第11話

今回は――


「ひとつぶ」で働くようになった**紗英(さえ)**のその後をお届けします。

自分の場所を探していた彼女が、「働くこと」と「暮らすこと」と「書くこと」を、少しずつ自分の形でつかんでいく、ささやかな季節の物語です。



『午後五時の光』


 紗英が「ひとつぶ」で働き始めて、もうすぐ一年になる。


 朝は店の開店前に、床を拭くことから始まる。

 それからスコーンを焼き、紅茶を淹れる準備をし、ガラスケースの中に小さなケーキたちを丁寧に並べていく。


 はじめは「自分にできるのだろうか」と思っていたことが、今はもう、手のなかに馴染んでいる。

 けれど、慣れたわけではない。ただ、愛着があるだけだった。



 その日、午後の五時すぎ。

 店は少し落ち着いていて、光がやわらかくテーブルに差していた。


 紗英は、厨房のすみにある小さなノートに、短いことばを書いた。


 > 「今日も、誰かが静かに笑っていた。

 >  それだけで、十分に大切な日だった。」


 葉に勧められて始めた“日々の断片”ノート。

 お客さんのこと、店の空気、自分の気持ち――ほんの二、三行の記録。

 それが少しずつたまって、今では小さな文章集になっていた。



 春のある日、「ねこのいるせかい」の作者・海が店にやってきた。

 「ひとつぶ」の棚に本が並んだ日以来だった。


 「久しぶりですね」

 「……ここに、また来たくなって」

 「それって、うれしい理由ですね」


 海は、彼女のノートをちらりと見て言った。


 「これ、すごくいい。文章、やっぱり書いてるんですね」


 「……こわいんです。こういうのを“人に見せる”って。

 誰かの時間をもらう価値が、自分の言葉にあるのか、わからなくて」


 でも、海はまっすぐに答えた。


 「“価値があるか”は、きっと読む人が決めることですよ」

 「……そっか」

 「ぼくは、読みたいと思いました。ちゃんと」



 数ヶ月後。

 紗英は、最初の本を出した。


 **『午後五時の光』**という、小さなエッセイ集だった。

 「ひとつぶ」の一日を切り取ったような短い文章が、季節ごとに並んでいる。


 そして出版の日、彼女はあらためて葉に伝えた。


 「この場所で働いていなかったら、私は“書くこと”が怖いままでした」

 葉はふわりと笑った。


 「うん。だけどね、紗英さんは、働いてるんじゃない。

 ここで、自分のことを育ててたんだと思うよ」



 ある日、ひとりの読者が『午後五時の光』を手に、ケーキ屋に訪れた。

 カウンターでその本を見せて、少し照れたように笑った。


 「……本のなかの時間と、ここが同じ匂いで、うれしかったです」

 「ありがとうございます」

 紗英は、その日も変わらずスコーンを焼き、静かにノートに言葉を綴った。



「大きな夢じゃなくていい。

 小さな光の集まりが、わたしの歩幅に合っている。」



誰かの物語のそばにいることで、

自分の物語もまた、静かに息をしていく。

“ひとつぶ”の時間は、今日もあたたかく続いている。

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