カタストロフ・フォーミュラ
國澤 史
第1話 二つの太陽と最初の影
その数式は、まるで神が設計した宇宙の骨格図のように、完璧な調和を保って存在していた。
何百ページにも及ぶ、人間の知性が紡いできた数学の歴史。
その終着点にして、新たな始まりを告げる門。
10歳の少年、所賀 発(ところが・あたる)は、その門の前に一人、静かに立っていた。
賞金10億円。数学者でさえ匙を投げると有名なハイパーミレニアム問題。
世間が金額だけを見て囃し立てる言葉は、発の耳には届いていなかった。
発にとって、この問題はは金儲けの手段でも、名声を得るための道具でもない。
人類が遺した最も難解で、そして最も美しいパズル。
ただそれだけだった。
寝食を忘れ、時間の感覚すら溶けてなくなるほど没頭できたのは、その純粋な知的好奇心ゆえだ。
――ハイパーミレニアム問題、解答受付締め切り7時間前。
インクの匂いが染みついた父の書斎で、発は最後のピースをそっとあるべき場所にはめ込んだ。
ディスプレイに表示された解答の最終行が静かに緑色の光を放つ。
検証プログラムが、この解答が真理であることを認めた証だった。
終わった。世界で最もエレガントな挑戦状は、今、解き明かされた。
「やったな、発! さすがは俺の息子だ!」
背後からがっしりとした腕が発の肩を抱いた。物理学者である父の声は、誇りと興奮に満ちている。
書斎に集まっていた父の同僚たちからも、感嘆の声と拍手が沸き起こった。
「信じられない……! あのリーマン予想を含む、七つの難問の統一理論だと……!?」
「若干10歳で、人類史の到達点に……!」
賞賛の嵐。自分が成し遂げたことの大きさを発は頭では理解していた。
だが、発の心は奇妙なほど静まり返っていた。
まるで夢中で組み上げていた精巧なボトルシップが完成してしまった後のような、一抹の寂しさ。そんな感情が去来していた。
熱狂の中心にいながら、その熱狂の輪郭がぼやけている。
パズルは解いている過程こそが至福なのだ。解けてしまえば、それはただの美しい抜け殻に過ぎない。
「博士、期限内に提出された解答は発のものだけでしたか?」
父が検証機関の責任者である御子柴博士とオンラインで通話している。
その会話が、発の意識を現実へと引き戻した。
『いや、それが驚くべきことに…』
スピーカーから聞こえてきた博士の少し弾んだ声に、発は顔を上げた。
『発君の解答が提出されたのと全く同じタイムスタンプで、もう一つの解答が提出されている。しかもアプローチが全く異なる、独立した解法だ』
その瞬間、発の心に、消えかけていた熱が再び灯った。
自分以外に、このパズルの頂にたどり着いた者がいる。
自分が見た景色と同じ景色を、全く別のルートから眺めている者がいる。
その事実が発の純粋な科学者としての魂をどうしようもなく揺さぶった。
その人物に会ってみたい。その思考回路を、その頭脳の中にある宇宙を、覗いてみたい。
喜びのトーンが少し落ちた父の隣で、発は口角が上がるのを抑える事ができなかった。
数日後、発は父と共に御子柴博士の研究室を訪れていた。
古めかしい大学のキャンパスの片隅にひっそりと佇むその建物は蔦に覆われ、まるで時間の流れから取り残されたかのようだった。
だが重厚な木製の扉を開けると、そこには未来があった。
壁一面のディスプレイには複雑なデータが流れ、中央には最新鋭の量子コンピュータが青白い光を放ちながら静かに唸りを上げている。
新旧が混在するその空間は、知の探求というものが過去からの積み重ねの上に成り立っていることを雄弁に物語っていた。
「ようこそ、発くん。君の論文、とても素晴らしかったよ。エレガントで無駄がなかった!」
出迎えてくれた御子柴博士は、白髪混じりの髪を優しく撫でつけ、柔和な笑みを浮かべていた。
科学者特有の鋭い眼光の奥に、後進を思いやる温かい光が宿っている。
発は初対面の博士に、すぐ好感を抱いた。
「もう一人の解答者も到着している。さあ、こちらへ」
博士に促され、発は研究室の奥へと足を進めた。
心臓が少しだけ早く脈打つのを感じる。
――どんな人なんだろう。やっぱり僕と同じように、このパズルに魅せられた同類なのだろうか。
そして、発はその人物と対面した。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。自分より少しだけ背が高く、三歳年上だと聞かされた。
だが、彼の姿は発が想像していたイメージとはあまりにもかけ離れていた。
ルカス・ミュラー。
発の周りではあまり見ない金色の髪は手入れがされずにまだらに伸び、汚れでくすんで鈍くライトを反射させ、着ている服は明らかにサイズの合っていないよれたシャツ。肌は日に当たっていないように青白い。
身長は歳の差を考慮すると発よりも少しだけ高いだけで、発育に十分な栄養が与えられているとは思えない痩せた体格だった。
何より印象的だったのは、その瞳だ。
光の届かない、打ち捨てられた古井戸。その底知れない闇が、見る者の心を吸い込んでしまいそうになる。
発が揺るぎない愛情と知的好奇心という完璧に管理された温室で育った才能なのだとすれば、目の前の少年は、飢えと孤独、そして世間の無関心という極寒の荒野で生きるためだけに牙を剥き出しにしてきた、野生の才能だった。
「初めまして。僕は所賀発です」
発が差し出した手をルカスは一瞥しただけで、握り返そうとはしなかった。
ただその古井戸のような瞳で値踏みするように発の全身なぞって上下させた。その視線には好奇心も敵愾心もなかった。
あるのは自分以外の全てを拒絶するような、冷たい壁だけだった。
「二人の解答を改めて詳細に検証させてもらっているよ。
まだまだ解析には時間がかかるけれどね」
御子柴博士が、興奮を隠しきれない様子で二人の間に割って入った。
「それにしても、こんな日が来るなんて思いもしなかったよ!
発くん。君の解法は既存の数学体系を完璧に踏襲し、その延長線上で美しく再構築したものだ。
まさに王道。エレガントという言葉がふさわしい。
対してルカスくん。
君の解法はどこからその発想が来たのか見当もつかない。まるで既存のルールを無視して力技で壁に穴を開け、最短距離で答えにたどり着いたかのようだ。
荒削りだが革命とはそういうものだ!」
博士の言葉を聞きながら、発はルカスという難解なパズルにますます強く惹きつけられていた。
ルカスの頭脳の中にある、自分とは全く異なる思考の宇宙を語り合いたい。
博士の興奮に負けないくらい、発の心は弾んでいた。
「君たち二人は科学界を照らす二つの太陽だ。これから違う輝き方で、互いを高め合っていってくれ!」
御子柴博士は心からそう言って、二人の肩を等しく力強く叩いた。
その瞬間、ルカスの肩がかすかに震えたのを発は見逃さなかった。
それは他者からの温もりに慣れていない者の戸惑いの反応のようにも見えた。
話をするうちにルカスの劣悪な家庭環境が明らかになった。
ルカスの両親は彼の育児放棄をし、その日の食事にも事欠くような生活を送っているという。
ルカスの天才性は、そんな環境の中でただ生きるために、世界を効率的に理解するための生存戦略として、歪な形で育まれたものだった。
全てを知った御子柴博士の決断は早かった。
「ルカスくん、もし君さえよければ私の家に来ないか。
私が君の後見人になる。
安心して研究に打ち込める環境を私が約束しよう」
その申し出に、ルカスは何も答えなかった。
ただ、その光のない瞳が信じられないものを見るかのように、わずかに見開かれた。
きっとルカスにとって、世界の色が変わった瞬間だったのだろう。
御子柴博士の家に引き取られた日から、ルカスの人生は一変したようだった。
生まれて初めて味わう、温かい手料理。
自分だけの清潔でふかふかのベッド。
好きなだけ読んでいいと言われた、壁一面の専門書。
そして何より、自分という存在を「天才」として認め、その未来に心からの期待を寄せてくれる大人。
「君の才能は人類の宝だ。それを開花させることが私の最後の仕事だよ」
ルカスは生まれて初めて「幸福」という名の光と、「居場所」という名の安息を手に入れた。
冷たく暗い、誰からも必要とされない部屋の記憶が、温かい光に溶かされていく。
この光を、この安息を、もう二度と手放してたまるか。誰にも奪わせはしない。
その想いは、ルカスの脆く、傷つきやすい心を支える、唯一の、そして絶対の柱となった。
だが、その柱を根底から揺るがす亀裂は、他ならぬ御子柴博士の誠実さによってもたらされた。
発とルカスの解答を改めて詳細に、そして多角的に検証するうち、博士はルカスの公式に潜む、ある見過ごすことのできない一点に気づいてしまった。
それは、致命的な欠陥だった。
ルカスの革命的だと思われた理論は、特殊な条件下においては奇跡的に機能するが、一歩そこから外れると、とたんに砂上の楼閣のように崩れ去る不完全なものだったのだ。
そしてハイパーミレニアム問題は、まるで神の気まぐれのように、偶然にもその特殊な条件下にあった。
それは完全と思われた問題が生んだ、奇跡的な「間違い」だった。
ある晴れた日の午後、博士はルカスを研究室に呼んだ。
その表情はどこか申し訳なさそうで、しかし彼の未来を思うがゆえの真摯さに満ちていた。
「……ルカスくん。君の才能は本物だ。それは間違いない。
これは挫折じゃない。むしろ、君の理論を完璧なものにするための、素晴らしい出発点だ。
この間違いは君をさらに成長させてくれる。
所賀発くんのエレガントな解法とは違う、君の力技のようなアプローチだからこそ、解ける問題もきっとある。
さあ、一緒に未来へ進もう」
博士の言葉は、善意と期待に満ちていた。
何一つ、悪意などない。
教育者として、科学者として、後見人として、誠実な言葉だった。
だが、ルカスの耳には、その全てが地獄の釜の蓋が開く音として響いた。
ルカスの頭の中で博士の言葉が何度も反響する。
「間違い」「間違い」「間違い」――。
そして、その言葉の合間に残酷な一言がナイフのように突き刺さる。
『発くんのエレガントな解法』
やはり自分は偽物だったのか。
自分は本物の天才である所賀発の「間違い」でしかないのか。
この欠陥が公になればどうなる? 世間は自分を嘲笑うだろう。
「奇跡の天才少年、実はただのラッキーな間違いでした」
博士も本当は自分に失望しているだろう。
どんなに言葉を尽くしても、その瞳の奥には憐憫の色が宿るだろう。
そして、自分は送り返されるのだ。
あの暗く寒い、誰からも必要とされない部屋に。
手に入れたばかりの光も、温もりも、居場所も、全てを失うのだ。
幸福と居場所を失う恐怖が、ルカスの理性を閃光のように焼き切った。
数日後、御子柴博士は自身の研究室で遺体となって発見された。
死因は「実験機器の漏電による、痛ましい事故死」として処理された。
葬儀の日、朝から冷たい雨が降り続いていた。
黒い礼服に身を包んだ発は、降りしきる雨がアスファルトを叩く単調な音を、ただぼんやりと聞いていた。
現実感がなかった。
ついこの間まで、熱心に自分の理論を褒め、未来への期待を語ってくれた大人が、もうこの世にいない。
その事実が、パズルのようにきれいに整理された発の頭脳の中で、うまく然るべき場所に収まらない。
斎場の隅で、発はルカスの姿を見つけた。
彼は喪主でもないのに遺族の隣に恭しく立ち、訪れる弔問客一人一人に深々と頭を下げ続けている。
その姿は、悲しみに打ちひしがれながらも、気丈に恩人の最後を見送ろうとする、悲劇の遺児そのものだった。
やがて、ルカスの周りをマスコミが取り囲んだ。
フラッシュが焚かれる中、ルカスは雨に濡れた顔を上げた。
その頬を涙が伝っている。ルカスは震える声で、しかしはっきりとした口調で語り始めた。
「博士の遺志は……、僕が必ず継ぎます。
博士が信じてくれた僕の理論を、僕が完成させてみせます。
それが……、僕にできる唯一の恩返しですから……」
その言葉を聞いた瞬間、発は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ルカスは泣いていた。確かに涙を流していた。
だが、その瞳の奥に宿る光は悲しみとは程遠い、何かを固く決意したような、全てを拒絶する氷のような色をしていた。
それは、あまりにも完璧な悲劇への数式。
二つの太陽の軌道は、この冷たい雨の日を境に、決して交わることのない別のベクトルへと、静かに、しかし確実に分かたれてしまったのだった。
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