第2話 落書きの続きを

部活後の夕暮れのグラウンドには、もう選手たちの姿はなかった。

金属バットの乾いた音も、ボールを追う掛け声も、今はもう残っていない。

吹き抜ける風に砂埃が舞い、空にはぽつりぽつりと星が瞬きはじめていた。


僕は部室で、ぼんやりと帰り支度をしていた。

汗を吸ったユニフォームのシャツを脱ぎ、ゆっくりとボタンを留めていると、入口の戸ががらりと開いた。


「お、まだいたのか」


太田先生だった。

キャップをかぶったまま、手には書類の束を抱えている。

僕は少し驚いて、急いで背筋を伸ばした。


「びっ、くりした…帰ろうと思ってて」


「……なあ、ちょっといいか?」


先生は僕の隣にしゃがみ込むようにして座った。

汗のにおいがまだ漂う部室で、先生のシャツの裾がちらりと風に揺れる。


「お前の絵、ちょっと見せてくれないか」


「えっ、だからただの落書きですから」


「ちらっと見ただけだと余計に気になるんだよ」


僕はしばらく迷った。けれど、どこかで覚悟を決めていた。


リュックの奥からスケッチブックを取り出す。

鳥、空と雲、野球部員、教壇に立つ先生の後ろ姿――。

ページをめくるたびに、先生はどんどん目を見開いていった。


「これ……すごいな。めちゃくちゃ上手いじゃないか」


興奮気味に先生の声が弾む。

先生は無邪気で、子どもみたいな素直だった。


「ねえ、今度もう一回、俺の似顔絵も描いてくれよ。正面からさ」


いたずらっぽく笑うその表情に、僕は思わず噴き出しそうになった。


「……こんなの、誰でも描けますって」


先生はすぐに首を横に振った。


「いや、ちゃんと見て描いてる。落書きなんかじゃない」


僕はふっと息を吐き、そのままスケッチブックを突き返した。


「そんなに好きなら、先生が持っててください。俺が持ってると、まずいんで」


「まずいって、どういう意味だ?」


「別に、気にしないでください」


先生は、どこか納得のいかない表情をしながらも、黙ってスケッチブックを受け取った。



帰宅すると、リビングからテレビの音が漏れてきた。

缶ビールを開ける音がして、父の怒鳴るような声が続く。


「今度の試合、スタメン入りそうか?」


「たぶん」


「落書きなんぞにうつつ抜かしてたら困るからな。ちゃんと野球に集中しろよ」


「……ああ、大丈夫だよ」


吐き捨てるように言って、自室に逃げ込む。

ゴミ箱には、破り捨てられたスケッチブックのページが沈んでいた。



翌日、数学の授業が終わると、太田先生が僕の机に近づいてきた。


「真木、これ」


手渡されたのは数冊の本。デッサンの教本、ゴッホの画集、色彩の基礎を扱った入門書。


「学校の図書室で借りてきた。お前のスケッチ、見れば見るほど、もっといろいろ見せたくなってさ」


先生は、昨日預かったスケッチブックを僕に返す。


「絵、落書きなんて言うには惜しいと思う。俺は、いい絵だと思う」


僕は本とスケッチブックを受け取りながら、少し驚いた。


「……図書室に、こんなのあるんですね。考えもしなかった」


「あるんだよ、ちゃんと探せばな」


先生は笑って、また次の授業へと向かっていった。


その日の午後、僕は借りた本を夢中で読んだ。

授業中にもかかわらず、ノートの端に構図の練習を重ねた。

指先が止まらなかった。



部活中、ノックを受けて走ったとき、着地で足を強くひねった。

痛みで足が動かず、整骨院に運ばれた結果、軽度の捻挫だった。

一ヶ月の安静。


帰宅してそれを伝えると、父の声が一気に荒くなる。


「こんな大事な時期に、けがなんて情けない!」


「でも……医者が安静にって」


「ねんざしててもできることはあるだろう。野球部には顔を出しておけ。甘ったれるな」


「……ああ、わかったよ」


すぐに部屋に入る。


机のスタンドライトをつけ、ノートを開き、鉛筆を走らせた。

描いたのは夕暮れのグラウンドと、あの人の横顔だった。


でも、描き終わったその瞬間に、また破り捨てた。

それでも、絵の輪郭は、まだ胸の中に残っていた。

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ブルー・バイ・ユー @asuwa_tonbo

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