静謐なる世界

2日目の朝、綾人は鏡の前でじっと自分を見つめていた。


目はまっすぐ前を向いている。

姿勢も、背筋が伸びている。

喉が詰まることもなく、自然な呼吸ができている。

それだけのことで、世界が別物に見えた。


教室では、川野がまた絡んできた。

「よう猫くん、今日は何匹目の命だよ」

その言葉に、綾人は小さく笑ってこう返した。


「君が数えてくれるなら、安心だな」


教室がざわついた。川野の顔が一瞬だけ固まる。

綾人はその空気を、静かに楽しんだ。


だが――放課後、電車の中で吊り広告を見たとき、心がわずかにざらついた。


《恐怖を感じることで、人間は初めて慎重になれる》

──心理学者の言葉だった。


そのとき綾人は、はっとした。

「……俺は、慎重じゃなくなってるのか?」


帰宅しても、その疑念が胸に残り続けた。

そして、ふと気づいた。


明日の朝で、2錠目の効果は切れる。


それが現実味を帯びた瞬間、腹の底に冷たいものが走った。

胸が軋むように疼き、足先が微かに汗ばむ。


「戻りたくない」


心の奥から、そう囁く声がした。


あの、喉が詰まり、背中が凍るような“弱い自分”へ。

何も言えず、ただ怯えていた“昔の綾人”へ。

あそこには、もう戻れない。

戻ってはいけない。


だが――


綾人は立ち上がり、机の引き出しを開けた。

銀色のパックは、そこにあった。

残りは2錠。


指が、震えた。

今度は、“飲まない理由”を探していた。


「だめだ。飲んじゃいけない」

声に出して、自分に言い聞かせる。


「これは逃げだ。俺は本当に強くなったんじゃない。薬の力で、錯覚してるだけだ」


だけど、薬で得た“強さ”が、あまりにも鮮やかだった。


父の前で平然と話せたこと。

川野を黙らせたあの瞬間。

誰にも怯えなかった2日間。

それらすべてが、フィアネクスの効果であったことは否定できない。


そして、それが切れた後の自分を想像すると、

全身がまた震えそうになる。


「……怖い」


その言葉を、久しぶりに口にした。


だが、奇妙なことに気づく。

“恐怖が戻ること”への恐怖は、

以前感じていた「人に怯える」それとは、まったく質が違う。


それはまるで、

「喪失」に対する恐れだった。


“恐怖のない自分”という理想像を、

薬の切れ目で失ってしまう。

そのことが、今の綾人にとっての最大の恐怖になっていた。


――恐怖を失うための薬が、

“恐怖を恐れる”という新たな依存を生んでいる。


そのパラドックスに、彼は気づいていた。

だからこそ、今ここで飲んではならない。

もう一線を越えれば、自分の意思では戻れなくなる気がする。


「飲まない……俺は、もう薬なしでも、大丈夫なはずだ」


綾人は、錠剤のパックをそっと引き出しに戻し、

鍵をかけた。


その夜、眠りは浅かった。

夢の中で、鏡に映った自分が笑っていた。


“じゃあ、お前はいつまで我慢できる?”


その声が、自分のものだった気がして、

綾人は朝まで、目を閉じることができなかった。

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