岐ふ蝶の舞ふ春に 前編 不戦の女神

勢良希雄

一 悲運の城

(一)幻の祠 (A2026)


 広島の春空は晴れていても、そんなに青くない。木の葉や草も薄緑。淡い色の景色の中を、鮮やかな黄色の蝶が舞う。

「ギフチョウ…」

 そう呟いたのは、カープの赤い帽子の少年。頭上に二頭目が現れ、遊ぶように飛び、山の中に入って行く。昆虫好きの小学校六年生は、この蝶が絶滅危惧種であることを知っている。

 令和八年(二〇二六)四月十一日土曜日、広島市郊外の住宅団地、矢野ニュータウン。少年の名前は伊藤武瑠(いとうたける)。大人たちからは山に入ってはいけないと言われているが、蝶につられて山道に入ってしまった。背よりも遥かに高い枯草の隙間を、すり抜けるように追いかけた。

 蝶を見失って、周りを見ると寂しい場所。今にも崩れそうな神社、枯れて倒れた桜の大木。三方を囲む森から木が覆いかぶさり、薄暗く、空気もひんやりしている。

 草むらの方から来たのは間違いないのだが、道は見えない。居場所を確認するため、ワンショルダーバッグからスマホを取り出した。が、圏外。

 その時、遠くから草をかき分ける音が近づいてきた。怖くて声も出ない。

 ガサガサガサーッ。

 と音がして、一人の男が現れた。「ひっ!」と息が止まりそうになる。

 しかし、見覚えのある人だ。

「先生…」

「わあ! びっくりしたあ」

 不意の人の声に、その人も驚いている。中二の兄が通う塾の塾長で、武瑠も去年、塾主催のキャンプに連れて行ってもらい、この愉快な先生に遊んでもらった。

「おー、君は伊藤山翔(いとうやまと)君の弟、武瑠君だね」

 リュックを背負った塾長先生は、神社を見ながら言った。

「やっと、幻の祠(ほこら)をみつけたぞ。あー、ボロボロだ」

「幻のホコラ?」

 祠の正面、元は参道であったろう場所も、周辺の耕作放棄地と一緒に、二メートル級のセイタカアワダチソウが繁茂。春になってもその枯草は立ったままで、視界を遮(さえぎ)っている。

 先生は息を整えながら、話題を変えた。

「蝶々、見なかった? アゲハみたいな」

「ギフチョウのこと?」

「ほお、よく知ってるね。それそれ、見た?」

「見たよ!」

「ほんと? じゃあ、やっぱり今日なのか」

 武瑠はギフチョウが飛んでいる日に、季節的な何かが起こるのかと思った。

「今日、何か起こるの?」

 先生は、全然違うことを言い始める。

「ばかばかしいと思うかもしれないけど、聞いてくれる?」

 先生の名前は菊池時彦(きくちときひこ)。六十五歳、独身。小学校教師を定年退職後、塾を経営している。あちこち引っ越しているが、子どもの頃の一時期、矢野にいた。

 五十六年前のちょうど四月十一日、その日も土曜日だった。当時の土曜日は午前中だけ学校があった。午後から外に遊びに出て、綺麗な蝶を見つけ、追っているうちにここに来た。

 見たのは蝶だけではない。


 昭和四十五年(一九七〇)、この祠はまだちゃんと立っていた。しかし、めったに人の来る場所ではない。祠の後ろに滝、水音だけが谷に響く。

 寂しくなったので、少年は大声で歌を歌った。当時流行(はや)っていた大阪万博の歌だ。

「こんにちはー、こんにちはー!」

 すると…。

 滝の後ろから水を割って、強い風。どうしたことか、たくさんの蝶々が吹き出す。境内のヤマザクラの花びらと混じり合って、渦を巻く。少年は水しぶきに濡れる。驚いていると、さらにびっくりすることが起こった。

 花と蝶のつむじ風の中から人間が二人。

「わわわ!」

 若い男と女。菊池少年は幽霊だと思った。逃げだそうとしたが、足が動かない。金縛りに遭ったような時間、随分長く感じたが、それは数秒だったのかもしれない。恐怖がすっと消えた。緊張をほぐす、二人の優しい眼差しとともに、「怖がらなくてよい」というメッセージが言葉ではなく、伝わって来た。

 男の方は、日本神話の絵のように、髪を角髪(みずら)に結い、白い貫頭衣を着て、勾玉(まがたま)の首飾りを付け、直線的な剣を携えて、長い弓を持っている。弥生時代の少年か。顔や背丈からは十五歳くらいに見える。質素な出で立ちだが、神様のような気高いオーラが溢れ出ている。

「タケリノタキニーテ、タケリチーパナーカ」

 宇宙人のような言葉は、もちろん理解できない。

 女の方も十五歳くらい、戦国時代のお姫様か。頭から黄色い羽織のようなものを被っており、そこから胸元に掛けて長くて、まっすぐな黒髪を垂らしている。

「わらわは矢野城主野間隆実(のまたかざね)が娘、名を揚羽(あげは)と申す。危うきところを、このお方に助けられて、ここに連れて来られた」

 こちらの言葉は何となく理解できた。少女の面影にも、はっきりとした目鼻立ち。蝶の羽ばたきのような長いまつ毛の瞬き、菊池少年はアイドル歌手に会ったようにときめいた。

「アガナパ、ポポテミーピコ。ナノナーパ?」

「このお方、ホホエミ彦とか申されるらしい。そして、其方(そなた)の名を問うておるようじゃ」

「僕の名前は、菊池時彦です」

「キクティーピコ。コノピメノカパネーノ、ユクチュエマナーピーテ、イチョムートチェノティーノコノーピ、タキニーテタケリタマーペ」

「菊池殿と申されるか。このお方はこのようなことを言うておられるようじゃ。我が野間家の行く末を学び、五十六年後のこの日、またこの滝の前で、叫べ…と」

「野間家の行く末を調べて、五十六年後にここでまた叫べと…」

「さよう。しかと、しかとお頼み申し上げたぞ」

 そして、二人は滝の後ろに消えた。一人、神社の前に残され、呆然とする少年の頭上を蝶が舞っている。

 家に帰って、このことを家族に話したが、信じてはもらえない。

「お父さん、本当なんだよ」

「わかったわかった。確かに昔、矢野にはお城があって、野間という苗字のお殿様がいたんだよ。誰に教えてもらった?」

「滝から出てきた人…」

「妄想癖か。テレビで怪獣とか妖怪とか、変なのばかり見てるからだ。大丈夫かお前」

 滝の前でのことは、録画のように少年の脳裏に刻まれ、鮮やかに再生することができた。忘れないうちにと、弥生少年の言葉を聞こえたままにメモしておいたと言う。

 菊池少年はそのあと、自衛隊に勤める父親の転勤で引っ越し、北海道で育つ。東京の大学に行ったが、懐かしさもあって、広島市の教員試験を受け、採用されて広島に戻った。独身なので、勤務先に近いところに引っ越して回った。最後の数年、矢野南小学校に勤務して退職した。今も矢野に住んで、矢野で塾をやっている。


「これがそのメモだ」

 古い紙、テストの答案用紙のようだ。

「わ、三十点…」

「ははは。これはお恥ずかしい。裏裏!」

―タケリノタキニテ、タケリチパナカ。アガナパ、ポポエミピコ。キクチピコ。コノピメノカパネノユクチュエマナピ、イチョムトチェノチノコノピ、コノタキニテタケリタマペ。―

「わ、へたくそな字」

「これまた、お恥ずかしい。菊池時彦九歳の字だ。まあ、今でも上手な方ではないが…」

 二人はじゃれ合うように会話を楽しんでいる。去年のキャンプのときもこんな感じだった。武瑠は先生をバカにしているわけではない。

「しかし、この出来事で、先生は先生を目指したと言ってもいい」

「そうなの」

「高校で古典の先生が、昔の日本語のことを話したとき、あの少年の言葉に似てると思ったんだ。写真を入れてたお菓子の箱から、このメモを探し出した」

「大切にしてたんだね」

「古典の先生が言っていたように、『ぱ行をは行』、『ちゃ行をさ行』に置き換えて読んで、意味を考えてみた。例えば、『ピメノカパネ』は『ひめのかはね』。つまり、『姫の姓(かばね)』。そして、『イチョムトチェノチ』は『いそむとせのち』、つまり、『五十六年後』」

「全然、分からない」

 先生は四十年以上、子ども相手の仕事をしてきたが、自分の興味が勝ると、子ども向けに言い換えることを忘れてしまう。

「ごめん。分かったのは、先生も高校生の時のことだ。まあ、こうしてメモのすべてを解読した」

 ―タケリの滝にて哮(た)けりしは汝(なんじ)か。吾(わ)が名は微笑彦(ほほえみひこ)。菊(きく)池(ち)彦(ひこ)、姫の姓(かばね)の行く末学び、五十六年後(いそむとせのち)のこの日、滝にて哮けり給え。―

「『ホホエミ彦』という名前は、揚羽姫がそう言った。話の内容も揚羽姫の言ったままだった」

「九歳の子どもに出来る作り話ではないな」

 先生は「偉そうに」と思ったが、それは言わずに聞いた。

「うん。君は何歳だ」

「十一歳」

「…そうか、君とは気が合いそうだ」

 快活なサッカー少年の兄とは違って、鬱屈を抱えたマニアックな少年。自分の子どもの頃に似ていると感じた。自分のその辺りの本質は、今もまったく変わってはいない。

「先生も面白いと思ったんだ。小学校の先生にも専門があってね。私は国語なんだ」

「この三十点のテスト、国語だね」

 この少年、小賢しくもあるが嫌みはない。

「面目ない。その頃は勉強が好きじゃなかったな。好きなのは、UFOや心霊写真。この体験で超常現象に一層興味を持ってしまって、その後、中、高、大とSF小説を読みまくったよ。その時の読書量で国語の先生になれたと思っている」

「僕は、生き物図鑑とゲームの攻略本を読んでる」

「やっぱ、なんかちょっと似てるな。…ま、そういう小説を読んでると、過去の人から依頼を受けるというフィクションもあってね。あの出来事も夢か妄想だったように思えてきたんだよ」

「お姫様の宿題はやらなかったの?」

「忘れてたわけではないんだけど、長いこと広島を離れていたし、宿題の期間が長かったので、思い立つきっかけがなくてね」

 就職してからは広島にいたのだが、宿題に取りつく気分にはならなかった。定年まで平教諭を貫いたのだが、働き方改革以前の教員はやたらとハードで、日常の宿題をこなすので精一杯だった。

「それが、ようやく小学校の先生を退職して、その春、絵下山(えげさん)に登ったんだ」

「テレビ塔のある山?」

「そうそう。景色いいよね」

 テレビ塔が立っているということは、遠くに電波を届けられる場所。つまり、邪魔するものがなく、景色が良い。広島湾に浮かぶ島々、天気が良ければ、北は広島市街地を越えて西中国山地、南は瀬戸内海を越えて四国山脈まで望める。

「山の上で、ギフチョウを見たんだ。あの時の蝶々だと思ったね。あの時見て以来、見たことがなかったんだよ。珍しい蝶々だったんだね」

 ギフチョウはアゲハチョウ科の美しいチョウで、黄色に黒の縦縞模様。絶滅危惧種のシンボルとして、「春の女神」と呼ばれている。学名はリュードルフィア・ヤポニカ、日本固有種である。

「その頃はその頃で、塾の開設準備が忙しかったんだけど、急かされた気持ちになった。…というわけで、『野間家の行く末』を調べ始めたのは、ほんの五年前なんだ」

「五十一年放置か。でも、今ならネットで検索すればすぐ分かるんじゃないの?」

「それが、野間の殿様って、あんまり有名じゃなくて、検索しても出てこないんだよ。図書館で町史を調べたけど、それもあまり詳しくない。それで、公民館に行ってみたら、地元郷土史会の書棚を案内してくれた」

「郷土史会?」

「自分たちの村や町の歴史を研究する人たちだよ。昭和の初めの矢野の郷土史会の人たちが熱心に調べたらしくて、野間家に関する言い伝えの資料が残ってた。コピーしてもらって、ファイルに綴じた。でも、野間のお姫様の名前やホホエミ彦に該当する人は出てこなかった」

「この滝や神社のことは書いてなかったの?」

「書いてはあった。でも、団地と道路が出来ちゃったせいか、当時の地図と今の地図がうまく合わないんだよね。何回か探しに来たんだけど、見つけられなかったんだ」

「僕もここに来たのは初めて。よく山に入って遊んでいる友達がいるけど、この神社のことは聞いたことがない」

「約束の五十六年。今日、見つけられなかったら、夢だったことにしようと思っていた。でも、ここで武瑠君がギフチョウを見たと言うし、幻の祠もあった」

「神社も五十六年ぶりに現れたのかな」

「いや、団地と道路ができるまでは、普通に来れたんじゃないかと思う」

「忘れられた神社なんだね」

 先生は、崩れかけた建物を見つめていた。先生は「祠(ほこら)」と言っているが、屋根の高さは二メートル以上ある。そこそこの広さの境内があり、入り口には石の門柱、片方だけになっているが石灯籠もある。鳥居こそないが、小さめの「社(やしろ)」である。

「この神社の名前は、多家(たけ)神社」

「タケ神社? ちゃんと名前があるんだ」

「ここで神武天皇が矢にする竹を取ったのでタケ神社、矢野という地名の由来でもあると、資料に書いてあった。そして、滝の名前はホホエミ彦の言ったとおり、多祁理(たけり)の滝。あれが夢か妄想だったとしたら、先生は夢か妄想の中で滝の名前を知ったことになる」

「不思議だね」

「…一緒に呼んでみようか」

「誰を?」

「ホホエミ彦と揚羽姫を」

「え、怖い…」

「めちゃくちゃ綺麗なお姫様なんだよ」

「ほんと? 呼ぶ!」

「女子、大好きみたいだな」

「めちゃくちゃ綺麗とか言われると、誰でも見てみたくなるよ」

「大丈夫、先生も女子好きだ」

「そういうこと、塾の先生が言うと危ない」

 どれだけ分かって言っているのか分からないが、社会的感覚も侮れない。

 先生は武瑠の肩を抱いて、滝の前に立った。

「滝の水、随分少なくなっているな…」

 五十六年前には、水が落ちる音がしていた。滝壺というほどではないが、小さな池もあった。今は岩肌を濡らす程度で、下には細い水路があるだけ。

「さあ、行くよ。こんにちはー、こんにちはー」

「あ、聞いたことあるかも。その歌、何だっけ」

「大阪万博の歌だよ。武瑠君が知っているとしたら、リバイバルだ」

「去年、やってたやつじゃないの?」

「その五十五年前にもあったんだよ。去年のより、何倍も日本が盛り上がった。進歩と調和。先進国に肩を並べた日本。昭和絶頂期のシンボル」

「いい時代だったんだね」

「いいことばかりじゃなかったけど、国民は上を向いて頑張っていた。…さあ、歌うよ。一九七〇年のこんにちはー。こんにちはー、こんにちはー。ほれ、武瑠君も!」

「え? あ、うん…なんか恥ずかしいなあ」

「こんにちはー、こんにちはー」

 すると、水の少ない滝の岩肌、先生の目の高さで、直径十センチほどの黒い穴がポッと現れた。

「何だ、この穴は」

 先生が目を近づけて覗き込むと、武瑠が心配そうに言う。

「気を付けて。一酸化炭素とかが噴き出してきたら、死んじゃうよ」

「まさか…。真っ暗闇だけど、奥は空洞になっているようだ」

 突然、強い風が吹き出した。

「うわっ!」

「ほら!」

 二人は驚いて、湿った土にしりもちをついた。

 穴は水しぶきを上げながら、笛のように鳴っている。ギフチョウが数頭、舞い出て来た。穴はじわじわと広がって、笛の音は風の音に変わった。やがて、岩に背丈ほどの割れ目ができ、光が漏れ始めた。

 ゴゴゴゴ、ゴゴゴゴ…。

 扉が開くように割れ目が左右に広がると、その向こうは深い穴になっていた。球形の発光体が下から上がってくるように大きくなる。そして、直視できないほど眩しい明るさになった。

 逆光に黒い二つの人影が浮かぶ。武瑠は腰を抜かしたまま後ずさり。

「えー? なになに、怖い怖い」

 光が落ち着くと、弥生少年と戦国姫の姿が見えた。

「やっぱり現実だったのか!」


(挿話一)梁山泊 (A1335)


「惣領(そうりょう)! 何故、分かってもらえぬ!」

「四郎三郎! お主こそ、ええ加減にせえよ」

 建武二年(一三三五)、安芸熊谷(くまがい)家の居城は三入(みいり)高松(たかまつ)城(じょう)。その板間、惣領家当主の熊谷直(なお)経(つね)の決定に激しく異議を唱えているのは、熊谷四郎三郎直(なお)行(ゆき)。真言宗の僧侶として蓮覚(れんがく)という名がある。

「古今東西、徳を持つ王が、知恵を持つ文官と、力を持つ武官の双方を掌握してこそ、平和な治世が成るとされておる。この国では平氏、源氏、北条氏と武官の一族が長い間、権勢をふるってきた。武官が作る国は不安定なものじゃ。天皇家が二系統に分かれたことに乗じて、帝を傀儡にする横暴。尊氏がようやく、気概ある帝(みかど)を支えて、武官の幕府を倒したが、結局、支えた帝を討伐し、自らが王にならんとしておる」

 後醍醐天皇に協力して鎌倉幕府を倒した足利尊氏であったが、天皇の武士への処遇に不満を抱き、全国の武士に天皇打倒を号令。安芸国でも守護武田氏が配下の武家を従え、京都に向かおうとしていた。熊谷氏も武田氏に従うことにしたのだ。

「武家の頭領たる征夷大将軍の職を、帝に求めただけじゃ。至極まっとうな話ではないか」

「結局、自分の倒した鎌倉幕府と同じことをしようとしておる。どこに正義があるのじゃ」

「安芸国守護武田信武(たけだのぶたけ)殿が、尊氏殿に従うと申しておる。主君に従うことこそ、武士の正義であろうが」

「よう言うた。主(あるじ)に侍(さぶろ)うてこその侍。そのとおりじゃ! そこで、誰が主かよう考えてみられよ。将棋では戦の大将を王将と言うが、国の中では誰がどう言おうが帝が主。尊氏とてそれに侍う飛(ひ)車(しゃ)角(かく)に過ぎぬ」

「なんぼお主が坊さんじゃからというて、そのような説教聞きとうないぞ。分家の分際で小賢しい!」

「ああ、いかにも、拙者は田舎侍の分家の次男。吹けば飛ぶような歩(ふ)の駒じゃ。しかし、京や鎌倉のことを思えば、惣領や武田殿とて、せいぜい香車か桂馬」

「今、儂(わし)のことを田舎侍と言わなんだか! 一昨年の千早城の戦いで拙者が命拾いをし、負け戦ながら安芸熊谷が名を上げたのには、お主の兵法の功労もあった。そう思うてはみ出し者を庇(かぼ)うてきたが、もはや知らぬぞ!」

 蓮覚は一門の中でも、頭が良いことで通っている。その分、弁も立ち、しかも頑固者なので、惣領にとっては非常に扱いにくい。

「ああ、はや面倒くさい。問答無用。熊谷から出て行け! 惣領に逆らい、守護に逆ろうて、安芸の国で生きていけると思うな」

「望むところ!」

「それ即ち、尊氏殿にも逆らうこと。いずれ、日本に居場所がなくなると知れ!」

「尊氏に付くは帝に逆らうことじゃ。野蛮な武家が天下を争い、民は飢えて死んでいく。それが日本だと言うのなら、そのようなところで生きていきとうはない!」


 熊谷蓮覚は、息子の熊谷直村(くまがいなおむら)、甥の熊谷直統(くまがいなおかね)を連れて、三入を出た。

「行くぞ、我らの梁山泊(りょうざんぱく)へ!」

 仏門の弟弟子で「福(ふく)王(おう)寺(じ)の仁王」と異名される阿蓮(あれん)と運蓮(うんれん)が、蓮覚を慕い、僧兵の姿でついてきた。

 三入から矢野への道行き、近郷近在のはみ出し侍が、ゾロゾロと合流してくる。「熊谷に蓮覚なる剛毅の者あり」という噂は、惣領制に不満を持つ周辺諸家の分家衆にも知れ渡っていた。

 その数、ざっと四十人。しかし、さすがにこの人数では守護武田軍には敵わない。志を同じくする幼馴染みに頼んで、天皇派の武将が多いと聞く伊予(いよ)に伝令を飛ばしてもらった。安芸と伊予を軸に中四国の同志を集めれば、西国ではちょっとした反抗勢力が成立するであろう。

 そして、その勢力を集める「梁山泊」として選んだのが矢野であった。梁山泊とは、中国四大奇書の一つ「水滸伝」に登場する百八人の英傑の拠点である。主人公たちが帝を支える反乱者という点でも、蓮覚の立場と一致する。


 蓮覚は、眺め遥けき矢野の山の頂、大岩の上に立つ。東西南北を眺めながら言う。

「いや絶景かな絶景かな! この『天然の要害(ようがい)』をもって、我らの梁山泊とする!」

 蓮覚は、この日が来ることを予測し、数年前から土地を物色していた。そして、この地を適地とし、山の中を調査していた。その際、直村、直統も同行していた。

「父上。ともに、安芸国の山を山ほど歩いたが、何故、この地を選ばれたのか」

 蓮覚の末子、熊谷直村、十八歳が尋ねる。長身の優男は背に長刀を負っている。その母、つまり蓮覚の妻は、この子を産んですぐに、疫病に罹り他界した。

「直村、まず、海を見よ。厳島(いつくしま)、仁保島(にほじま)、衣田島(えたじま)、波多見島(はたみじま)。ここなら、敵船が行くのをいち早く察知できよう」

「まこと。三入高松城や佐東銀山城からは見えぬ景色であるな」

「次に、陸を見よ。西国街道の峠道、佐東の川の大干潟、佐西の浜。目を凝らさば、その高松城や銀山城も見えるぞよ」

「しかし、叔父上。お供して歩いた山の中でも、この山は険しさに欠け申す。攻められたら脆(もろ)うはござらぬのか」

 今度は、甥の熊谷直統が聞く。父がそうであったという二刀流の使い手を目指し、腰に二本差しである。十数年前、佐東川とその支流が大雨で氾濫し、流域に大きな被害を生じた。蓮覚の弟夫婦も濁流に飲まれ、奇跡的に助かった幼子を引き取った。疫病と水害で多数の肉親や知人を失ったことが、蓮覚の出家入道の動機となった。不憫な弟の子直統には、同い年の我が子直村と同様の愛情を注いだ。

「カッカッカ。直統、険しければよいというものではない。いくら攻め難うても、険し過ぎれば味方が動き辛うなるではないか」

「なるほど。敵の攻め難きは、味方の動き辛しにも通じるのでござるな」

「さよう。それがここは、敵に攻め難く、味方に動き易き地形なのじゃ」

 今度は大入道の阿蓮と、さらに長躯の運蓮が聞く。二人とも薙刀の使い手としては相当の手練れ。「仁王」と恐れられるとともに、料理上手の大食漢であり、「福王寺の食いしん坊」とも親しまれている。

「兄者。つぶさに教えてくだされ」

「如何に地の利を生かすべきや」

「矢野の地形は、山陽路には珍しく北が海である。そのことだけで、他の地の者には方角を失い易い。そして、南に三つの峰を背負い、その狭間は急峻な谷。この三山二谷(さんざんにこく)は自然の城郭となる」

「おお、まこと。三つ峰の中の山に砦を築けば、東西の山はそのまま城壁となりますな」

 兵法に通じた蓮覚は、四人に地形を生かした戦法を伝えた。そして、急造ながら、中の山に砦と櫓を構えた。これが矢野城の始まりである。


 守護武田家、熊谷惣領家は、三日のうちに蓮覚討伐に動いた。これを始末しないと、安芸国を空けることができず、足利尊氏の戦いに出遅れ、手柄の機会を失うのだ。

 天然の要害とはいえ、いくつかの細工は必要である。矢野城の完成はほど遠い状態、簡単な防御設備も整わぬうちに、麓を五百の兵に囲まれた。迎え撃つのはわずか三十人。伊予に送った伝令が援軍を連れて戻るまで、もう少し時間が欲しかったが、こうなることも覚悟はしていた。

 建武二年(一三三五)十二月二十三日。太陽暦では二月上旬にあたる寒い日である。蓮覚は直村、直統、阿蓮、運蓮を集めて語る。

「城に迎え撃つ戦を籠城戦という。援軍が来るまで持ちこたえるか、兵糧攻めに遭い餓え死ぬか。我ら、今はまだ援軍の見込みも乏しい。さらば、今すぐ逃亡するか、降伏するかになるが、いずれも潔からず。生き延びても惨めな未来しかない」

「しからば如何に」

 強張った声の直村に、父は笑みを浮かべて答える。

「勝ち目のない絶望的な戦いをしていると思わせるのだ。籠城戦と見せかけて、野戦に持ち込むのだ。敵の油断は最大の味方である。窮鼠と見せて猫を噛むじゃ」

 蓮覚が具体的な作戦を授ける。三十人を、司令部の「蓮覚隊」五人、機動力の直村・直統「従兄弟隊」が十人、パワーの阿蓮・運蓮「仁王隊」十五人に分けた。

 守護武田軍は蓮覚一党を半日で捻り潰すつもりであったが、苦戦を強いられる。降伏を促そうにも姿が見えない。砦に迫ると、薮の中から石(いし)礫(つぶて)が散弾となって飛んでくる。大木が倒れてきたり、猪の群れが飛び出してきたり。そして、静かになる。伏兵戦に翻弄され、二日、三日と過ぎた。攻め手側は重要な家来も失ったが、蓮覚一党は無傷のままである。

 蓮覚は、この戦いを一旦凌いで、次までに援軍も得たいと考えていたが、増強されたのは敵勢であった。四日目に守護武田軍は一千人に倍増された。もはや、ゲリラ戦法は通用しない。最善策は逃亡である。しかし、逃げてしまっては、安芸豪族が京都に行くことを止めることができないだけでなく、武士の生き様として潔くない。蓮覚はこの地形を生かして、いちかばちかの賭けに出る。

 大将たる蓮覚自身が囮(おとり)となり、敵を西の谷に集める。

「やあやあ、我こそは熊谷四郎三郎直行、入道蓮覚なり。守護武田家、熊谷惣領家の天皇討伐に異議を立てて蜂起した。お主ら、どこの家のどなた様かは存ぜぬが、帝に刃を向けて反逆者となりたいのか!」

 などと、煽りながら後ろに下がり、敵を西の谷道に導き入れる。従兄弟隊が西の山に火を放つ。敵の半分は後退させられ、前進した半分は谷底に追い込まれる。仁王隊が、谷底に大岩を落とす。敵の被害は甚大と思われたが、数を頼りに谷から攻め上がってくる。

 最初に砦に上がった少数の蓮覚隊に、何人かの敵勢が対峙。その後ろに仁王隊が到着し、敵を追い払うが、望まない白兵戦になってしまった。仲間が次々と討ち取られていく。視界に従兄弟隊が現れた。これも大群に追われている。

「退却!」

 蓮覚の号令。砦に火を放って敵の進軍を遅らせながら、東の谷を下った。ここに、最後の作戦が仕掛けてある。急な谷に張った縄で敵を転倒させる。ここで敵兵の大半を倒し、谷合の平地に残党を集めて、尾根から攻撃をかけるのが作戦だった。

 しかし、敵は想定よりかなり多く、味方はもはや、先頭を駆け下りた蓮覚、直村、直統、阿蓮、運蓮の五人だけ。その作戦は叶わない。ついには、敵を追い詰めるはずの谷合の平地に、自分たちが追い詰められた。

「皆、すまぬ! 勝ち目のない戦を挑むなど、最悪の選択をした。大将として失格である。多くの同志を死なせて、自分だけ逃げるつもりなどない。もう少し、暴れたかったが、もはや、これまでじゃ。せめて美しく散りたい」

 季節外れの蝶が舞う中、討死の覚悟を決めた。


 人間(じんかん)五十年化天(けてん)のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり…


(二)時の穴 (A2026)


 滝の岩肌の扉が開き、光の中から弥生少年と戦国姫が歩み出た。

「タケリノタキニテタケリーチ、キクティーピコノマエーニ、プターピ、トキノアナーパピラキーチ」

 滝の水が少ないせいで、岩肌に出入口が見えてしまっているため、五十六年前ほど神秘的な感じがしない。初体験の武瑠は固まっている。

「待って待って!」

 先生は、リュックからタブレットを取り出した。

「古代語研究会が開発した弥生日本語翻訳アプリをインストールしてある」

 電源を入れて起動するまで、十数秒ではあるが、微妙な雰囲気になる。

「わ、圏外か。でも、大丈夫。オフラインでも動くようにしてきた」

 先生は独り言を言い、そして、タブレットに話しかける。

「ホホエミ彦、もう一度言ってください」

 一秒も置かず、音声が流れた。

 ―ポポエミピコ、イマピタピ、ノリタマペ。―

 恭しく現れた二人だったが、翻訳アプリの音声に驚いて、目が点になっている。中世人よりも、古代人の方が不可思議への順応力を持っているようだ。ホホエミ彦は、タブレットの音声に応えて、同じ言葉を、なぜか小声でゆっくり話しかけた。

「タケリノタキニテ、タケリチ…」

 ―タケリの滝で叫んだ、キクチヒコの前で、再びトキの穴は開きました。―

 同時通訳レベルの速さだが、抑揚がない。

「おお、通じたんだ!」

 揚羽にはそもそも、物が喋るということを理解できない。

「付き添いの御仁(ごじん)、その鏡のようなものが、通弁(つうべん)をしておるのか」

「付き添い? 私が菊池時彦ですが…」

 揚羽は子どもの方を菊池だと思い、大人の方は付き添いだと思っていたが、間違いを指摘されて、時間が経過していることを理解した。

「さようであったか。菊池殿、年を取ったの」

「揚羽姫、お久しぶりです。あなたとホホエミ彦はまったく変わらないというのに」

「わらわにとっては久しぶりなどではないが、まことに五十六年が経ったのじゃな」

「あそこは昭和四十五年、ここは令和八年という時代です。このアプリ…いや、通弁の鏡は、今年出来たばかり。五十六年先まで来たことには意味があったようです」

 先生はカタカナ言葉を避けたが、揚羽にはあまり理解できていない。子どもの方に目を落として言う。

「では、こちらのお子は?」

 めちゃくちゃ綺麗なお姫様に声を掛けられて、狼狽する武瑠。

「僕? い、伊藤武瑠です!」

 ホホエミ彦も翻訳アプリを聞いている。そして、また、小声で話しかけた。

「イチャマチーキナナーリ。タケルーピコ、マタトモーニユカーム/勇ましい名前ですね。タケルさんも一緒に行きましょう」

「現代語の女の声では、拍子抜けするな」

 先生は、出力モードの設定を「現代日本語/女声」から「中世日本語/男声」に変えて、リピートボタンを押した。

 ―タケルとは勇ましき名なり。タケル殿もともに参られよ。―

「これでは戦国武将だ。どうも、ホホエミ彦らしくない」

「通弁鏡、わらわにはむしろ分かり易いぞよ。このお方の言葉はピコピコチャプチャプと意味が分からぬ」

 武瑠が不思議に思って恐る恐る聞く。

「じゃあ、今までどうやって話してたの」

「話などにはなっておらぬ。不思議なことに口を開くことなく、思いで伝えてこられるのじゃ」

「それは五十六年前に私も感じた。精神感応、テレパシーか…」

「トキトゥカミーノ、ミティピーキ/時ツ神の導き」

 ホホエミ彦はそう言った。「時ツ神」とは「時間の神様」という意味なのか、それとも、固有名詞なのか。

「やはり、神の使いであらせられるのか。毛利が攻めてきた一大事の今日、神代(かみよ)の男子(おのこ)に救われ、未来人に通弁鏡を見せられた。まったく現(うつつ)のこととは思えぬが、もはや、何が起きても驚かぬぞ」

 毛利の襲撃からホホエミ彦に救われて、すぐにここに来たらしい揚羽、全体の事情を把握しているわけではないようだ。

「突飛な物語に巻き込まれているのは、私も同じことです」

 ホホエミ彦はさっき、「タケルさんも一緒に行きましょう」と言った。

「あ、この子は行きません。って、私は行くのかしら。で、どこへ」

 先生は五十六年前から巻き込まれているわけだが、「この物語は終わったわけではないのか」と思った。

「菊池殿には来てはもらえるのか。わらわの時代へ」

 美しい姫は切なげに問いかけた。

「もちろん行きます。参ります」

 先生は魔法にかかったように返事をした。

「僕も行く!」

 もう一人も魔法にかかっていた。

「武瑠君はダメだ。みんなが心配する」

 先生に窘められるが、聞かない。

「行く!」

「ダメ!」

 気が付くと、滝の岩肌に見えている出入口の大きさが半分くらいになっている。

「タキノアナガートズ、イデ、アゲパーピメノヨニユカーム/滝の穴が閉じる。いざ、揚羽姫の代に行かむ!」

 焦ってバタバタと出入口に走り込んだ。


 令和八年の多祁理の滝から、ホホエミ彦、揚羽、先生、武瑠が飛び込むと、穴が閉じた。外で叫ぶと開くらしいが、どうなったら閉まるのか、仕組みはよく分からない。

「武瑠君は来ちゃダメと言ったのに!」

「来た!」

「劣勢の戦場(いくさば)に向かうのじゃ。命懸けとなるやもしれぬぞ」

「仕方ない。武瑠君は先生が守る」

「ウレプナカーレ。ナラパアガモール。アパトキトゥカミーガモリタマープ/憂うことはない。お主らは我が守る。我は時ツ神が守ってくださる」

 ホホエミ彦は感情を見せない。それがかえって、心強く感じさせる。

 光源が何なのかは分からないが、洞窟内は薄明るい。揚羽が被衣(かづき)を取ると下は、地味な作務衣のような服。細身の袴は泥だらけ。懐から取り出した鉄製の鏡を洞窟の壁に立てかけて、髪を後ろに束ねた。そして、お姫様らしからぬ様相の言い訳をする。

「夜が明けたら、毛利軍が目前に迫っておった。家臣一同、父上に逃げるように言われ、わらわはこのような恰好で逃げた。この被衣は母上が、十五の祝いに仕立ててくださった大事な物。わらわはこれとこの鏡だけ、城から持ち出した」

 被衣とは頭から被る羽織である。揚羽の被衣は鮮やかな黄色で、ギフチョウの翅のような黒い縦線がデザインされている。

 武瑠は、汚れた服をあまり見られたくないという乙女心を察して、天井を見ながら話題を変えた。

「この洞窟は何?」

「わらわにも分からぬ。滝の前で敵に見つかり、もはやこれまでかと、金毘羅(こんぴら)権現(ごんげん)に助けを求めた。すると、滝からホホエミ殿が現れて、見事な弓矢で敵を倒し、この洞穴に匿うてくださった」

 表情のないホホエミ彦が、少し照れくさそうな顔をしている。

 五十六年前の九歳の少年は、戦国姫と弥生少年の関係について詮索することはなかったが、大人になって今見れば、不思議である。この二人は出会ってそれほど時間が経っていないようだが、その割には親密。先生は、長年の片思いの君に彼氏がいたことを知ったような嫉妬を感じ、「思念でマインドコントロールしたのではないか」とやっかむ気持ちが湧いた。

 先生も話題を変えた。

「毛利が矢野城を攻めたのは、ここから四百七十一年前の出来事になります」

「ここはそのように遠い未来ということか…。わらわにとっては、つい先ほどのこと」

「タイムリープしたんだ」

 少し慣れてきた武瑠が揚羽に質問する。

「二人はどうやってここまで来たの」

 揚羽は、穴の中の出来事を振り返る。

「ホホエミ殿の手本に習い、石を置き置き、呪文の回数を数えた。一万六千回で滝から出ると、子どもの菊池殿がおった。そこから二千回で、年を取った菊池殿と子どもの武瑠殿がおった。合わせても、一刻半(いっときはん)ほどのわずかな時間なのじゃ」

「呪文の回数で、移動する時間が決まるのか」

 武瑠は次にホホエミ彦に聞く。

「ホホエミ彦は、なぜ揚羽姫を助けに来たの」

 それは揚羽も知りたいこと。

「アガカパネーパ、カミノコトキクカパネナーリ/我が一族は、神の言葉を聞く一族である」

 「シャーマン…」、独り言。

 ホホエミ彦が初めて雄弁に語る。

「トキトゥカミーガ、ピラコノミティピキーニ、チタカペートノリタマープ。カミカゼニプカーレ、アマニアポラーレ、ワタニウク、アキトゥノカターノ、チマミーチ。トゥティニオティタレーパ、ピラコイーデ、タキーニミティピカレーチ/時ツ神が『蝶の導きに従え』と言われた。神風に吹かれ、天に煽られ、海に浮く蜻蛉(とんぼ)の形の島を見た。地面に落ちたれば蝶が現れ、滝に導かれた」

 揚羽はホホエミ彦の肉声と通弁鏡の言葉の両方を聞いている。

「蜻蛉(とんぼ)のことをアキツと言うた。母上の名と同じじゃ。蝶々のことはピラコと言うた。『かわひらこ』のことであろう」

 武瑠は、キョトンとして「なぜ虫の話?」と聞く。

 ホホエミ彦が続きを語る。

「マタ、トキトゥカミーノコトキコエーチ。アナノナカニテ、イチョヨロカチョペタレーパ、アナヨリイーデ、ピラコノピメート、チョノカパーネチュクピタマペート/また、時ツ神の言葉が聴こえた。『穴の中で五十万数えたら穴から出て、蝶(ひらこ)の姫とその一族を救え』と」

 「蝶(ひらこ)の姫とはわらわのことか」。揚羽は嬉しそうに言った。

 「白馬の王子様か」。先生は悔しそうに言った。恋敵に完敗。

 話についていけていない武瑠が話題を変えた。

「ホホエミ彦はいつの時代の人なの?」

「確かにそれは知りたい。弥生少年などと言ってきたが、その衣装以外に根拠はない。弥生時代自体は千年以上あるんだが、五十万もの数を数えられるとすれば、その末期…直観だが卑弥呼の時代、三世紀の人ではないかな」

 先生はホホエミ彦に質問した。

「五十万もの数を、どうやって数えるのですか」

「トヲトタピニーテモモ、モモヲモモタピニーテヨロ、ヨロヲイチョタピニーテイチョヨローナリ/十を十回で百、百を百回で万、万を五十回で五十万である」

「十進法…それはそうなのだが、どうやって数える…」

 揚羽は、はたと気付いた。

「ここに来る折りに唱えておった『ぴぷみよい・むなやこと』とは、呪文ではなく、『ひい・ふう・みい・よう』と数を数えておったということか」


 世界の言語において、数を表す言葉は本来、外来語に侵されにくいものであるが、日本語の「いち、に、さん、し」は中国語起源である。大和言葉では「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ」、或いは「ひ、ふ、み、よ」となる。

「揚羽姫は、その十を一回として数えていたんだ」

「呪文十回で白石を置き、白石十個目の代わりに黒石一個を置き、黒石十個目の代わりに赤石一個を置き、赤石十個目の代わりに青石を置くのじゃ」

「桁の繰り上がり。やはり、十進法だ」

 先生は、指でカチャカチャと押して、交通量や鳥の数を数えるカウンターを思い出した。しかし、揚羽はこう言った。

「今思えば、これはソロバンの理屈じゃ」

「なるほど、呪文が一の位、白石が十の位、黒石が百の位、赤石が千の位、青石が万の位ということか」

「トキパカズーナリ。トキトゥカミーパ、アガカパネーニ、カズノミーティ、チャドゥケタマピーチ/時は数なり。時ツ神は、我が一族に数理を授けられた」

「文字を持たない時代の人にとって、数は数字という文字ではない。おそらく、頭の中で小石のようなものがイメージとして動いているのだろう。時間も確かに数である。石を置いて時間を進むというのは、現代人が時計の針をグルグル回している感じではなかろうか」

 武瑠から次の質問。

「この滝は、なにか特別な場所なの?」

 揚羽が答える。

「滝(たき)行(ぎょう)の滝じゃ。わらわの祖父野間興勝(のまおきかつ)が若いとき、登喜(とき)と名乗る修験者が現れ、ここで修行を始めた。修験者の言葉を聞き、祖父は矢野を栄えさせた。祖父はこの山一帯を修験場とし、会下(えげ)と名付けた」

「シュゲン?」

「真言宗などと結びついた山岳信仰、会下とはいわゆる山伏のことだ」

 先生が説明したが、武瑠には少し難しい。

「さよう。ちなみに、行者は陰陽師でもあり、占いに長けておった。その霊力を上げるために、陰陽道の太陰太極図(たいいんたいきょくず)になぞらえて、西の山谷に陰(いん)野(の)谷(たに)、明(みょう)地(じ)山(さん)と名付けたと聞いておる」

 先生が補足した。「太陰太極図とは、白黒の勾玉が合わさったような形の…」と言うと、武瑠はピンときた様子。「あ、陰陽マークだね。陰陽師は僕のゲームにも出てきたよ」。

「滝に打たれながら、金毘羅様の真言を唱えると、滝の後ろに穴でもあるかのように姿が消え、再び現れたときにご託宣がある。野間家では修験者を登喜の行者と呼び、謎の穴を登喜の穴と呼んだ」

「時の穴がタイムトンネルで、時の行者はタイムトラベラーか」

「祖父は、会下谷の川を挟んで向こうに絵下山(えげざん)真光寺(しんこうじ)、こちらに発喜山(ほきさん)鷹護寺(ようごじ)を建てた。普段は、向こうを会下堂(えげどう)、こちらをお鷹堂(たかどう)と呼んでおる」

「多家神社の多家(たけ)は、タカとも読める。お鷹堂、多家神社、多祁理(たけり)の滝…何か関係はありそうだが、いったい、どれが先なんだろう」

 反応したのはホホエミ彦だった。

「アガタケリーチユエ、タケリノタキートナドゥケーチ/我が叫んだゆえ、タケリノ滝と名付けた」

「あ、ホホエミ彦が名付け親? 『叫びの滝』という意味なんですね。しかし、弥生時代の名前とはものすごく古い地名だ」


(挿話二)揚羽の導き (A1555)


 天文二十四年(一五五五)四月十一日の夜明け。茶臼ヶ城からの狼煙が上がった。矢野城の居所に伝令が来た。

「毛利と思しき軍勢が攻め寄せております。昨夜の夜陰に紛れて近づき、すでに村境を越え、城は遠巻きに包囲されております」

 城主野間隆実は、一旦驚いた顔をするも、取り直して即座に号令した。

「ただちにここから逃げよ。分散して下山し、妣摺(ひずり)の屋形を目指せ。敵に見つからば、自害を覚悟せよ。しかし、くれぐれも言う。必ずや皆々、生きて集わん。見つかるな…」

 城にあったのは、隆実の妻と娘、家臣、侍女ら合計数十名。一人も見つからずに下山するのは、至難の業である。五人ずつのグループを作り、この城の者しか知らない獣道を下り始めた。

 姫は中盤、四人の侍に守られて城を出た。発喜山と絵下谷の間の中腹の細道を下る。

 一人が小声で「伏せて」と言う。息を潜めて、シダに覆われた藪に身を沈めた。

「敵の声が聞こえ申す。我ら三人が離れて気配を立て、ここから引き離し申すゆえ、姫は弥六殿としばしここに留まり、様子を見て先に進まれよ」

「その方らも、必ず無事でな」

 三人が分かれて、深い藪を遠くで揺すると、「何者かおるのではないか」という敵の声がはっきり聞こえた。その声は遠くに誘導されていった。

 姫とともに残った弥六が、シダからこっそり顔を上げて敵の後ろ姿を確認した。

「あの旗印は武田家残党か。だいぶ、遠くへ行き申した。この隙に先に進みましょう。拙者が少し先を見てくるゆえ、姫はここを動かず。すぐに戻り申す」

 弥六は屈んだ姿勢のまま、シダの中を走り下って行った。


 姫が一人で潜んでいると、黄色い蝶、虎揚羽が目の前に止まる。声が聞こえたような気がした。

「ここは危うし。此方(こなた)へ、此方へ…」

 ここを動くなと言われた。しかし、蝶が必死に呼び掛ける。姫は憑かれたように立ち上がり、蝶について行った。急に蝶がシダに隠れたので、姫も身を屈めた。

 先ほどまで潜んでいた辺りを、二人の敵が通りかかる。あのままあそこにいたら、本当に危なかった。

 蝶は、お鷹堂の裏の滝行の滝に、姫を案内した。すると、先ほどの敵兵二人が現れた。

「おったぞ! 女子(おなご)じゃ」

「もしや、跡継ぎの姫ではないか。捕らえれば、大手柄じゃ」

 蝶に憑かれて勝手に動いたことを後悔した。しかし、動かなくても同じだった。運命であると覚悟した。

 蝶が数頭に増え、激しく滝の前を往復する。滝に導いているような気がする。

 滝に逃げる? 祖父の時代に、修験者がこの滝を開き、金毘羅権現のご託宣を得ていたという話を思い出した。しかし、姫は滝を開く真言を知らない。話し言葉ではあるが、思いを込めて祈った。

「金毘羅権現、金毘羅権現、どうかお助けあれ!」

 滝の水が割れて、中から人が現れた。素早く二本の矢を一度に番(つが)え、ヒュヒュンと放つと、二人の敵の首を一撃。同時にもんどり打って倒れた。

 何が起こったか分からないまま、その姿を見ると、神代の衣装を着た少年である。少年は、岩を跳ねて姫に近づき、片腕でひょいと背負う。そのまま、岩を跳ねて元に戻り、水をくぐって滝の裏に入った。少し濡れた。そこには洞穴があった。

 不思議と不安を感じない。

「危うきところをお助けいただき、心より礼を言い申し上げる。其方様は、金毘羅様の使いであらせられるか」

「アガナパポポテミピコ」

 少年も言葉を発したが、神代の言葉なのか、姫には何を言っているのか分からない。

 すると、自分を指して「ア」と言い、姫を指して「ナ」と言った。

「ナノナパ?」

 姫は「お前の名は」と尋ねていると思った。

「我が名は揚羽」

「アパナノトモ」

 「我はお前の友」と言ったと思った。そして、目が合うと、微かに微笑んで見えた。心を包み込まれる思いがした。

「先ほど、我が名は微笑彦と名乗られたか」

 ―神の詔により、其方と其方の姓(かばね)を助けに参った。姓の行く末を聞くため、後の代に参るゆえ、ともに参られよ。―

 少年の思念が言葉ではなく、姫の心に入り込んできた。そして、姫がこれまでの出来事を思い浮かべると、少年は頷いた。

 姫と少年は同年輩に見える。姫は少年が神の使いであると知ったが、畏敬というより恋慕に近いときめきを感じた。山の中を逃げて、服が泥だらけなのを恥ずかしく思い、黄色い被衣を羽織った。そして、長い髪を解いた。

 蝶(ひらこ)の姫。その美しさを眩しく感じ、少年は目を伏せた。思念が交換され、お互いに初対面とは思えない、懐かしく切ない感覚に包まれた。

 少年は呪文を唱え、呪文十回ごとに石を置いた。姫はそれを見ながら手伝った。


(挿話三)時神の導き (A02XX)


 この世界は、空間と時間で出来ている。

 空間は天ツ神、時間は時ツ神が司る。この二神は、八百万(やおよろず)の神より上位にある別(こと)ツ神。いわば、神々の神である。空間に関していえば、大地が球体であることや、空のさらに上にほかの世界があることを認知している。また、時間についても、人間がいない過去があったことや、時の流れが一つではないことを予言している。神道とも仏教とも異なる世界観は、それらの教えが生まれるより、遥かな過去からきたものである。


 農耕や狩猟をするため、複数の血族集団が集まりムラとなる。ムラとムラが婚姻や戦争で統合され、クニとなる。クニとクニは争い、優劣により主従関係ができる。

 その一族は、ある有力なクニの最上位にある。つまり、王家。神の声を聴く家系とされる。

 王の四男サヌは、特にその能力に長けていた。サヌには時ツ神の声が聴こえる。その言葉を噛み砕いて民に説いた。大き過ぎる空間や時間の話など、民にとって何の意味があるのかと思う。が、神に質問をすることは許されていない。神から授けられた知識で、最も役に立つのは「数(かずの)理(みち)」であった。時間や距離、農耕の日取り、物の取引など、生活のすべてに「数」が介在する。これほど重要な知識はないと感じている。もう一つの得意技である弓矢は、数理を使った計算により正確さを生み出している。シャーマンであるとともに、天才的頭脳の持ち主であった。

 ある夜、夢枕に時ツ神が現れた。

「ヒラコの導きに従い、このクニの危うきを救え」

 時ツ神はそう言うと、頬を膨らませて、少年に息を吹きかけた。サヌの体は宙に浮き、空高く舞い上がった。

 時ツ神の声が聞こえる。

「しかと見よ。それが汝(なむち)の救うべきクニである」

 雲の隙間から下を見ると、海の上にアキツ、つまりトンボの形に並んだ、いくつかの大きな島々が見えた。

「大いなるアキツの島々…」

 「これがクニなるや」と質問をしそうになったが、神への言(こと)問(と)いは許されない。神の言うクニは、これまでのクニの概念を遥かに超える、広大な陸地全体のことであった。

 サヌは、地面に落ちる。寸前、何かに受け止められる感触があり、痛みも怪我もない。

 見知らぬ土地、黄色い蝶がひらひらと舞いながら、待っていた。蝶について行くと、良い竹薮があった。サヌは、そこで竹を取り、弓矢を作った。背丈ほどある長弓、強い弦。そして、何より、まっすぐで硬い矢竹。

「この地は、まこと良き『矢の里』であるな」

 独り言を言って、弓を引き、矢を放つ。ヒュンと一直線、先にある滝の水に飛び込んだ。蝶はその滝に導き、ここが目的地であることを知らせる。

「滝のヒラコに、祝言(のりとごと)を上げよ」

 神の声に従い、言葉を考えながら、呟く。

「此(こ)のヒラコ、彼(か)のヒラコ…」

「大いなる声にて、哮(た)けりて上げよ」

「かしこみ!」

 サヌは手を合わせ、叫ぶように言上(ことあげ)をする。

「此のヒラコ、彼のヒラコ。このクニを守り給え、栄えさせ給え」

 滝の水が分かれると、岩肌に矢が立ち込んでいた。その矢がはらりと落ちると、黒い穴が空いており、それが徐々に広がった。

「前に立ちて哮けり、その祈(うけ)ひが神慮(かみうら)に沿うならば、滝はかくの如く開く」

「哮けりて開く滝。この滝を『たけりの滝』と名付けよう」

 神から矢継ぎ早に指令が出される。

「その穴に入り、五十万を数えよ」

「かしこみ」

「滝から出て、ヒラコの化身たる姫を探せ」

「かしこみ」

「その姫の命と一族の未来を救え。それがこのクニを救う道である」

「かしこみ」

「今より、汝にホホテミの名を授ける」

「かしこみかしこみ申す」

「契りを守る限り、汝は必ず守られる」

「あなかしこ、あなかしこーーー」


(三)カウントダウン (A2026)


「穴やら滝やらの謎解きが長うなったが、菊池殿、そろそろ野間の行く末を教えてくれぬか」

 揚羽は焦れてきた。

「そうでした。私はそのために来たのでした。行く末の話に行く前に、そこに至る歴史からお話ししましょう」

 揚羽はカックンとなった。

「はや、そこは不要なのじゃが…」

 先生はファイルを開いて正座。扇子を持って膝を叩きながら、講釈師のような口調で話し始めた。

「時は鎌倉時代の終わり、足利尊氏は後醍醐天皇とともに幕府を倒した。しかし、自らが征夷大将軍となることを拒まれて、天皇打倒の挙兵。全国の武士がこれに応じた」

 武瑠が「まだ、習ってない」と言うと、先生は「六年生の教科書には、たぶん二人とも出てくる」と答えた。揚羽は知っていた。「安芸の武家の間では知られた話じゃ」。

「安芸国守護の武田氏も、足利尊氏を助けるために、配下の豪族に指令して京都に向かおうとした。可部(かべ)三入(みいり)に熊谷氏という豪族があり、これも武田氏に従うことになったが、分家の熊谷蓮覚が猛反発。武田軍の上京を阻むため、矢野を拠点に選び、反抗の狼煙を上げた」

 武瑠が「なんで矢野を選んだの?」と聞くと、先生は「いい質問だ」と言って続ける。

「海上が見渡せる絵下(えげ)、発喜(ほき)、明神(みょうじん)の矢野三山。その間の絵下谷(えげだに)、陰野谷(いんのだに)。この三山二谷は自然の城郭になる。建武二年、西暦一三三五年、蓮覚はここに砦を構えた。これが元祖矢野城。守護武田氏と熊谷本家は討伐軍を送る。反逆軍は四日をもちこたえたが、いかにも多勢に無勢、矢野の山の露と消えた。姫の時代から二百と二十年前のことである」

 揚羽が「三入の熊谷は母上の実家。今や毛利の忠臣である」と付け加える。

「それから、ちょうど真ん中の百十年後、天安二年、西暦一四四五年、室町幕府からこの矢野の地を領地に与えられて、尾張の野間氏がやって来た」

 野間氏の本貫(出身地)は知多半島で、百年単位の昔から地頭として安芸国に縁がある熊谷氏や毛利氏などに比べると新参者である。

「後発だが、この地にしっかり根を張り、すぐに他の豪族と肩を並べるようになる。最盛期は四代目野間興勝。音戸辺りまで勢力を伸ばし、城下町の文化、経済は栄えた」

 先生は豪族と言ったが、この時期の地方の領主は「国人(こくじん)」と呼ばれる。

「実は祖父自身も尾張から養子に来ておったらしい。矢野を美濃の岐阜のような町にしたいと言っておったのを、意味も分からず覚えておる」

「そうなんですか。それは書いてなかったな」

 武瑠が「ギフチョウの岐阜?」と聞くと、先生は「そうだよ」と答えた。

「ちょっと記録が混乱しているところがあるので、最初に確認したいのですが、揚羽姫の父上の名前は、野間隆(たか)実(ざね)と言われましたよね」

「いかにも、我が父の名は隆実じゃ。この地に任ぜられ、野間家は五代にわたり、矢野と領地の村々の繁栄のために尽くしてきた」

 先生は「なるほど。誇りある血筋ですね」と受けて、話を戻す。

「野間家五代目当主、隆実の時代に至り、日本は戦国の色に染まっていく。中国地方では、周防の大内氏が強く、安芸の武将の多くもその傘下にあった。やがて、安芸吉田の毛利元就が大内氏から離反し、策略でのし上がっていく。また、大内氏家臣の陶晴賢(すえはるかた)は謀反で主君を倒し、安芸の毛利と周防の陶が覇権を争うことになる。まさに下剋上の始まり」

 揚羽は頷きながら聞いている。

「野間は陶とも毛利とも仲が良かった。それが、仁保島の城を取り合う事件が起きたとき、野間が陶の味方をしたとして、元就は怒り、野間の討伐を決めた。仁保島は、江戸時代に埋め立てで陸封され、現代では黄金山(おうごんざん)と呼ばれている。その頂上には白井(しらい)賢(かた)胤(たね)という陶方の武将の城があった。前年、この城は毛利に攻略され、白井は逃亡していた」

 揚羽は悔しそうに言う。

「仁保島の件は、陶殿に騙されたと踏んでおる。白井殿に毛利の理不尽さを訴えられ、城奪回の支援を相談されたのじゃ。野間は両家の仲介をするつもりで、仁保島に向かうたが、陶殿が頼んでもおらぬ援軍を付けたために、元就は『野間が陶に寝返った』と怒ったのじゃ。陶殿が元就の腹づもりを探るために、野間を『試しごと』に使うたものと思うておる」

 先生が調べてきたことを揚羽の証言が裏付けた。

「野間氏が矢野に来て百十年、熊谷蓮覚の反抗から二百二十年。毛利の野間討伐、つまり矢野の合戦は、天文二十四年、一五五五年四月十一日。これがまさに、姫がこの洞窟に逃げ込んだ日…ですよね?」

「そのとおり。まこと、よう調べてくださったの。聞きたいのは、この後のことじゃ。野間家の行く末、わらわの未来」

 揚羽は身を乗り出した。

「はい、ここからが、私に出された五十六年間の宿題、野間家の行く末です」

「待ちかねたぞ」

 先生が再度、膝を正して、揚羽に尋ねる。

「三入高松城主熊谷信直というのは、揚羽姫の母上の父上ということで、合っていますか」

「いかにも、わらわのジジ様じゃ」

「そうですか。そのおじい様が、元就の使者として父上と交渉されます」

「ジジ様が仲介役を? どのような交渉なのじゃ」

「『毛利元就が、降伏すれば命は助けると言っている。自分がとりなすので、一緒に詫びに行こう』と伝えます」

「おお、ジジ様が助けてくださるということか」

 敵方の将とはいえ、揚羽にとっては親しみのある祖父である。その仲介の労により野間家が救われるなら、家族の遺恨も緩む、喜ばしい結末。

「いや。父上がこれを信じて降伏し、おじい様について三入(みいり)に行ったところ、槍で刺されて惨殺される。家臣も捕らえられて皆殺し。おじい様も元就には逆らえないのでしょう」

 先生の言葉に、一転、失望。揚羽は手で顔を覆い、深いため息をついた。

「まことか…ああ、なんと、惨い、惨過ぎる…。降伏すれば助命するのが、武士の情けである。ましてや家臣まで…」

 武瑠は怒った。

「毛利元就は広島のヒーローなんじゃないの? そんなに酷いやつだったの?」

「元就の三矢(みつや)の訓(おしえ)がサンフレッチェの由来。孫の輝元(てるもと)が作った広島城の別名が鯉城(りじょう)でカープの由来だな。そもそも、その広島城が広島という地名の由来だ」

 毛利家は広島の歴史にとって最も重要な一族である。武瑠は赤い帽子を脱いで握りしめた。

「半年後、元就は厳島の合戦で陶氏を破り、西国の覇者となっていく。跡を継いだ輝元は徳川家康と肩を並べる大大名(だいだいみょう)となり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将。戦いには敗れたものの、毛利氏は徳川幕府でも大名、明治政府では貴族として絶えることなく栄えた」

 関ヶ原の戦いは四十五年後のことである。毛利輝元も徳川家康も生まれてはいるが、まだその名はない。徳川幕府や明治政府という言葉も知るはずがないが、野間滅亡後、残酷な毛利が繁栄していったと知り、揚羽は歴史の非情を悔しく思った。

「神も仏もないものか…」

 ホホエミ彦も憤った。

「カクノゴトキ、アチキカパネーガ、チュエナガーク、チャカペタトノルーヤ。コノクニーノ、チャキパエーノタメ、アガモーリコラーチュ/そのように悪い一族が末長く栄えたと申すか。この国の繁栄のため、我が毛利を懲らしめる!」

「騙さなければ騙される戦国時代。野間の殿様は人が良かったんだろうね」

「父上は仲間を騙すようなことはせぬ」

「アカキココローナリ。アパノマヲタチューク/赤き心である。我は野間を助ける」

 ホホエミ彦は「蝶の姫を救う」という使命の意義を感じた。

「野間の跡継ぎの若君は討たれ、逃げた姫君は大屋の滝から身を投げた」

「もしや、姫君とはわらわのことか。あの滝は高うて、上に立つだけで足が竦(すく)む。落ちたら死ぬぞよ」

「身を投げるというのは、自殺したということでしょう」

「わらわは自害したのか」

「…そういうことですね。大屋の滝は、姫が摺(ず)り落ちたという意味で、後年『姫摺(ひめすり)の滝』と名付けられています。伝承には物語性を重視するあまり、事実ではないことも多分に混じっています。悲しき姫の伝説。日本人はそういうのが好きですから」

「悲しき姫などにはなりとうない。それと、『跡継ぎの若君』と言われたが、わらわに兄弟はない。わらわに婿取りの縁談、まったく気が進まぬ。が、死なばそれもなくなるということか…」

「そんな風に言わないでください。私の宿題です」

「すまぬ。先を…」

「そこからは、まさに伝説なんですけど、殿様の魂は姫君を探して、そして領民を心配して、巨大な火の玉となり、領地を飛び回った。『野間(のま)火(び)』というらしいです」

 揚羽の頭の中で、ざんばら髪の父の首が火の玉になり、長い尾を引いて、矢野の空を飛び回る。

「父上、おいたわしや」

「領民は心優しい野間の殿様を『のまん様』と呼び、いつの時代までも慕った。これは本当のことだと思います。実際、大正時代には五代の殿様の法要を、盛大に挙行したらしいですよ」

「民の幸は国の幸…野間の家訓」

「タミノサキパエーパ、クニノサキパーエ。ヨキコトキキーチ。アパタタチーキノマチュクーピ、アチキモーリコラーチュ/民の幸は国の幸。良い言葉を聞いた。我は正しき野間を救い、悪い毛利を懲らしめる」

 いい話風の結末になっているが、揚羽の様子は痛々しく、しばらく沈黙が続く。

 武瑠が拳を固め、立ち上がって言った。

「それを止めに行くんでしょ、戦国時代へ」

 これに、ホホエミ彦が応える。

「タケルーピコノノルマーマ。ピメノヨニユーキ、ピメノカパネチュクープ/武瑠彦の言うとおり。姫の代に行き、姫の一族を救う」

 武瑠はホホエミ彦に聞く。

「戦国時代へはどうやって行くの?」

 先生も疑問に思った。

「そうだ。数を数えたら未来に行くのでは? 過去にはどうやって?」

 ホホエミ彦は質問の意味を理解している。

「アゲパーピメノヨーカラ、ワラパノキクティーピコノヨマデーガ、ピチョムーヨロ、タケルーピコノヨマデーガ、プーヨロカチョペーチ。アパチェーテ、ピチョヤーヨロ。コヲチャカチャマーニカチョプール/揚羽姫の代から、子どもの菊池彦の代までが十六万、武瑠彦の代までが二万数えた。合わせて十八万。これを逆さまに数える」

 先生はちょっと感心したように言う。

「なるほど、逆にね。しかし、十八万も逆に数えたら、途中で間違えそうだ」

「チョカーラ、カチョペナオチャーパヨチ。アパ、イチョーヨロカチョプルマーニ、イクタピーモタガペーチ/そこから数え直せばよい。我は五十万数える間に何度も間違えた」

 揚羽は「え?」というような顔。

「間違えても大事はないのか。ここに来るまで、わらわは間違えぬよう、気が気ではなかったぞ」

 ホホエミ彦が懐から小石を取り出した。

「アガ、トコヤナムイヨミプピート、トナプーユエ、アゲパーピメパチロイチオーキ、キクティーピコパクロイチオーキ、タケルーピコパアカイチオーク。アパアオイチオーク/我が『とこやなむいよみふひ』と唱えるゆえ、揚羽姫は白石を置き、菊池彦は黒石を置き、武瑠彦は赤石を置く。我は青石を置く」

「ああ、そうか。十から一だけを繰り返しカウントダウンして、それを一万八千回数えるんだ。それで、石の色で上の桁に繰り上がっていくのね。十進法のカウンターだ」

 先生は石に数字を書けば、分かり易いと思って、石を見せてもらった。マジックを出して、揚羽にも分かるように漢字で、一から零まで書こうとしたが、九個ずつしかない。

「あ、九個しかないんだ。やはり、揚羽姫の言うようにソロバンの理屈か」

 先生の思うソロバンは、上の五珠が一つで下の一珠が四つ。九までいったら、クリアして桁が繰り上がる。「しかし、昔のソロバンは、どうやって使うのかは知らないが、上が二つで下が五つだったはず。そもそも、日本伝来はいつなのだろう」と思う。

 武瑠はソロバンを見たこともない。

 この話に一番興味を示したのはホホエミ彦だった。

「チョローパノミーティ、チャドゥケタマーペ/ソロバンの術を教えてください」

「またいずれ。まあ、神様の儀式の意味もあるのだろうから、ホホエミ彦のやり方に従おう」

 実は先生も子どもの頃に、ちょっと習っただけで、ソロバンはすっかり忘れている。この話はなかったことにしようとしたが、ホホエミ彦に「カナラーチュ、チャドゥケタマーペ/必ず教えてくだされ」と念を押されてしまった。


 四人で数え始めたが、数を逆に唱えることには慣れていないらしく、ホホエミ彦は結構間違える。何度もストップして、武瑠の集中力は切れて、揚羽は怒ったり笑ったり、かなりいい加減な感じになった。

 先生はリズムを付けて声を出していれば、数えるのは適当でよいということに気付いた。みんなで「とこやなむ」を一緒に唱えることにした。いつの間にか、万博の歌の「こんにちはー」の節になっていた。

「とこやなむー、いよみぷぴー」

 四人の間に連帯感が生まれ、スムーズに動きだした。

 過去は下にあるらしく、ふわっと浮かぶような軽い逆(ぎゃく)G(ジー)を感じる。登喜の穴は時間のエレベータ。滝の水と岩肌が扉になっており、長いタイムトンネルの縦穴を、洞窟がケージのように上下する。

 タイムトンネルの中の移動時間は、外の時間では計れない。一瞬で年単位を動くのだから、ほぼ止まっているに等しい。とはいえ、体感的な時間は経過する。「とこやなむいよみふひ」、二秒で十数えるとすると、十八万は九千秒。二時間半になるが、何回も休憩したので、倍くらいの体感時間だった。

 十万の石が一個、万の石が七個、千の石が九個、百の石が九個、十の石が九個。先生がそこで、一旦止めた。最後のテンカウントは全員で声をそろえた。

「十(とー)、九(こー)、八(やー)、七(なー)、六(むー)、五(いー)、四(よー)、三(みー)、二(ぷー)、一(ぴー)」


 この後、武瑠と先生が叫んだ。

「ゼローーーーーーー!」

 何かが壊れたのか、洞窟ごとグルグルと回転している。

「わーーーーーー!」

 凄まじい風が吹き、水しぶきと無数の蝶に包まれて、揚羽と武瑠は滝の外に押し出された。

「何がどうなっておるのじゃ!」

 洞窟の空間は、先生とホホエミ彦を乗せたまま、落ちて行った。姫の黄色い被衣(かずき)と少年の赤い帽子も持っていかれた。

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