他人の音

秋風 優朔

〈一日目〉

 野良猫を拾った。

 白と茶色と赤の三毛。

 アパートの階段の下で小さくなっているのを仕事帰りに見つけて、放っておけずに思わず家に連れて帰って来てしまった。

 テーブルの上のカップ麺のゴミをそのままに、なぜかベッドに陣取ったそいつを見やる。

 頭の中、誰に向けてともなく言い訳してみたが、どう見ても目の前のそいつは白いシャツと赤のリボンと差し色の入った茶色のブレザーの少女。強いていうなら髪は確かに猫みたいな明るい茶色だが。

 先の帰り道、外はいっそ雪が降れば見た目はふわふわしてあったかいのにと思うほどに寒くて、そんな中で、彼女は今にも死にそうな顔で抱えた大きなリュックより小さくなっていた。

 声をかけると、三度大きく深呼吸してからさっきまでの死にそうな雰囲気を忘れる勢いで顔を上げて、「何?餌付けでもしてくれるの?」なんて言った。

「腹が空いてるなら、カップ麺でよければ、あるぞ」

 

 そんなこんなで、目の前の少女は今、平らげたカップ麺の残骸を置きっぱなしに、ベッドを占領して今にも寝そうな勢いで伸びなどしている。

「で、お前はあんなとこで死にそうな顔して何してたんだ?」

「え?おじさんの言う通り、死にそうな顔で死にかけてただけだけど」

 その伸びきった姿勢のまま、分かりきってることなんで聞いたのさ?みたいな顔で彼女が言う。

「その死にかけてたわけを聞いたんだが」

「フツーに、親が嫌で家出たけど、寒すぎて死にかけてただけ。冬なめてたわ、死ぬほど寒いじゃん」

 聞くと彼女は、足をベッドの縁でプラプラさせながら「私体弱い方だしね〜。すぐ風邪引くし」などと続ける。

 それから、揶揄う機会を得たりといった顔で、ぐいっと体を乗り出して「だから、おじさんが期待してるようなお礼は無いよ」などと宣った。

「やめろ、その『期待してるような』の中身すら聞きたくない。あとついでに『おじさん』もやめろ。余計にそれっぽいだろ」

「じゃあなに?おっさん?」

「嫌だ。まだおっさんではないと信じてるんだ。ここで潰えてたまるか」

「何それ、じゃあお兄さん?」

「それもなんか気に食わん」

「めんどくさいなぁ、じゃあもう君。君で決定。言われてももう出てこない!」

「もういいや、自分でも何が正解かわからん」

 下手に言ったのがすでに失敗だったのかもしれない。もう出てくるもの全て「それ」にしか聞こえない。とはいえ負けっぱなしは癪なので、諦めついでにささやかな反撃を試みる。

「お前の方は家出娘でいいか?」

「お前で結構。おじさん。それじゃ、私寝る」

しかし実行したそれは呆気なく流され、どころか彼女はさも当然。とベッドに潜り込み、枕元に転がっていたリモコンで電気を消すと、そっぽを向いて手を振った。

「寝るっておい、泊まるのは聞いてないぞ」

「言ってないけど、わたし体弱いって言ったの聞いてなかったの?か弱い乙女を真冬の外に放り出す?」

危うく舌打ちが出かけた。が、確かに放り出すのも気が引ける。いやしかし、この状況はマズい。

「百歩譲って泊まるのは良いだろう。しかし頼むからベッドはやめてくれ。あとついでにおじさんもやめてくれ」

「良いよー私は気にしないから」

「俺が良くないって言ってんだよ」

「あと、おじさんの方も諦めた方が良いよ」

「なんで」

 聞けば、潜り込んだ布団から頭だけでこっちを向いて、ついでに右手も生えてきて玄関の方を指差す。

「カギ、閉まってるでしょ。そして私がここにいる。周りから見たらこれなんて言うよ?」

 言いながら、玄関を差した人差し指をくるくる回すムカつく顔に、漢字二文字の組み合わせが三通り浮かぶ。

 慌てて玄関のドアへ。鍵をわざと音を立てて開けた。

「聞いたな?開けたからな?違うからな?帰るなら勝手に帰れ!」

「はーい」

「俺はこっちで寝る」

「別にいいけど、おじさんお風呂は?」

 もう一つの部屋のドアをそのまま開けようとして、止まる。確かに風呂も入ってなければ、歯も磨いていない。しかし、

 とりあえず洗面所へ。歯だけ磨いて戻ってくる。

「お前も磨くなら、洗面台の二段目の引き出しに替えがあるから一本やる。風呂も入りたきゃ勝手に使え。俺は今度こそ寝る」

 歯はともかく、風呂となれば話は別だ。先に入るべきか、それとも後か。それを考えようとした時点でめんどくさくなって出した結論がこれ。勝手にしろ。

 「風呂もいい。面倒だ。とにかく寝る」

 「別に一緒でも良いよー?」

 玄関横、趣味の部屋にするつもりがいつの間にかただの物置になった部屋の扉を閉める。最後の一言は聞かなかったことにして。

 結局ベッドの領有権は奪われ、おじさん呼ばわりも訂正できたか怪しく、挙げ句の果てに犯罪者扱いと完全に遊ばれたが、多分撤退して正解だ。これ以上戦っても負けが込む以外の道が見えない。

 さてと、と見渡せば、普段入らない物置部屋の惨状が目に映る。

 一番手前、かろうじて動かした形跡のある漫画が詰まった本棚。学生の時に集めたのをそのまま持ってきたプラモデルは道具一式と一緒に埃を被り、新しく組もうと思ったはずの五段の箱の塔は開けたかも怪しい。

 物置なのを良いことに後回しにしたカーテンは未だに無く、雲のない空から明るい月の光が冷たい外の空気を一緒に連れてくる。

 点々と、飛び石の如くある足の踏み場を辿り、一番奥の、これまたいつか行こうと買うだけ買って段ボールのまま立ち尽くしているキャンプ道具のところへ向かう。

 付いたままの通販の伝票を頼りに、お目当てのものを探して段ボールの立像をかき分けていく。焚き火台、テント、ランタン。

 結局お目当てのものは奥の奥、窓の下で二箱の折りたたみチェアに埋もれていた。

 寝袋。皮肉なことに、箱のままだったおかげでこの部屋にあって埃ひとつ無い。

 「まぁ、このまま使われないよかマシだろ」

 初陣がまさかの部屋の中と、二年ほど放置されていた寝袋を不憫に思いながらもそう結論づけて、本棚の前のわずかに空いたスペースに広げる。とりあえず、これで自分の家で凍え死ぬことはあるまい。

 しかし狭い。足を伸ばせばプラモの山に当たり、寝返りを打とうにも左右は本棚と段ボールが固めている。使われずにそのまま、ほとんど死んだような物が転がるこの部屋の中で棺桶のような、の比喩は洒落にならない。

 片付けよう。そう誓った。




 急に目が覚めてしまった。

 体を起こしてみれば、この寝袋に潜り込んだ時と変わらないように見える月明かりが差す。

 毎日疲れ切って帰ってくるせいもあるが、いつもは夜中に目が覚めることなど滅多にない。ましてや、今日はあのうるさいやつの相手をしたのだ。疲れていないはずはない。

 枕元に放ったままだった携帯を開くと、時間は二時十四分。本当に変な時間に起きてしまったものだ。

 もう一度眠る前に水を飲んでおくか、となんとなく思って、寝袋から這い出して静かに部屋のドアを開けて居間の方に出る。

 彼女を起こさないようにと、静かにキッチンに入ろうとした瞬間、その音は響いた。

 小さな、けれど部屋が静かなせいではっきりと響いた、どこからか空気の漏れるような音。

 音の出所は背後、彼女のいる方から。

 細く、慎重さを感じる息の音に、定期的にその異音が混じるのだ。医学になんぞ全く覚えはないが、そんな自分にも分かるほど明らかにおかしい呼吸の音。

「おい、大丈夫か?」

 なんとなく、見てはいけないと思って背を向けていたベッドの方を振り向くと同時、そんな間抜けな質問が飛び出ていた。どう見たって、大丈夫なはずがない。もがく間に跳ね飛ばしたのか、掛け布団は床に落ち、灰色のシーツだけになったベッドの上で、彼女はうずくまっている。

「大丈夫、いつも のやつだか ら。」

 吸おうとするたびに途中で止まる呼吸と同じ、途切れ途切れの小さい声で、返事が返った。

 それから、深呼吸をしようとしてか深く息を吸う気配がして、しかしそれはすぐに苦悶の声と一緒に詰まって途切れた。

 痛むのか、胸を押さえた右手をそのまま抱え込むように、彼女は小さくなってしまう。

 咄嗟にポケットを上から叩くが、求めた硬い感触は返ってこない。こういう時にこそ頼るべき携帯は、先に部屋で時間を見てそのまま置きっぱなしだった。

 堪えきれない舌打ちが聞こえた。

 こんな状態の人を置いて離れて良いものかは分からないが、少なくとも何もできないまま居るよりはマシだろうと、部屋を振り返って言う。

「よく分らんが、しんどいんだろ?ちょっと待ってろ、今救急車を…」

 呼ぶから。そう続くはずだった言葉は、「やめて」というひび割れたようにも聞こえる高い悲鳴が掻き消した。

「やめて」

 今度は細く、小さく。思わず見つめた声の先、ただでさえまともに息もできていないのに大声など出して、さらに彼女の呼吸はおかしくなる。胸を押さえた反対の手はシーツを掴んで、どれだけ強く握っているのか、それを照らす月明かりよりも白くなってしまっている。

 その呼吸の音に、思わずこちらの息までもが無意識に止まった間にも、彼女は途切れ途切れに言う。

「嫌だ。 病院 にも、家にも。 帰りたく ない」

 先の悲鳴とは逆に、静かな声だった。きっと、息のせいでもなく。

「嫌だって言ったって、お前このままじゃ苦しいだけでしょうがないだろ」

 無意識に詰まった息が戻ると同時に言ったが、それでも彼女は首を振った。

「言ったでしょ?体 弱いって。 詳しい ことは知ら ないけど、 心臓、病気なんだって。移植す れば治るっ てみんな言うけど、それが嫌で、 ここまで来たの」

 だから、やめて。と。

 説得して救急車を呼ぶべきだと、俺の中で騒いでいた何かが急に怖気づいたみたいに止まった。途切れ途切れの言葉でこうも必死に訴えてくる。そんなものを他人の俺が決めていいのかと、入れ替わるように問いが浮かんだ。

かと言って、このまま何もできずにここに居る自分を許せる気もしなかった。

 視界を部屋と彼女とが映画みたいに入れ替わる。すると、彼女は俺の手をつつき、それから自分のリュックを指した。

「薬、取 って欲しいかも。その中に あるはず 。お願い」

 頭の中を覗かれているような、落ち着かない感覚が一瞬。

それを振り払って、すぐに「わかった」と答えて飛びつくようにリュックを開けた。暗くて見えないその中を手探りに探す。電気を点けようなどと言うところまでは頭が回らなかった。

「結構大 きい箱だから、すぐ分かる と思う。 変 なのには、 触らないでね」

 背後でそんな声がした。それと同時に、笑ったような気配が伝わる。苦しげな声も気配もそのままに、その上から貼り付けたような。

 すぐにリュックの下の方に、それらしい硬い感触を探り当てた。引っ張り出してみると、現れたのは老人が食後に抱えるようなプラスチック製の大きなピルケースだ。

 手を伸ばしてきた彼女にそれを渡して、代わりに今度はキッチンに走る。グラスに水を注いで戻ると、彼女はそのケースから色の違う三つのカプセルを取り出したところだ。

 水を渡してやると、彼女はそのカプセルをまとめて口に放り込んだ。しかし、やはり映画か何かのように、飲んですぐに症状が治る薬など無い。それどころか先から時々、吸っているのか吐いているのかも分からないような呼吸が現れる。

誰かがその時だけは息をすることを許したかのように、ほんの一時だけ息を吸って、また。

 再び、何もできないまま彼女を見ているしかなくなってしまった。

 と、寝巻きの裾を引っ張られる感覚。見ると、視線が彼女と部屋とを行き来していたのに気づいてか、彼女が薄いTシャツの裾を掴んでいる。

 仕方なく、見られて気分の良いものではないだろうから背中を向けて、彼女の手が届く位置に腰を下ろした。

 背後からは、度々消えて無くなってはまた聞こえるようになる呼吸の音だけが聞こえる。

 それを聴きながら、遠くなって肩に移った彼女の手の熱に、勝手に何かを出来ている気になっている事しかできなかった。




 目が覚めると同時、慣れない甘い匂いを感じた。

 視界をぼやけたままに伸びをしようとして、そこで初めて自分があぐらをかいたまま寝ていたことに気づく。

 組んでいた足も手も一緒に伸ばしてやると、あちこちが軋んだような感覚がして、腰からは派手な音がした。

 と、そこで首に何かが触れた。

自分の首というのは見づらいのだという事に気付きつつ、見下ろした視界に入ったのは白く細い腕。

 危うく情けない声が飛び出そうになるのを抑えながらも、大慌てで振り向いた。

 支えを失って宙ぶらりんになった腕を辿っていくと,ベッドの上,丸まったまま眠る彼女の姿があって,ようやく昨日、というか今日だが、夜の出来事を思い出す。

 それと同時に思わずその呼吸に耳を澄ませた。

 しばらくそうして、数回穏やかな呼吸が聞こえたところでため息が漏れた。

 昨日のような引っかかる感じは、この静かな寝息には混じっていない。大丈夫そうだった。

 よく見ると、丸まった彼女に引っ掛かって半分ほどが滑り落ちかかったまま布団が止まっている。きっと、自分が一番苦しいくせに妙に周りに気を回す彼女が、俺にも掛かるようにと動かしたのだろう。

「早いね、仕事?」

 ぼーっとそれを見つめていると、不意にそんな声が掛かった。見ると、先の姿勢から一ミリも動かないまま、目だけ開いた彼女が見返してくる。

「あぁ。調子は大丈夫か?」

「うん、大丈夫。ありがとね」

 言って、やっと動き出した彼女が先に俺がそうしたみたいに伸びをする。

「飯はどうする?まだ寝るか?」

「何?作ってくれんの?」

「俺のいつもの雑なやつで良いならな」

「流石の私も、作ってもらって文句は言わないよ」

 じゃあ、あたし先顔洗ってくるから。とヒョイとベッドから降りて、彼女が洗面所に消えていった。死にかけていた少女はどこへやら。すっかり昨日と同じ自由人だ。

「まぁ、いっか。死にそうなよりはな」

 一人でそう納得して、彼女が戻ってくる前にあらかた終えてしまうことにして、キッチンへ向かい、冷凍庫を開ける。

 取り出したるは冷凍した食パン。そいつを皿に出して電子レンジへ。トースターを壊してから発見したやり方だ。同時にケトルで湯も沸かす。

「え?電子レンジなの?」

 沸かしたはいいがカップが一つしかない。というところで、そんな声が響く。振り返れば帰ってきた彼女が、キッチンの入り口で電子レンジの中で回る食パンを見つめて固まっていた。

「これが案外美味いんだよ。だからその宇宙人と出会したみたいな顔はやめろ。…そんなに変か?」

 

 「じゃあ、俺は出るから」

 それくらいはやるから。と言うから任せた、皿洗いをしている彼女に声をかけた。

 案外イケると好評だった朝食を食べ終えて、一度着替えに引っ込んだ物置から戻ったところで時間は七時半。ちょうど良い時間だ。

「暇なら適当にゲームでも漫画でも引っ張って来い。そこの棚か、こっちの部屋にある」

「え?ちょっと」

「あぁ、飯も冷蔵庫のものは勝手に使って良いからな」

「ちょっと待ってってば」

 ギリギリまで渋った狭苦しいジャケットを観念して羽織りつつ言うと、慌てて手についた泡を流して背後をついてきた彼女が声を上げた。

 振り返ると、俺の言ったことが欠片も理解できないような、困惑しきった顔で彼女が立っている。

「なんだよ」

「いや、なんか、居ていいって言ってるみたいだったから…」

 問うと、彼女はまだ水滴の残る手を落ち着かなげに中途半端な位置に上げたまま小さく言った。また昨日の自由人ぶりは鳴りを潜めて、最後の方は消えて無くなりそうな声だ。

 今度はこっちが首を傾げる番だった。

「居ていいって言ったつもりだったんだが。昨日のあれ見て放り出すヤツなんか居ないだろ」

 もし居るならば、日中にも気温が二桁に届かないこの季節に、この状態の人間を外に放り出す奴の気が知れない。

「別に、帰りたいってんなら止めないが」

 付け足すように言うと、「帰りたくはないけど…」とまた細い声が返る。

「でも、私一人で置いといて良いの?」

 そう言う彼女は、なぜかその声の中に必死さが覗く。靴を履きながら、どこに向いたものかも分からないその理由を考えて、やっぱり分からないのでそのまま口を開いた。

「別に、取られて困るようなもんはほとんどないし、そのちょっとの困るもんも持ってくから問題ない」

 あ、心配だから鍵は閉めてくからな。と付け加えて玄関を開けた。

「じゃあ、行くからな」

 結局どうする気なのかの確認も込めて振り返って聞いた言葉には、曖昧な「いってらっしゃい」が返ってきた。

 まぁ良いか、と一つ頷いてドアを閉めると、こちらが鍵を取り出す前に内側から鍵を回す音が響いてきた。

 いつも聞いている音が少し籠って聞こえるだけなのに、不思議と聞き慣れない音だった。

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