、そして少しだけ切なかった。高校2年の冬、風邪を引いた悠真が、弱々しく「助かった、ありがとう」と呟いた時。その時芽生えた、守ってあげたいという衝動が、今、確かな感情へと成長しているのを美咲は感じていた。


「香坂?」


美咲の沈黙を不審に思ったのか、悠真が首を傾げた。その仕草は、いつもと変わらない。彼の声も、彼の瞳も、普段と何一つ変わらない。しかし、美咲の心の中では、何かが確実に変わり始めていた。


「あ、ご、ごめん、悠真くん。えっと…顔が隠れている生徒、だよね。これはもう、トリミングでなんとかするしかないかな。それか、いっそ、この写真自体を別のものに差し替えるか…」


美咲は努めて平静を装い、すぐに思考を切り替えた。しかし、脳裏には先ほどの指先の感触が、いつまでも残響のように響いていた。彼の指は、細く、少しひんやりとしていたけれど、触れた瞬間、なぜか、その冷たさの中に温かさを感じた。それは、晩秋の生徒会室のひんやりとした空気の中で、温かいものを求めていた自分の心の反映だろうか。


悠真は美咲の提案に頷きながら、ふと、生徒会室の窓の外に目を向けた。鉛色の空は、いつの間にか茜色に染まり始めている。夕焼けの光が、生徒会室の机の上に広げられた資料をオレンジ色に染め上げた。午後五時を過ぎたというのに、生徒会室の中はまだ外の明るさを残している。しかし、この生徒会室の中だけは、暖房のおかげで適温に保たれている。


「香坂、寒くないか?日が落ちると、急に冷え込むからな」


悠真が、唐突に尋ねた。彼の視線は、美咲の首筋、そして薄手のカーディガンへと向けられた。美咲のブラウスのボタンがいつもより多く開いていることに、今さらながら気づいたのだろうか。彼の視線に気づいた美咲の頬は、さらに熱を帯びる。


「大丈夫、暖房効いてるから。悠真くんは?もしかして、腕まくりしてるから寒いとか?」


美咲は努めて明るく答えたが、悠真の視線が自分の体に向けられていることに、妙な動揺を覚えた。今まで、彼の視線が自分の体に向けられることは、職務上の確認を除いてはほとんどなかった。彼の瞳が、資料からではなく、自分に向けられている。その事実に、美咲の心臓は再び跳ね上がった。


悠真は、美咲の返答に小さく頷いた。「そうか」とだけ呟き、再び企画書に視線を戻す。しかし、彼の心の中にも、美咲への微かな、しかし確かな「違和感」が芽生え始めていた。彼女の指先が触れた瞬間の、妙な胸の高鳴り。普段は意識しない美咲の香りや、彼女の首筋に走る脈動。それら全てが、今まで「友人」として認識してきた彼女とは異なる、別の存在として悠真の意識に上り始めていた。同じ大学に進学するという事実が、二人の関係を「これまで通り」ではいられないという予感を、無意識に彼に与えていた。


悠真は、美咲を優秀な同志としてなら気軽に話せる相手であったが、優秀な同志という枠を外して一人の女の子としてとらえるとどうしたら良いのかわからないことに気が付いて愕然とした。彼は、女子生徒たちの陰口を知っていた。「悠真は友人としてならいいが女の子の扱い方が下手だ。美咲はよくあんなのと一緒にいられるなあ」「似た者同士だからじゃないか」──そんな声が、彼の耳に届いていたのだ。だからこそ、美咲を恋愛対象から除外していた。しかし、そこをはずしてしまえば、美咲は悠真の好みの女の子そのものであることに気が付いた。いや、美咲と一緒に過ごしているうちに好きな女の子のタイプが美咲になってしまったともいえる。


高校生活で、どうしても恋愛関係の思い出が欲しかった。このまま、何もなく卒業してしまうのは嫌だった。焦りと、一筋の希望が悠真の心を支配した。


「香坂…いや、美咲」


普段、生徒会室で私的な会話をする際も、互いを名字で呼び合っていた悠真が、不意に下の名前で呼んだことに、美咲は驚いて顔を上げた。悠真の顔は、夕焼けに染まり、いつもより赤く見えた。真剣な眼差しが、美咲を射抜く。


「…頼みがあるんだ」


彼の声は、わずかに震えていた。その震えは、美咲の心臓にも伝わる。


「な、なに?悠真くん」


「……女の子の扱い方を、教えて欲しい」


悠真は一度言葉を切り、深い息を吐いた。彼の頬は、夕焼けのせいばかりではなく、羞恥で赤く染まっているのが美咲にも見て取れた。


「できれば、一般的などこかにいる誰かの扱い方ではなく、美咲の扱い方を、教えて欲しいんだ」


美咲は、悠真の言葉に呆然とした。


(今までずっと一緒にいて、いい友達だったでしょう?なんで今、そんなことを…?)


彼女の心の中で、疑問と戸惑いが渦巻いた。しかし, 悠真の真剣な、切羽詰まったような表情を見て、彼の本気度が伝わってきた。彼が、どれほどこの高校生活の「恋愛」という部分に思い残しがあるのか、その不器用な性分を美咲はよく知っていた。そして、何より、彼が「美咲の扱い方」と口にしたことに、美咲の心臓が甘く高鳴った。


美咲自身も、高校三年間の恋愛イベントは皆無だった。悠真と同じ大学に進学すると決まった今、彼が自分の好みの男になってくれるなら、そしてこの先の大学生活で、彼が恋愛対象として成長してくれるなら、クリスマスデートくらいなら思い出作りにしてもいいかもしれない。そんな打算と、無自覚な期待が美咲の胸に去来した。美咲は、自身の人生設計において、恋愛や結婚は大学卒業後、教師としてキャリアを積んでからと明確に計画していた。だからこそ、この予期せぬ「恋愛レッスン」は、彼女の青写真にない、まさに「計画外」の出来事だった。しかし、彼女の合理的な思考は、この「機会」を逃す手はないと囁いていた。


「…分かった」


美咲は、小さく頷いた。悠真の表情に、微かな安堵の色が浮かんだ。美咲は、まだ気づいていなかった。悠真と一緒に過ごしているうちに彼の好きな女の子のタイプが美咲になったように、美咲と一緒に過ごしているうちに美咲の好きな女の子のタイプが悠真になっていたことには、まったく自覚がなかったのだ。


「まず、一般的なセクシャルハラスメントの回避について、基本的な知識から始めようか」


悠真は、どこかぎこちなく、しかし真剣な表情で言った。美咲は、彼の真面目さに小さく笑みをこぼした。


恋愛に不器用な二人の、恋愛レッスンがこうして始まった。生徒会室に、秋の夕暮れが静かに降りていく。その光景は、これから始まる二人の関係の、甘く、そして少しだけ切ないプロローグを、静かに示唆していた。


その日の夕食時。美咲は、ダイニングで食卓を囲む両親に向かって、少し緊張した面持ちで口を開いた。

「お父さん、お母さん。あのね……私、彼氏ができたの」

美咲の言葉に、両親は一瞬、箸を止めた。父は驚きに目を見開き、母は微笑みを浮かべた。

「まあ、美咲が?相手は、もしかして望月くんかしら?」

母の声には、喜びと、どこか確信めいた響きがあった。美咲は頷き、顔を赤らめる。

「うん。悠真くん。……生徒会で、ちょっと、色々と頼み事をされてて……」

美咲は、詳細を濁しながらも、悠真との関係が始まったことを報告した。母の瞳は、美咲の言葉を聞くたびに、嬉しそうに輝いていた。

「そう。望月くんなら安心ね。真面目そうで、いい子じゃない。美咲が選んだ人なら、きっといい人だわ」

母は、心からそう言って、美咲の頭を優しく撫でた。美咲は、母が自分の選択を認めてくれたことに、ほっとした。その笑顔の裏で、美咲の母は、水面下でひそやかな「コウノトリ作戦」の開始を心に誓ったのだった。


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