恐怖止め薬『フィアネクス』

技術コモン

恐怖止め薬

4月の風がまだ冷たい朝。中谷綾人は、

制服の襟を首まで引っ張りながら通学路を歩いていた。


駅前の信号のところで立ち止まり、ポケットの中のスマホを指で撫でる。

通知はない。誰からも。

「……今日も、か」

声は小さく、風に呑まれていった。


綾人は、自己主張が苦手だった。

教室では、できるだけ目立たないように息を潜める。

何かを言いかけても、相手の目を見た瞬間に口がすぼむ。


体育の時間に声を出せなかっただけで、後ろの席の川野に「お前、猫か?」と笑われた日。

帰り道の橋の欄干で、しばらく動けなかった。

だが、家に帰っても安らげるわけではない。


「なんだその姿勢は。返事をしろ、返事を」


父の声は重く、冷えた刃物のようだった。

返事をすれば怒られ、黙っていても怒られる。

何が正しいのか、綾人にはもうわからなかった。


「強くなりたい」

心の底で、何度もそう呟いた。けれど“強さ”とは何かも、まだわかっていなかった。



そんなある日、教室の隅でいつもイヤホンをしている望月が、不意に話しかけてきた。

「中谷、お前、“フィアネクス”って知ってるか?」


「……フィア、ネクス?」


「恐怖を止める薬。錠剤ひとつで、1時間、怖いって感情が消えるんだと」

望月は、にやけたまま机に突っ伏した。


「都市伝説だって言われてたけど、実在するって。

 俺の兄貴が、知り合いから手に入れたってさ。ちょっと見せてもらった」


綾人は鼻で笑った。

「そんなの、あるわけないだろ」


「いやいや、これがマジらしいんだよ。

 パッケージには“よく考えて服用してください”って書いてあるんだって。

 なんかヤバくね?」


「どうせフェイクか、違法な成分入りのやつだろ」


「ま、使うかどうかは自己責任だよ。

 ……でもな、想像してみろよ。

 あの父親の前でも一切ビビらず言いたいこと言えるってさ」


その言葉に、綾人の心臓が、一瞬だけ跳ねた。



放課後、家に帰る足取りは、いつもより少しだけ重かった。

電車の吊り広告が目に入る。

“感情を科学する時代へ”という文句の下、白衣の人物が笑っている。


……もし、本当に恐怖を消せたら。

父の怒声にも、教室の視線にも怯えず、自分の声で喋れるのだろうか?


スマホを開いて「フィアネクス」で検索してみた。

それらしいサイトは見当たらない。

掲示板のスレッドがひとつ。「【実在?】恐怖止め薬フィアネクス【1錠1時間】」。

中身は荒れていた。


「幻覚系ドラッグだろ」「いや、マジで効いた」「5錠飲んだら戻れないってさ」

信じるには、材料が足りなさすぎる。


けれど、もしそれが本当なら。

……本当なら。


綾人の指は無意識のうちに、スレッドの中に貼られたURLをタップしていた。

暗い画面に浮かぶのは、簡素な通販サイト。商品はひとつだけ。

《Fearnex(フィアネクス)》――銀色のパッケージが画像として表示されている。


価格は3,000円。1パックごとに1錠入りが4枚組。

脳内の扁桃体活動やホルモン分泌を操作し、恐怖反応を抑制するナノ薬品。


「効果はそれまでの摂取量に比例します」と書かれた下に、次のような表記が並んでいた。


・1粒:1時間

・2粒:2日間

・3粒:3週間

・4粒:4ヶ月


その下に、太字の注意書きが添えられている。


『※5粒以上の効果は記録されていません。

 ※服用は自己責任で行ってください。』


そして一番下に、赤い文字でこう書かれていた。


『――よく考えて、服用してください。これはあなたの恐怖を消すものです。』


綾人の喉が、ごくりと鳴った。

ページを閉じようとしても、手が動かない。

「……まさか、ね」

そうつぶやいた彼の指は、いつの間にか“購入”のボタンを押していた。

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