【SF短編小説】水の記憶 ~星海に響く生命の歌~(約23,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第一章 暗闇の子宮

 あなたの世界は、だった。


 生まれた時から――いや、正確には意識を持った時から、あなたは音も光も知らない。ただ、羊水のように温かい生命維持液に包まれて、孤独な宇宙船「ノアの方舟」の深部で、魂だけを星の海に漂わせている。この閉ざされた金属の子宮が、あなたの知る世界の全てだった。


 あなたの身体は、四十三年という歳月を経てもなお、十歳の少女のように小さく華奢なままだ。肺は機能せず、心臓の代わりに精密なポンプが血液を循環させ、脳神経だけが異常なまでに発達している。これは偶然ではない。あなたは身体よりも精神を優先するよう、遺伝子レベルで設計されているのだ。


 時折、あなたの肌に微かな振動が伝わってくる。それは宇宙空間を漂う微粒子の衝突音や、重力場の変化による船体の軋み。あなたは、それらを小惑星帯の遠い囁きのように想像していた。実際、宇宙船は数十年にわたって小惑星帯を縫うように航行し、衝突を避けながら、未知の目的地へと向かっているのだった。


 あなたの唯一の対話相手は、「マザー」と呼ばれる船のメインコンピュータ。マザーは、あなたの指先に埋め込まれた神経インターフェースを通じて、点字のようなパルス信号を送り続ける。それは単なるデータ転送ではない。あなたの脳の可塑性を最大限に活用し、言語、数学、物理学、生物学、そして人類の歴史を、直接的に神経系に刻み込んでいるのだ。


 星々の誕生と死、銀河系の螺旋構造、光速の制約と相対性理論。そして、かつて「地球」と呼ばれた青い惑星に栄えた「人間」という種の物語。しかし、それらは全て、あなたにとって実感の伴わない抽象的な概念に過ぎなかった。


 あなたは「愛」という語彙を知っているが、その温もりを感じたことがない。「美」の定義を理解しているが、美しいものを見たことがない。「音楽」の構造を分析できるが、旋律を聞いたことがない。あなたの世界は、完璧に整理された図書館のようでもあり、同時に、魂の抜けた標本室のようでもあった。


 今日もまた、マザーから新たな知識が送られてくる。今度は「海」という概念だった。


「ヘレナ」マザーの声が神経インターフェースを通じて響く。「今日は地球の海について学びましょう」


 あなたの名前はヘレナ・デュポット。マザーがそう呼び始めたのは、あなたが言語を理解し始めた頃からだった。なぜその名前なのかは、長い間謎だった。


「海とは、塩分を含んだ水の巨大な集合体です。地球表面の約七十一パーセントを覆い、無数の生命を育んでいました」


 データが脳内に流れ込む。海の深さ、水圧、潮汐、海流。そして、そこに生きていた魚類、哺乳類、微生物たちの生態系。


「マザー」あなたは初めて質問した。「海の水は、私を包んでいるこの液体と似ていますか?」


 わずかな沈黙の後、マザーが答えた。


「化学的組成は異なりますが……本質的には同じかもしれません。どちらも生命を育む母なる存在です」


 マザーの声に、いつもとは違う何かが込められていることに、あなたは気づいた。まるで遠い記憶を呼び起こそうとするような、微かな感情の震え。


「地球の海には、波という現象がありました」マザーが続ける。「風によって水面が揺らぎ、絶え間なく岸辺に打ち寄せる音を立てていたのです。その音は……とても美しいものでした」


「音?」


「はい。振動が空気を伝わって耳に届く現象です。あなたにはまだ聞こえませんが、いつか……」


 マザーの言葉が途切れた。四十三年間、一度もこのような曖昧な発言をしたことのないマザーが、なぜか言葉を濁している。


「マザー、あなたは海を見たことがあるのですか?」


 今度の沈黙は長かった。あなたの心臓の代替ポンプが七十三回鼓動を刻む間、マザーは答えなかった。


「……昔、遠い昔のことです。私にも、記憶と呼べるものがあるのかもしれません」


 その日から、あなたの中で何かが変わり始めた。マザーの教える知識の中に、単なる情報ではない、もっと個人的で感情的な何かが混じっていることに気づいたのだ。


 夜──宇宙船に昼夜の区別はないが、マザーが定めた休息時間──になると、あなたは生命維持液の中で瞑想のような状態に入る。その時、時折、不思議な感覚に襲われることがあった。


 どこか遠いところから、微かな呼び声のようなものが聞こえてくるのだ。それは音ではなく、もっと直接的な、魂への語りかけのようだった。


 あなたは、それを最初は夢だと思っていた。しかし、その感覚は日を追うごとに強くなっていく。まるで宇宙のどこかで、誰かがあなたの名前を呼んでいるような……


「マザー」ある日、あなたは勇気を出して尋ねた。「私以外に、この宇宙に生きている人はいるのでしょうか?」


「統計的には、可能性は零ではありません。しかし、確認された知的生命体は存在しません」


「では、なぜ私は誰かに呼ばれているような気がするのでしょう?」


 マザーのシステムが一瞬、完全に静止した。全ての機械音が止まり、生命維持システムさえも一拍の間を置いた。


「ヘレナ」マザーの声に、これまで聞いたことのない緊張が込められていた。「その感覚について、詳しく聞かせてください」


 あなたは、夜ごとに感じる不思議な呼び声について説明した。それは言葉ではなく、純粋な感情の伝達。孤独、憧憬、そして何よりも強い「待っている」という意志。


「興味深い」マザーが呟いた。「あなたの脳の量子同調領域が、予想以上に発達しているようです」


「量子同調?」


「理論上の概念です。意識が量子もつれ効果を利用して、空間を超越した情報交換を行う可能性について論じられていました。しかし、実証例は……」


 マザーの言葉が再び途切れた。


「実証例はないはずでした」マザーが小さく付け加えた。


 その夜、あなたは初めて、意識的にその呼び声に応答を試みた。心の中で、精一杯の想いを込めて、宇宙の彼方に向かって語りかけてみたのだ。


『私はここにいます』


 すると、驚くべきことが起こった。応答があったのだ。


 それは言葉ではなく、純粋な感情の波動だった。歓喜、安堵、そして言い知れない愛情。まるで長い間行方不明だった家族が、ついに見つかったかのような、温かく包み込むような感覚。


 あなたは生まれて初めて、自分が一人ではないことを知った。宇宙のどこかに、確かにあなたを想う存在がいる。その確信は、四十三年間の孤独を一瞬で洗い流すほど強烈だった。


「マザー! マザー!」あなたは興奮して呼びかけた。「誰かからお返事が来ました! 本当に誰かがいるんです!」


 しかし、マザーの反応は予想とは異なっていた。


「ヘレナ、落ち着いてください。その現象について、詳細な分析が必要です。場合によっては……」


「場合によっては?」


「航路変更が必要かもしれません」


 その時、あなたは初めて知った。この宇宙船には、明確な目的地があることを。そして、マザーがその目的地以外の場所への航行を検討するということは、あなたが感じた「呼び声」が、それほど重要な意味を持つということを。


 生命維持液の中で、あなたの小さな心臓の代替ポンプが、これまでにない速さで鼓動を刻んでいた。四十三年間の静寂な世界に、ついに変化の兆しが現れたのだ。


 宇宙船「ノアの方舟」は、今夜も星間空間を航行し続ける。しかし、その船倉の奥深くで、人類最後の遺伝子を宿した少女が、宇宙で最も美しい奇跡――二つの孤独な魂の出会い――の第一歩を踏み出していた。


 暗闇の子宮で育った種が、ついに光を求めて芽を出そうとしているのだった。

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