昏睡と覚醒のナルキッソス
ぜんこうばしくわう(繕光橋_加)
本文
善いものと悪いもの。どうやら思いにはその二つがあるらしい。濃淡はあれど、ねらいがあり、わざがあり、結びがある。この結びがまた、次の豊かさを遊び込んだり、前へと進む意欲につながったりして、いろいろである。即ちそれならば、神様は黄金の稲穂をご覧になって、美しいとお思いになるだろうか?
神様は天におわし、我々をお創りになったと言うじゃないか。絶えず愛を以て、地上に生命の息吹を吹きかけ、地上の自然を通して私達に語りかける。かくも美しすぎる地上を、主なる神はご配下なされた。すなわち、自然もまた私たち人類と共に被造物であり、神によって生み出された兄弟だ。
……自然、だってさ。
人間に飼われる羊がいて、牧者がいる。無垢なる子羊がいて、牧師がいる。司祭は牧杖を持っている。アブラハムの系譜が、地上で最も繁栄した種族、地上の支配者でもある人類を、神という外的な体系で統率しようとしたのはまさしく天才的だった。もしそれがなければ私たちは、倫理というものをみなバアル的にとらえるだろう。倫理とは「追いかけなければ幸せになれないポラリス」か、「それぞれに内在されているランタン」か。その対立は数千年経っても決して明峰の見えぬ幻影だ。
アベルの一派がそれほど争ったなら、カインらはどうだった?土を掘り返しながら、田畑を開き、多くの生き物を犠牲にしながらこの田園風景を生み出した。何千年も昔ではない。それは私達の、ほんの数世代前の先祖の流した汗であり、史実なのだ。
六月十日、彼女は来た。
JR旅客線の小綺麗な駅で、その線の細い姿が見えたとき、五年ぶりという再会の感動はさして芽生えなかった。ロマンスもへったくれもないのは、多感な学生時代を過ぎた大人になって後に、私達は別れたからだろう。
時の流れは、さながら淀む川のように加速と減速を繰り返す。この梅雨の時期だ、濁った水がごうごうと音を立てているのを見ると、その勢いについ押されてしまう。自然の力強さに比べて、随分と弱々しく、都合をつけやすい。
「きゃーーっ、、久しぶり!ミカ!!」
「あ、ユリ!!ヒサシブリ!!元気だった〜!?」
相手のテンションに合わせてこちらも喉から黄色い声を出す。これくらいの愛嬌は私にだってある。意図的に声質を変え、相手への好意的な表現に紐付けながら、自分の心もまたその形を変質させる。まるで粘土をこねるように。
「悪くないよ。全然変わらないね、ミカは。」
「……ユリもね。」
「そうかな!?大人っぽくなった、とか、素敵、とか思わない!?」
「……大人っぽく素敵になった。」
「なんそれ。」
彼女は冷ややかな私を美しく笑い飛ばした。オーシャンブルーのジーンズに、フリルがシースルーを上手く隠す、涼し気な白のシャツ。編み込みから覗く彼女の肩周りの肌は、小麦色のヤマトナデシコ特有の品を底上げし、柔らかな皮膚であることを目に訴えかけてくる。
積もる話は、車で聞こう。どうせ移動は車がメインだ。整備されたコンクリートを走るハイブリット車。閑散とした国道。夏の嵐がいつ来てもおかしくないこの空の下で、車は走り続ける。
「わあ……何にもないねえ。」
助手席から、彼女は子供のような声を上げた。ハンドルを握る私は苦笑した。
彼女の言うことは間違いだ。目の前には、青々しい緑の苗床が広がっている。見渡す限り、一面の緑が地面を制圧している。この空間そのものが、人類中心に食糧需要を設計し、量的で前進的に供給するための策略である。
耳に届かない悲鳴。
多くの動物や微生物を殺害しながら、生み出された「田畑」とは、事件性を伴いさえする、人類史上最も原始的で基礎的な人工媒体だ。これこそが豊かさの基礎であり、文明の始まりなのだ。
しかし彼女の言う事も分かってしまう自分がいる。「何もない」。それは恐らく、私もまた都会から帰ったならそう言うだろうから。
風になびく稲は、深い緑の葉を揺らしながら、清らかな水を浴びる。なぜ美しいのだろう?いや、「なぜ私達は、青い稲を見て、美しいと思うように進化してきたのだろう」。美しさを見出す私たち自身への問いかけが、いつだって私たち自身を造り続けているのである。
六月十一日。ようやくユリは起きて来た。
旅の疲れもあると見て、私は何も言わない。活動は午後からでいい。空はぐずついて、空気も湿っぽかった。午前中から肌がじんわりと濡れるのは、どうにも気色が悪い。
子供のような彼女は、さも満足そうに「起こしてよう〜」と不平を言い、私は微笑みながら「おはよう」と言う。
「もうほとんど昼だぞ。朝飯待ってるんだけど。」
「ねえ、ミカ。知ってる?日本にもあることわざ。」
「何?」
「ホワイトライスという学者曰く、『東洋のおかずはすべて、白米への注釈に過ぎない』。」
それはちがうぞ。
彼女はおちゃらけながら、ダイニングを通り過ぎ、洗面所に向かった。頭にタオルを巻き、ピチャピチャと水の音を響かせる。私はゆったりとソファに腰掛けながら、パラパラと紙の新聞をめくる。ホームセンターの折り込みチラシをテーブルの上に静かに捨てた。テレビはなんとなくワイドショーを映しているが、誰も観ていない。
「ミカのお家は、相変わらずお金持ちだね〜。」
「まあね。両親が働き者だから。」
彼女に目もくれずに、 ぼんやりと新聞を読む。頭に入れるだけの渉猟。ただ情報が流れていく。休日は気だるげで、無為に時間を浪費しているこの無策っぷりを見た父や母は何と思っただろう。
ホットコーヒーを淹れたのは失敗だった。蒸し暑くてかなわない。湯気が鼻をくすぐるが、重々しく胃にのしかかる。
「あー。暑すぎ!ねえミカ。なんでこんなに暑いわけ?東京から逃げ出しても大して変わらないわね。」
「……なんだ、ファンデのノリでも悪いのかい?」
「うるさいなー。そんなに厚いメイクはしないよー。」
メイクは大事だし、メイクを褒めてもいけない。
メイクポーチにしまい込まれる化粧水。角柱形で淡いラムネ瓶のような容器が、カチャカチャとギャルい音を立てる。
「うん。……。この後モールに行くんだろう?それとも図書館にでも行く?」
「私、水芭蕉公園に行きたい。」
「……お、いいじゃん。」
驚いた。よくそんな場所を知っていたものだ。
「水芭蕉。あの、市の西端のとこにある場所でしょ?六月も入ってから大分経ったけど。今でも見れるんだっけ?」
「うん。」
ユリはまつ毛を整えながら、ややクールに返事をよこした。その声色。彼女はそれらを見にここへ来たことを滲ませている。ネットで調べてみると、まあまあ人気らしい。なるほど、私の家からも遠くない。
彼女は洗面所から現れた。オレンジにナツメグやブロッサムを合わせたコロンが、可愛く彼女の輪郭を追いかけていく。その様子は、意外性も何もない、彼女の影を私に取り戻させた。
ねぇユリ。あんまり私を置いていくなよ。
私の知る、学生時代からの彼女の姿は、年を経るごとに影を潜めていく。まるで手の届いていたものが、擦り切れ、失われていくように。かぐわしい花の香が、薄まり枯れていくように。
ふと、いま自分の目の前に立っている女が本当にユリなのだろうかと訝しむ。私は酒なんて飲まないが、しかしなにかの間違いで狐につままれでもしたのか?
白いうなじ。丸いあごの輪郭。どう見ても彼女は彼女でぼんやりと私は彼女を見ている。
「なに?食い入るみたいに。」
「ああ、ごめん。車出すから、早くご飯食べようぜ。」
「ええ。……。食い入るのは、朝ごはんだけってことね。」
「はあ。そういう、前向きなところも好きよ。」
うってかわって、彼女はガキっぽくにやりと笑った。私は目を逸らして受け流す。ダイニングに並べた、米と、みそ汁と、チャンプルー。すっかり冷えてしまったと思ったが、わずかに熱が残っている。
私たちは、山間を走る。ゴツゴツとした山の斜面が右手、渓流が左手だ。黒い岩肌に、行政が金網をかぶせている。道路を守るため、頑丈な覆いが屋根となり、トンネルのように日陰を作っている。そして渓流の向こう岸には、やはり鬱蒼と植物たちが茂っている。
いくつもいくつも、錆びついたトンネルを抜けていく。誰かが安全に作った道。街と街をつなぐための道。交易を目的に切り開かれたそのアスファルトは、私たちの車が進むための確かな足場だった。
左手で、唸るような川が風を受けた。水流がうねりながら身を伸ばす。枝を伸ばした木々は、枝先の葉だけをちらちらと振りながら、私達を誘う。
「水の音が涼しげだねえ。」
「ね。当たりだね、この季節。」
件の公園には程なくたどり着いた。必要最小限の整備だけがされている。駐車場は砂利を引いただけだ。階段の下にはウッドデッキが組まれ、数人の観光客が散らばっていた。
「……、きれいだ。」
「すごい。ユリはここには初めて?」
「うん。」
小さな窪みとなった谷間に、白い花弁がポツポツと咲いていた。私の遠い記憶では、沼地に咲いていたような気がしたけど、泥は泥でも水が張っていない。乾いた藁が土の上にかぶさっている。
まるで田んぼみたいだ。でもこの花株は、人間の手で植えられた命ではない。ただここで生き、そして枯れて死んでいくのだ。この水芭蕉にとって、白い姿でいるのは僅かな命の、更に一瞬のことだ。
トコトコとデッキに足音を立て、ユリは進んでいく。私は周囲の人々を見た。おじいさんも、おばあさんも、おっちゃんも。誰もが花の美しさを称賛していた。私はユリを追いかけながら、人々の穏やかな時に何を思ったろう。
不意に、ユリが止まった。後を歩いていた私はつんのめって止まる。
「おとと。どうした。」
「……私、水仙と間違えてたかも。水芭蕉。」
「は?」
いきなり何を言い出すんだ。水仙は黄色い花で、水芭蕉は白い花だ。まあどちらも似た環境に咲く花だし、コメントしようにも。彼女が言うには、その色の違い一つ異なるだけで、驚くべき事実だったようだ。
「それでもきれいじゃない?水芭蕉。」
「うん、水仙以上だった。」
「そ、そうだよね。私は気に入った。」
「見て、あのコたち。」
白い花が、ぼんやりと揺蕩うように咲いていた。それはいくばくか自信なさげにも見えたが、妙に目立って、まるでゴーストのように揺らめいている。自然に生きる生命。決して人間と交わることのなかった、ワンシーズンの存在だ。
決して人間の茶々を受け付けない。語りかける言葉も、紡ぎ出す物語も何も無い。己の美を決して誇ることをしない。力強く、野や水源に咲いているのでもない。彼らは人間から目撃されることを避けていた。その姿は、醜く抗うことさえもできないほどの弱さのまま、空を憂えているのだ!!
私達は、目撃することによって、彼らのその在り様を失敗へと仕向けていた。
存在の対立。私たち人間は、彼らの美しさを歓迎する。それはイネの稲穂のように、たわわに実った豊かさを讃えることととそう違わない。見いだされる美しさに差異を設けない。だが、だが。
谷間に隠れて住んでいるのを暴いた、私達人類の酔狂な行いが、動かぬ彼らの営みの全てにべたべたと触れることに他ならないのだ!!
「綺麗だね。」
「……そうね。」
「撮っていこうよ。」
「ええ。」
私達はスマホを空に掲げ、青白い顔を画面に二つ並べたが、しかし遠く小さすぎるその花が、一緒に映ることはなかった。望遠レンズで捉えると、奴らはいよいよその姿を歪め、決して私たちに捕まえられることはなかった。
「あはは、記憶に焼きつけるしかないんだね。」
彼女の笑顔には、寂しさはなかった。移りゆく時の流れの中にいる中で、振り返ることを通してしか手に入らないものがある。
美しいとは何だ。
六月十二日に、彼女は帰っていった。なんでもない三日間の、ほんの一幕だった。しかし彼女も、私も、この涼しく、美しく、忌まわしささえ感じる一幕を忘れるには時間がかかるだろう。見送った私が駅から家に帰るとき、やはり一面の緑が風にそよぎながら凱旋する私に喝采を送る。
豊かな稲の実りよ、愛しい米よ。どうかこれからも私たち人類を、宜しく。
昏睡と覚醒のナルキッソス ぜんこうばしくわう(繕光橋_加) @nazze11
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