感情と共に歩く朝

朝が来た。


曇り空に滲む弱い日差しが、カーテン越しに部屋を照らしている。

外はまだ冷えていたが、綾人は起き上がった。

体はだるく、頭は重い。

けれど、呼吸は……できていた。


ベッドの横には、昨夜脱ぎ捨てたままのシャツが落ちていた。

汗の跡が生々しく残っている。

まるで“内側の嵐”の証拠のようだった。


机の上、5錠目のパッケージはそこにあった。

しかし今日は、触れなかった。


綾人は静かに制服に袖を通し、玄関のドアを開けた。


冷たい風が、肺の奥まで流れ込んできた。

思わず、胸を押さえた。


「……苦しいな」


でもその苦しさは、昨日までの無感情の空白とは違っていた。

そこには理由があった。

不安。緊張。羞恥。焦燥。

すべてが混ざった“理由のある痛み”。


1歩、踏み出す。

心臓が重く跳ねた。


2歩目、呼吸が浅くなる。

耳鳴りがする。


3歩目、うつむいてしまう。

けれど、それでも歩みは止めなかった。


綾人は、胸を押さえながら、

「それでも歩く」という選択を続けていた。


途中、公園のわき道で、母親に連れられた幼児とすれ違った。

その子が、綾人を見て不思議そうに言った。


「ママ、あの人、かなしい顔してる」


綾人は驚かなかった。

ただ少し、目を細めて、歩を進めた。


かつてなら、あの一言に凍えただろう。

顔を背け、俯いて通り過ぎただろう。

だが今日は――ただ胸を押さえながら、歩くことを選んだ。


泣いているわけではない。

でも、涙が残った目元は隠しきれない。

笑っていないのに、なぜか口元は緩んでいた。


「これが……生きてるってことか」


独り言だった。

答える者はいない。


だが、その言葉は、

“無感情の檻”を抜け出したばかりの彼にとって、

あまりにも重く、あまりにも温かい実感だった。


胸の痛みが、

「生きていること」の重さそのもののように思えた。


いつかまた、5錠目に手を伸ばす日が来るかもしれない。

けれど――今日は違う。


今日は、「感情と共に歩く朝」だった。


そしてその一歩一歩は、

震えながらも確かに、

人間という存在に近づいていた。

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