ルドヴィーコ1世の治世⑪

第十一節 サヴォイア王国によるジェノヴァ・フェラーラ戦役――沈黙は火を灯さず、征服の風は鞘を濡らして過ぎた


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火は灯されなかった。

だが、それは慈悲ではなかった。


剣は抜かれ、風のように進軍し、都市を囲み、砦を崩し、川を越えた。

王は吠えず、民は歌わず、ただ鞘だけが、静かに濡れていた。


帝国はまどろみから目覚め、フランスは沈黙を手紙に包み、

誰も声を荒らげぬまま、世界は一つの地図を書き換えた。


――そしてこの戦いは、語られることのない征服として、歴史に沈む。

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【開戦前夜 ― 王宮評定と記されざる文書】

 一四六五年十月三日未明。シャンベリの王宮では、戦争評定の火が夜を貫いて燃えていた。

 ルドヴィーコ王は長椅子に深く座し、会議卓の上に置かれた地図を見下ろしていた。戦場となるはずのリグリア海、ティレニア沿岸、そしてフェラーラの広がるエミリア地方。地図の上では国境も軍も、ただの線にすぎない。

「我らが今動けば、フェラーラとジェノヴァの両国を一挙に制圧できるでしょう。前戦で失われた兵の補充も終わっています。遅れれば、ミラノに先を越されましょう」

 軍政官マルコ・ダ・ルッカが声を上げた。彼はかつてリグリア方面の指揮を執った経験を持つ将校であり、戦果に飢えていた。

「北部イタリアに橋頭保きょうとうほを築くこの好機を見逃す理由はありません。両国ともに財政は疲弊しており、ジェノヴァは海軍力をもってしても、かつての光を喪いました」

 商務官フェリーチェが応じる。彼の報告によれば、オスマンとの戦役で東方貿易の利権を喪失したジェノヴァは、かつての威厳を失い、港町としての機能にさえ綻びが出ているという。

「だが……」

 静かに発言したのは、外交顧問トマッソ・ディンチーザであった。年老いた彼は書類の山を前に、あえて視線を王にではなく窓の外に向けていた。

「諸君、我らが正当性を持ち、武力を備え、経済的に有利であることは承知の上です。しかし、二つの戦役を終えたばかりであることも忘れてはなりません。民は疲れ、諸侯は猜疑さいぎを抱いています。そして……私は、何か、重要なことを見落としている気がいたします」

「顧問殿、予感で国策は定められぬ」

 そう返したのは、貴族代表のアデマール公であった。戦争を通じて新たな爵位と地所を得ようと目論む彼らにとって、慎重論は火に水を注ぐようなものだった。それでも王は、顧問の言葉に一瞬、表情を曇らせた。

 その夜、評定が解かれた後、王の執務机に一通の紙片が差し込まれていた。

―廃港は沈まぬ。

 灯火が絶えた港には、なお海図が残る。

 波間に浮かぶ忘れ物は、

 再び潮を呼ぶ者のもとへ戻ることがある。

 王はそれをじっと読み、黙って火鉢にかけた。燃え残った灰は、海図のような輪郭を残していた。

「……忘れ物、か」

 王の瞼が、かすかに震えた。

 そして翌朝、サヴォイアはジェノヴァに対し宣戦を布告する。


 まだそのとき、王も顧問たちも知らなかった。帝国から届けられることになる――重く、遅すぎた書状のことを


 十月三日、サヴォイア公ルドヴィーコ一世・デ・サヴォイアは、かつて一度戦火を交えた都市共和国ジェノヴァに対し、征服を正当化の名目として宣戦を布告した。この日未明、王宮より発せられた宣戦文書は、極めて端的かつ簡潔であり、かつての平和が口約束に過ぎなかったことを暗黙裡あんもくりに告げていた。

「リグリアに再び秩序をもたらすため、王国は剣を取る。かつての講和は尊重された。だがそれは、ジェノヴァがそれを保持していた限りにおいて、である」

 ジェノヴァは直ちに戦時体制をくとともに、同盟関係にあったフェラーラに対し、即時の参戦を要請。これに応じてフェラーラ軍が動員を開始したことで、戦域は北イタリア東西の両端に拡大された。

 開戦直後の各国の軍備は以下の通りであった:

サヴォイア連合軍(本国および属国モンフェッラート)

 歩兵一万七千、騎兵三千、小型船五隻、ガレー船五隻、輸送船七隻

敵軍(ジェノヴァ・フェラーラ)

 歩兵九千、騎兵千、小型船三隻、ガレー船五隻、輸送船六隻

 この数値上の戦力差は、初期段階の行軍方針を決定づける材料となった。王は即座にリグリア沿岸への展開を命じ、海上優勢を確保したうえでの内陸侵攻を図った。


【十月十二日】

 第一海戦 ― リグリア海の睨み合い

 サヴォイア艦隊は、制海権掌握のための第一歩として、リグリア海において小規模な敵艦隊と接触した。敵ジェノヴァ艦隊は小型船三隻を展開し、果敢に交戦を挑んだが、サヴォイア側は小型船五隻・ガレー五隻・輸送船七隻の陣容を維持し、整然たる戦列をもってこれに応じた。

 戦端は短時間で閉じられ、双方に被害はなく、名目的には引き分けに等しい結果であった。だが、事実上の勝者は明らかであった。サヴォイア艦隊は艦列を乱さぬまま敵を追い払い、以後、リグリア海の制海権を掌握した状態が維持された。


【十月十五日】

 アルベンガの戦い ― 初の地上戦における完勝

 王自らが命じたリグリア沿岸急襲作戦は、同月十五日、都市アルベンガ近郊にて成果を得る。同地に集結していた四千のジェノヴァ歩兵は、戦列の整備も不完全なまま、サヴォイア主力歩兵一万五千および騎兵三千の大軍に包囲された。

 戦闘は、開始から三時間を待たずして一方的なものとなり、敵は潰走かいそう。歩兵四千のうち、生還者はゼロであった。サヴォイア側の損害は、歩兵四五六にとどまった。

 現地より送られた報告には、以下のような記述が残されている。

「敵は散開し、後退し、道を見失い、丘に押し上げられ、渓谷に落ち、そして剣を受けた。武具は放棄され、旗は地に伏し、戦意は影のように消えた」

 この戦いにより、ジェノヴァ野戦軍の主力は壊滅し、同国にとっての主導権は早くも大きく損なわれることとなった。


【十一月十二日】

 フェラーラの戦い ― 東戦線における勝利

 ジェノヴァ戦線において優位を確保した王は、兵力の一部をフェラーラ方面へ転用した。この地では、敵五千の歩兵と千の騎兵が、ポー川下流域に陣を敷き、サヴォイア軍の進撃を迎え撃った。

 交戦に際し、サヴォイア軍は歩兵九八二四・騎兵三千を展開。陣形を崩さぬまま敵軍を包囲し、二日にわたる戦闘ののち、敵戦力は全滅。

 サヴォイア損害:歩兵五三九

 敵損害:歩兵五千・騎兵千(全滅)

 報告書の中には、戦後の様子を次のように記すものもある。

「戦が終わり、野に残されたのは兵ではなく、影と火薬と土くれの臭いのみであった。兵は死し、王の旗は動かず、ただ風がそれを映していた」

 この時点で、リグリアとポー川方面の二正面における敵戦力はすでに壊滅的打撃を受け、サヴォイア側の圧倒的優勢が確定的となった。

 この勝利の直後、サヴォイア宮廷では一つの重大な外交的決定が検討され始めていた。だがその判断が下されるのは、まだわずかに未来のことである。


【極秘外交記録 しょう:ジェノヴァ共和国およびフェラーラ公国による対外工作報告】

※以下は後年に、神聖ローマ帝国文書館およびフランス王室書庫、ジェノヴァ・フェラーラの都市記録院から発見された資料を照合・再編纂したものである。


■ 一:神聖ローマ帝国宰相府に対する秘密工作

▶ 背景と動機

 1460年末、サヴォイア王国がフェラーラ方面への進軍準備を進めているという報が、北イタリアの諸邦に急速に広まった。これを受けて、帝国領にして名目上の自治を許された都市であるフェラーラ公国と、同じくサヴォイアによる海上封鎖の危機に直面していたジェノヴァ共和国は、共同で帝国宰相府に対する外交工作を進めることで一致した。

 この動きは、以下の目的によって推進された

・フェラーラの帝国的地位を前面に押し出し、サヴォイアの侵攻を「帝国秩序に対する挑戦」として定義し直すこと

・ジェノヴァの名義を加えることで、単なる一諸侯の防衛要請ではなく、「二国共同の帝国的危機認識」として扱わせる狙い

・皇帝および帝国諸侯の「内政不干渉原則」を逆手に取り、“帝国領への侵犯”という明確な口実を発生させること

 なおこの時点で、ミラノ公国は事態を静観しており、明確な動きは見せていない。

▶ 帝国宰相府宛 極秘進言文(翻写・再現)

 至 神聖ローマ帝国宰相アントン・フォン・ライヒェンベルク閣下、および皇帝陛下の御覧にきょうす。我ら忠誠なる帝国の一角、フェラーラ公国は、近年増長著しい西方隣国サヴォイア王国の軍事的圧迫を受け、存亡の縁に立たされております。サヴォイアのルドヴィーコ王は、帝国の認証なきまま我が国境に兵を集め、戦端を開こうとしており、その動きは明確に帝国主権の空洞化を意味するものであります。我らは帝国の秩序をたっとび、過去数世代にわたり、その名の下に自治を許されてきた存在です。今ここで、我らの防衛がかえりみられぬのであれば、帝国の名は未来に何を保証できましょうか。よって、陛下および宰相府に対し、正式なる警告文と牽制の意志表明を、かの国王に送付されんことを切に望みます。

 この書面に、同意見を共有する都市共和国ジェノヴァの名を添えて申し上げます。

フェラーラ公 エルコレ1世・デステ

ジェノヴァ共和国元老院議長 オスヴァルド・マルケーゼ

▶ 帝国宰相府内での反応と動揺(記録断章)

 この文書は1461年1月3日に帝国宰相府に届き、当初は複数の帝国法制顧問官により次のような異論が提出された

「ジェノヴァはすでに帝国の保護領たる地位から離脱しており、その名が添えられることは帝国権威の一貫性を損なう」

「自衛権の主張としては理解できるが、外部封建君主の脅威に対しては原則として当該地域の統治者に初動が委ねられるべき」

 しかし、フェラーラが明確に帝国地図上に記された領邦であり、帝国議会で議席を有する存在であることに鑑み、そしてまた、サヴォイア王国の近年の拡張政策がライン方面にも警戒感を生んでいたことから、最終的に“形式的牽制”として書簡を送付する方針が決定された。

 宰相アントン・フォン・ライヒェンベルクは、1月6日の内部評議で次のように述べたと記録されている

「ジェノヴァは帝国から離れた。だが、フェラーラはまだ残っている。

残っているならば、それを護る意志だけは示さねばならぬ――我らの言葉が遅れた時、剣より早く帝国が崩れる」


■ 二:フランス王国への懐柔工作とその不首尾(修正版)

▶ 工作の内容と文面の過激性

 ジェノヴァ共和国は、サヴォイアによる海上進出が自身の港湾経済に及ぼす打撃を避けるため、フランス王国にも密使を派遣し、外交的支援を懇願した。当初、元老院の一部では「戦略的黙認の引き出し」を目標としていたが、文書は過剰な攻撃性を帯び、次第にフランスに対する要求と批判が混在する文調へと傾いていった。

 以下は実際にフランス宮廷へ届けられた文書の抜粋とされる

 フランス王国宰相府宛 極秘文書(ジェノヴァ元老院起草)より抄

「サヴォイア王国の膨張は、もはや帝国諸邦の問題に留まらず、地中海交易の均衡そのものを脅かすに至っております。貴国が過日かじつ、オスマン帝国と結んだ盟約は、我ら西方都市に多くの混乱をもたらしました。今こそフランス王国が“秩序の側”に立つことを、欧州は期待しております。サヴォイアの行動を静観されるのであれば、それはフランスが再び不信と孤立の側に立つことを意味しましょう。よって、我らは貴国が理性と誇りをもって、サヴォイアに対する外交的な警告を発してくださるよう願うものであります」

▶ フランスの冷淡な反応と理由(修正版)

 フランス宮廷は、この文書に対し即座の対応は取らず、対応協議の末、形式的な外交書簡の送付にとどめる方針を決定した。

 その背景には以下の点があった

・文中における「オスマンとの盟約」への非難が、フランスの外交政策に対する明確な挑戦と受け止められたこと

・フランス国内にはすでに、サヴォイアとの融和(とくに北アルプス交易ルート保護)を模索する派閥が存在していたこと

・ジェノヴァが戦時中にフランスとの直接的敵対関係にあったため、信頼関係の土台が脆弱であったこと

 したがって、フランスはジェノヴァへの援助を行わず、「礼儀としての警告」をもって応答を終えた。

▶ フランス外政庁発信 書簡(再掲・修正版)

 サヴォイア王国国王 陛下へ

 近時のイタリア諸邦における動静を、我が王国は注視しております。地中海とアルプスの均衡を重んずる我が国としては、秩序ある対応が今後もなされんことを、貴国におかれましても強く望むものであります。

フランス王国外政庁 筆頭官 シャルル・ド・ヴァンデーム


【外交書簡受領記録および王宮内反応】

日付:1461年1月13日/場所:トリノ王宮 北翼書記室 → 王の私室

記録官:クレメンス・ド・モントロー筆記

 その朝、帝国からの使者は、霧深い門を静かにくぐった。手にしていたのは、重ねられた封書二通。うち一通は、宰相アントン・フォン・ライヒェンベルクの名を記し、もう一通には皇帝陛下自身の印章が押されていた。王の私室で開封されたその文は、以下のように記されていた。

 「サヴォイア王国陛下 ルドヴィーコ一世殿下へ」

 神聖ローマ帝国の調和を維持する使命を担う帝国宰相府として、また、皇帝陛下の御意を賜る立場として、我らは近時の貴国の行動に対し、深い関心と慎重なる懸念を表明するものであります。とりわけ、帝国に正式に連なる領邦たるフェラーラ公国に対し、貴国が軍事行動を展開しているとの報は、帝国の一体性に照らし、容易ならざる事態であると認識されております。帝国の秩序とは、相互の法理に基づく協議と、理性による抑制の上に築かれるべきもの。貴国がそれに背を向けるものと見なされぬよう、節度ある御判断と再考の余地を設けられますよう、心より要請申し上げる次第であります。皇帝陛下におかれましても、貴国が帝国諸侯たる品位と責務を忘れず行動されることを、いまなお信じてやまれぬとの御言葉を賜っております。

神聖ローマ帝国宰相

アントン・フォン・ライヒェンベルク

 読み終えた王は、しばし沈黙したまま書簡の末尾を指でなぞっていた。やがて一言。

「……これは“今はまだ止まれる”と、そう書いてある」

「帝国は我らを咎めてはおらぬ。ただ、見ている。

一歩でも踏み違えれば、“咎めうる”立場に立つ――その布石を打ってきたのだ」

 その言葉の直後、フランスからの使者も王宮に到着した。届けられたのは、先に読み終えた帝国書簡と比べてはあまりにも薄く、筆も軽い。王は封を切り、短く目を通すと、乾いた声で呟いた。

「……これが、言うべきことを“言ったことにして終わる”書き方か」

「ヴァンデームらしい。“静かな失策”を重ねて王座に近づく者の書き方だ」

 侍従が鉄の輸送状況について報告を始めると、王は無言で首を横に振った。そして、机上に並べた両書簡を並べ、目を閉じて呟いた。

「フランスは商いを止めず、帝国は法を緩めず……だが、どちらも我らに剣を抜くとは言わなかった。問題は、それが“慈悲”なのか、“罠”なのか――」

 静寂が続いた後、王は静かに立ち上がり、命じた。

「枢密院を今日中に集めよ。すべての立場を洗い直す。いまこの王国が踏み出す一歩に、明日の正統が懸かっている」


【枢密院緊急会議記録】

日付:1461年1月13日午後/場所:トリノ王宮・大評議室

記録官:クレメンス・ド・モントロー

 重い扉が閉じられたとき、外の雪風は遮断されたが、部屋の空気はかえって凍りついたようだった。帝国からの書簡が、王の席の前に封印を解かれた状態で置かれている。蝋は割られ、文面はすでに全員の前に複写されていた。最初に沈黙を破ったのは、副宰相ジャンだった。声は低く、しかし言葉には明確な苛立ちが滲んでいた。

「……法的地位を、完全に失念していた。フェラーラが帝国議会に席を持ち、帝室恩顧の記録が継続中であること。

我らの政庁が見過ごすには、あまりに初歩的な怠慢だ」

「情勢に気を取られ、法にめしいた。これは我ら全員の責である」

 外政卿アルド・バリーニは書簡をじっと見つめながら、唇を引き結んだ。

「我らは“軍事上の障害”しか見ていなかった。だが帝国は、“ことわりと法”を戦の外から見ている。この手紙は剣ではないが、剣より深く我らの正統を刺すことができる」

 内政卿ニコロ・デル・セッラは、机を指で叩きながら毒気を吐いた。

「あのフェラーラが、ここまでの地位を保っていたとは。くたびれた辺境の公国だと思っていた――まるで、腐った城壁の中に火薬庫があったようなものだ」

「それをぜさせたのは、我らの不注意だ。……我らは、知らずに“帝国の壁”を壊しに行ったのだ」

 軍務長官マルクは、いつもより珍しく言葉を探していた。

「戦は順調でした。だからこそ、気が緩んでいた……勝利に隠れた地雷を、誰も探さなかった」

 部屋に沈黙が戻った。王は机上の帝国書簡を、掌で静かに撫でた。蝋の割れ目から伸びるインクの走りを目で追いながら、ようやく口を開いた。

「――我らは、この戦を、勝てば終わると信じていた。だが“戦場で勝つ者”と、“歴史に残る者”は別だ。

我らは、帝国の歴史に“逆らった”者と記される可能性の上に立っている」

 彼の声は怒っていなかった。ただ、鋭く冷たかった。それは、未来を見た者の声だった。

 副宰相ジャンが静かに進言する。

「この書簡に明確な断罪はございません。されど、“いかなる結末も予測される”状態であることは疑いようもない。今、方針を誤れば、戦後、我らは征服者ではなく、秩序を乱した“帝国の敵”として記されましょう」

「もはや、“勝つ”か“負ける”かではないのです。“裁かれるか”“赦されるか”――それが今、問われております」


 沈黙の間に、机の上に並ぶ書簡の影が長くなっていた。そして、王はふたたび沈黙を破った。

「――我らが帝国に問われているのは、“理性の名の下に留まることができるか”という一点だ。フェラーラとジェノヴァ、両方を獲れば、それは“貪欲”として記されるだろう。だが、どちらかを手放せば、“弱さ”と見なされるかもしれぬ。

そのうえで――我らは、どちらを選ぶべきか」

【方針選定議論:フェラーラとジェノヴァ、どちらを優先すべきか】

 外政卿アルド・バリーニ(冷静に、だが強く)

「戦略的価値では、確かにジェノヴァが上です。貿易・港湾・制海権。だが、法理と外交では、フェラーラを抑える方が“穏当な道”でありましょう。ジェノヴァは帝国に属していないゆえ、併合は技術的には容易であっても、“隣接するミラノ”の欲望を刺激する恐れがあります」

 内政卿ニコロ(鋭く)

「そのミラノに、ジェノヴァを奪われぬ確証があるのか?我らが併合を見送れば、あの連中は必ず港を欲しがる。“同盟国だから安全”などという理屈は、戦後の講和書に一文字も書かれぬ」

副宰相ジャン(折り込むように)

「ゆえに、“参戦要請”です。ミラノをジェノヴァ戦に引き込み、戦後は停戦期間という“法的足枷あしかせ”を嵌める。我らが講和交渉権を握りつつ、実効支配の中で時間を稼ぎ、国際的な懸念を薄めていく――それが最も現実的かと存じます」

軍務長官マルク

「人的資源と補給線の観点からも、両正面の長期化は回避すべきです。特にジェノヴァ戦線は海岸線ゆえ流動性が高く、制圧後の統治も困難です」

王(静かに)

「つまり――フェラーラを獲り、ジェノヴァは繋ぎ止める。縛りはしても、飲み込まず。帝国には秩序を見せ、フランスには静観を与え、ミラノには“緩い縄”を結ぶ。我らが進むべき道は、それしかないか」

 副宰相ジャン(慎重に)

「はい、陛下。そして何よりも、これは“帝国の懲罰を避ける唯一の解”でございます」

【結論と布告草案の承認】

 王(明確に宣言)

「では、ここに決定する。

 サヴォイア王国は、帝国秩序の内にとどまりつつ、フェラーラ公国を併合する。

ジェノヴァに対しては、ミラノに参戦要請を出し、講和の主導権を我らが保持する。

 正面は一つ、だが鎖は三重。これが我らの戦後地図だ」

 全会一致で承認。書記官により、以下の形で草案が起草される。

【枢密院布告草案(抜粋)】

 フェラーラに対する軍事行動は、帝国秩序に準拠しつつ、秩序的併合を目指すものとする。ジェノヴァ戦線においては、ミラノ公国を名目的支援として参戦させ、戦後に停戦拘束を課すことで、同地域の勢力均衡を維持する。いずれの講和においても、サヴォイア王国が交渉権限を維持し、友邦の過剰拡張を抑制する。


【極秘手記:ルドヴィーコ一世・ド・サヴォイア】

記録日:1461年1月13日深夜/保管:王室枢密文書庫・未開封扱い(のち公開)

 帝国からの書簡には剣がなかった。だが、それゆえに剣より重く、深かった。我らはまだ赦されていた。だが、それは「次に赦される保証ではない」と告げられた赦しだった。

 我はフェラーラを取る。それは今なお帝国の目が届く場であり、秩序の名のもとに“飲み込める土地”だ。我が王国の骨を太らせるには、この平野が必要だ。

 ジェノヴァは取らぬ。だが、渡しはしない。ミラノに与えれば、奴らはそれを足掛かりに西へ伸びる。ならば、参戦という形で枷を嵌め、戦の外で彼らの未来を縛る。

 王の剣は、必ずしも敵を斬るためだけのものではない。同盟者を縛り、友を眠らせるために振るうこともある。

――帝国の秩序に従うふりをして、

  帝国の秩序を内側から解体する。

 この王国に必要なのは、勝利ではない。記録される“正しさ”だ。そして、正しさとは常に、語る者が決めるものだ。


【外交書簡:サヴォイア王国よりミラノ公国宰相府宛 参戦要請】

発信日:1461年1月14日/送信経路:ピネローロ駐在大使経由

 ミラノ公国殿下 フランチェスコ一世閣下へ

 古き信義と新しき戦略の交差する今、我がサヴォイア王国は、共なる秩序の守護者として、貴国の英断を仰ぐものであります。我らがジェノヴァ戦線において苦戦のしらせが立つ中、貴国の高き軍律と誠実なる武威ぶいが、戦局の均衡を取り戻す鍵となることを、疑う余地もございません。

 このたび、貴国に対し、正式なる参戦の意志を賜りたく書簡を差し上げます。

 これは征服の戦ではなく、秩序と信義を守る戦であります。

 我らが共にあらんことを――。

サヴォイア王国国王

ルドヴィーコ一世・ド・サヴォイア

(書簡には、「講和に関する主権はサヴォイア側にあり、主要交渉はトリノにて処理される」旨の細則も同封)


【戦役記録:1465年〜1467年】

― サヴォイア王国対フェラーラ公国・ジェノヴァ共和国戦争 ―

記録官:王室戦務局編纂部・枢密院史料審議官室(1468年整理)


【1465年11月】

◇ アルベンガ占領(11月19日)

 晩秋の雨が地中海沿岸を濡らす中、サヴォイア軍の第七遠征団は静かにアルベンガ市へ進軍した。既に周辺の農地は荒廃しており、守備兵の姿はまばらであったという。市門は一時的に閉ざされたが、11月19日未明、城壁内の有力商人たちが密かに投降に応じ、無血占領が成立した。この報を受け、王ルドヴィーコ一世は書簡にて次のように述べたという

「この港は門であって、心臓ではない。だが、門を得ねば心臓にも手は届かぬ」


◇ 第二次リグリア海海戦(11月22日)

 三日後、ジェノヴァ海軍との間で第二次リグリア海海戦が勃発。王国海軍は、小型船5隻、ガレー船5隻、輸送船7隻の布陣をもって出撃し、一隻の損失もなく完全勝利を収めた。敵艦船3隻は全て沈没、海域は完全封鎖された。

 海軍戦務局報告書にはこう記されている

「艦列は一糸乱れず。水兵らの士気は高く、勝利の瞬間、鐘がトリノでも鳴ったという」


【1465年12月】

◇ モデナ占領(12月3日)

 アルベンガに続き、内陸への作戦も進行。12月初頭、モデナ市が制圧される。降雪前の素早い進軍が功を奏し、城砦の防衛線を突破。市民の反応は限定的であったが、一部の知識人は書簡にて次のように記した

「モデナの壁は崩れずとも、心は既に崩れていた」


【1466年3月16日】

 彗星の夜と動揺する王国

 その夜、天頂を貫いて彗星が走った。青白い尾を引く光は、まるで神の剣が空を裂いたかのように、王国の大地を無言で照らした。星を読む修道士たちは戸惑い、農夫はからすきを置き、婦人たちは家の扉を内側から固く閉じた。王宮に近いサン=ミシェル塔の塔主が最初に観測記録を残している

「春の風に交じり、燃える獣のような尾が北から東へ横たわった。

これは祝福か、それとも罰か。我らはまだ、答えを持たぬ」

 この現象は都市から農村に至るまで波紋のように広がり、各地で“啓示”と“懲罰”の解釈が交錯した。一部の町では教会前での自発的な祈祷が行われ、他の地域では、兵士の脱走や投石騒ぎも報告される。枢密院は直ちに「民心の沈静化策」として以下を実施

・各司教座に布教使節を派遣し、「これは天の導きであり、破滅の兆しにあらず」と布告

・王国全域で施政の再点検と恩赦的減税処置を一時的に実施

・民衆の不安に即応するため、統治指令を一段階強化する特別命令を公布

 これらの策により、王国全体は数日中に動揺から回復し、民衆の不安はやや静まりを取り戻したとされる。


【1466年11月1日】

 軍制改革の告示と「火の管」の導入

 霧雨の朝、トリノの王宮にて一通の告示が布かれた。それは、王国軍の諸兵科に関わる根本的な改革――

 「火の管」を用いる新戦術の段階的導入を宣言するものであった。

 この“火の管”とは、硝石と鉄管によって構成される新たな射撃具であり、かねてより一部の錬金士や軍事修道会の間で試作されてきた。射程は短く、精度も乏しいが、敵陣に火と音と煙とを一挙に浴びせる破壊的手段として注目されていた。この技術の理論化と訓練体系の整備がついに完了し、王立軍制局と戦術教範院の合同会議により、火器部隊の創設が正式に承認されたのである。

 王ルドヴィーコ一世は、この技術革新について側近に語ったとされる

「剣は王者の象徴だ。だがこの“火の管”は、名もなき者たちが貴族を脅かす道具となる。

……これが良き未来かどうかは、我らが血を以て知るしかない」

 そしてこの改革に対し、国内は以下のように反応した

・貴族階級:「名誉なき戦いが増える」として慎重姿勢を崩さず

・市民階級:王国の近代化として受容、火薬製造業者との契約が急増

・農村地域:武具に対する関心と恐れが交錯し、一部で模倣品の密造が発覚

  王国軍制局布告(1466年11月1日)

「火煙を以て敵を震わせ、閃光を以て戦場を裂くべし。然れども、この技、あくまで法と規律の下に行使されよ。御国の兵は、ただ勝たんがために火を放つにあらず。理と誇りを忘るるなかれ」

 この日をもって、王国は鉄と炎の時代へと、その片足を踏み入れたのであった。


【1467年4月6日】

 《フェラーラ降る》――長き包囲の終わりと、併合の決断

 その冬を越えて、フェラーラは燃え尽きていた。

 トリノの戦務局が「最終段階」と認定したのは前年の暮れであったが、

堅牢な堀と運河、城壁の背後に備えられた貴族たちの頑なな沈黙が、

城外の兵士たちを幾度も沼地に倒れさせた。包囲は計百余日を超え、王国軍は幾度も補給を断たれ、士気も揺らぎつつあった。だが、“火の管”を携えた新式部隊が投入され、戦局は静かに変化し始める。火薬と煙の下、旧来の戦法に固執したフェラーラ守備隊は次第に劣勢を強いられた。

 戦闘そのものは決して大規模ではなかった。直接的な戦死者は歩兵995名にとどまるが、長期の疫病・飢餓・凍傷による損耗は甚大であり、王国軍内の損耗戦死は歩兵3,170、騎兵510に達し、総死者4,675名という記録が残る。

 一方、フェラーラ側の戦死者は6,000名超。市民の死傷者数は記録されていないが、包囲中の飢餓と寒波により多数の死者が出たことが後世に伝わる。

◇ 講和交渉と“全土併合”の決定

 講和は、フェラーラ宮廷が派遣した老外交官ガスパーレ・ディ・エステの口上により始まった。彼は凍てつく声でこう述べたという

「我らはまだ主権の灯を掲げておりますが、

 その火は、もはや風に吹かれるばかりであります」

 この言葉に対し、サヴォイア王国側は即答を避け、トリノと連絡を取ったうえで、全土の併合、および賠償金65.0ダカットの支払いを条件とする講和案を提示。

(うち64.35ダカットがサヴォイア王国の収入として計上された)

 トリノにて決裁が下りたのは、講和文書の署名当日、正午のことであった。

◇ 併合の政治的背景

 この“併合”は、単なる戦果の収奪にとどまらない。枢密院内の議論では、帝国への説明責任、フランスの牽制、ミラノの警戒、そしてフェラーラ貴族の流出・懐柔工作に関する慎重な調整が重ねられた。

 外交文書にはこう記されている

「フェラーラは、帝国の構造において“権威の末端”に過ぎない。

それを取り込むことは、秩序を否定することではなく、乱れた秩序を補修する行為である」

 また、この日の夜、王ルドヴィーコ一世は密かに筆を執り、次のように記したという

《ルドヴィーコ一世・極秘手記 抄録》

 「フェラーラが落ちた夜に」

 城門が開いた。だが、私の心は少しも軽くならなかった。帝国は見ている。だが、我は見られることを恐れぬ。見られながら、我が行動の正統を刻むことこそが、王の仕事だ。

 もしフェラーラが炎に包まれていたならば、この決断は火薬のにおいで覆われたかもしれぬ。だが、彼らは静かに門を開いた。

 静けさのなかに飲み込む都市ほど、記憶の中で重たく沈む。


【1467年4月11日】

《リグリアの鐘は鳴らず》――ジェノヴァ講和と併合見送りの決断

 六日前、フェラーラの城門が音もなく開かれた。そして今日、リグリアの玄関口――ジェノヴァもまた、静かに膝を折った。だがそこに、「勝者の歓喜」はなかった。

 サヴォイア王国軍はアルベンガ占領、港湾封鎖、首都包囲を順次完了させ、

ついにこの日、ジェノヴァとの講和交渉が成立した。だが、事前に予告されていたような併合や政権移譲は、行われなかったのである。

◇ 封鎖戦の終結と戦死者の記録

 この戦線における戦闘は、長期の港湾封鎖と都市包囲により進行し、大規模な野戦こそ発生しなかったが、両軍に深刻な人的損耗をもたらした。

サヴォイア軍戦死者

 歩兵995名(戦闘死)

 歩兵3,170名/騎兵510名(損耗死)

 合計:4,675名

ジェノヴァ側戦死者

 歩兵9,000名、騎兵1,000名、合計10,000名(損耗含まず)

 海戦の余波と、輸送線の寸断により、都市機能はほぼ停止していた。リグリア海からの交易が絶え、市場には果物ひとつなく、夜には市民が松明を手に物乞いする姿が見られたという。

◇ 講和条約とその背後

 講和の条件は、金銭賠償95.0ダカット(うち94.05ダカットがサヴォイアの取り分)のみ。それ以外の政治的譲歩・併合・政権再編は一切含まれなかった。

 この決断は、戦務局・枢密院・王宮の三者協議において慎重に下されたものである。

《決断の三つの理由》

帝国の圧力回避

 ジェノヴァは形式上帝国を脱していたが、帝国諸侯の多くはその古都に対する情念を持ち、フェラーラ併合の直後にさらなる拡張を行えば、神聖ローマ帝国からの報復を招く懸念があった。

フランスの警句と“鉄”の通牒

 先のオスマン戦においてフランスとジェノヴァの立場は錯綜しており、ジェノヴァは独断でフランスにも支援要請を送っていた。フランス王国はこれに対し、形式的で冷ややかな書簡をサヴォイアに送付。書簡では「王国としては他国の独立を望む」と述べられていたが、鉄の輸入問題などを通じて、実質的には軽視されているとの見方が広まった。

 ミラノへの“鎖”としての停戦条項

 ジェノヴァを併合しなかった背景には、同盟国ミラノの動向も絡んでいた。戦後、サヴォイアの代わりにジェノヴァに手を伸ばす懸念があったため、停戦期間という外交的拘束力をジェノヴァに課すことで、ミラノの行動を封じ、時間を稼ぐ戦略的意図が含まれていた。

◇ 王の沈黙と密かな語り

 この決断の直後、王ルドヴィーコ一世は公的発言を控え、代わりに短い手記を残した。それは、征服者としての誇示でもなく、敗者への同情でもない。ただ、「時を読む」ことの孤独を示すものであった。

《ルドヴィーコ一世・極秘手記 抄録》

「併合をせず、火をともさず」

 時には、鉄を振るうよりも、輪郭だけを残して立ち去ることが、より深く相手の肺に煙を残す。

 帝国は私を見ている。フランスもまた、見ていないふりをしてこちらを覗いている。

 今は剣を納めよう。だが、鞘の冷たさが残るうちに、彼らは思い出すだろう。

――“リグリアは燃やされなかった。けれど、もう誰のものでもない”

 この講和によって、サヴォイア王国はフェラーラの完全支配と95.0ダカットの金銭補償を得たが、それ以上に、帝国とフランスの視線のなかで秩序と力の均衡を保つ術を得たのである。


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勝利は、光ではなかった。

王国の旗は揺れたが、祝祭はどこにもなく、

燃やされなかった都市と、呑み込まれた大地が、ひっそりと境界に刻まれた。


火を灯せば、帝国が揺れる。

剣を抜けば、盟友が睨む。

だから王は、沈黙を装い、征服を撫でる風のように振る舞った。


――だが、その鞘は、たしかに濡れていた。

それは血ではない。野心でもない。

歴史の裏で凍えた者たちが、ひとしずく流した静かな涙だった。

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偽史サヴォイア 西野園綾音 @nishinosonoayane

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