第5話
今回は――
「リーフ」の元店主・三谷が、空き地にできたケーキ屋「ひとつぶ」を初めて訪れる日の物語をお届けします。
静かで、でも心にじんわりとしみる、あたたかな再会です。
『ほんのひとつぶ』
その日は、小雨が降っていた。
冬の終わり。吐く息がまだ白い午後。傘を持たない三谷は、コートのポケットに手を入れて、ゆっくりと街を歩いていた。
何かの用事があったわけではない。ただ、ふと思い立って、あの場所に足が向いた。
十数年店をやった場所。喫茶店「リーフ」。
閉めてからしばらく、何もなかったはずのその空き地に、最近「小さなケーキ屋ができた」と耳にしたのは数日前のことだった。
そのときは、「ふうん」としか思わなかった。けれど、今、自分はその扉の前に立っている。
「ちいさなケーキ屋 ひとつぶ」
ガラスの内側には、手描きの絵と、季節のメニュー。
ショーケースの奥には、焼き色のやさしいマフィン、ちいさなタルト、湯気のたつスコーンが並んでいる。
扉を開けると、ベルがひとつ、澄んだ音を鳴らした。
「いらっしゃいませ」
声がした。
懐かしい声だった。
カウンターの奥に立っていたのは、若い女性――葉(よう)。
あの頃、大学生だった彼女は、週に数回「リーフ」でアルバイトをしていた。
彼女もすぐに気づいたようで、はっと目を見開いたあと、やさしく微笑んだ。
「……マスター」
「……来てみたよ」
「……うれしいです」
三谷は、そっと店内を見回した。
リーフの頃よりずっと明るくて、やわらかい。けれど、どこかに「あの店の時間」が残っているように思えた。
カウンターの角に、昔とそっくりの丸椅子。壁にかかった時計の針の音。ショーケースの奥に飾られた、一冊の絵本。
それは――『リーフのあとの場所』
湊と綾の絵本だった。
葉が、コーヒーと焼き菓子のプレートを運んできた。
「これ、マスターに出したくてずっと考えてたんです」
「……試されてるのかな」
「ふふ。でも、私が今できる“お礼”のつもりです」
三谷は、ひと口コーヒーを飲んだ。
少し酸味があって、やわらかい香りが広がった。味は違う。でも、想いは、ちゃんと届いた。
「……うまいじゃないか」
「……ありがとうございます」
しばらく沈黙があった。
その静けさが、心地よかった。
「この場所は、よくできてる」
「そう思ってくれますか?」
「うん。リーフのあとじゃなくて、“つづき”になってる」
葉は、こくんとうなずいた。
「私は、マスターの背中をずっと見てたんです。
あの頃の私は、ただお菓子を作りたかったけど、今は“誰かの時間をあたためたい”と思うようになりました」
三谷は、ふっと目を細めて笑った。
「それがいちばん難しくて、いちばんいい」
「はい」
「また来てもいいかい?」
「もちろんです。いつでも、どうぞ」
雨はやんでいた。
店を出た三谷のポケットには、紙包みにされたスコーンがひとつ入っていた。
“ほんのひとつぶ”のやさしさが、ちゃんと未来に残っていた。
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