偽史サヴォイア

西野園綾音

第一章 ルドヴィーコ1世の治世①

第一節 冬は山にもり、獣は国を囲む

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山よ、わたしの影を憶えているか。

谷間に沈む霧の下、矢は未だ放たれていない。

だが意志はすでに輪郭を持ち、

声なき命令が、雪を払って進みゆく。


城は静かだ。人々もまた。

それでも王たるものは、待つだけでは道を得ぬ。


冬の底で、炎は小さく育てられる。

次なる季節に、都市が咲くために。

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 1444年11月11日。

 ルドヴィーコ一世・ディ・サヴォイアの統治のもと、サヴォイア公国はひとつの峠を越えた。即日、第一回目の領地再編が断行され、封建的保守層の抵抗を押し切りつつ、王権の中央集権化が静かに始動する。貴族らはこの動きに警戒を強めたが、ルドヴィーコは、貴族の声を抑える代わりに、外交網をその日中に広げていた。

 11日から27日にかけて、ブルゴーニュ、ミラノ、カスティーリャ、アラゴン、モンフェッラートとの間に王家の縁と軍事的同盟が交差する。翌月には婚姻の形式がこれを追認し、ルドヴィーコはイベリア・イタリア・ブルゴーニュ圏を繋ぐ橋梁きょうりょうのような地政的位置を、外交上の鎖に変えていった。

 そして翌年1445年1月1日、教皇領との同盟が正式に締結される。トリノ・クーネオ・ブレッシア・シャンベリにそれぞれ歩兵を配備し、陸軍は即応体制を整えつつあった。彼の意図は明白だった。その矛先は、アルプス南麓なんろくのサルッツォ侯国に向けられていた。ルドヴィーコは、同地の小侯国を併合し、国境の脆弱ぜいじゃくな南端を確固たる石壁へと変えようと目論もくろんでいたのである。だが、侯国は間もなく教皇領と同盟を結び、サヴォイアの思惑はもろくも頓挫とんざした。宗教的正統性を背景にした教皇との直接衝突は、まだ王国の胆力たんりょくに耐えうるものではなかった。

 この挫折の直後、事態は思わぬ形で動き始める。フランスが突然、プロヴァンスとの同盟を破棄したのである。フランスがプロヴァンスを巡ってこの地に影を落とすのは時間の問題であり、王国の南境が再び他国に呑まれる危険性が高まっていた。

 ルドヴィーコはその機を逃さなかった。フランスとの同盟破棄によって発生した短い停戦の空白――それは、サヴォイアにとって最初で最後の好機であると彼は見抜いた。プロヴァンスを叩くことで、ルッカを獲得し、同時にサルッツォを迂回しつつ地理的・政治的に包囲する戦略に転換された。この変化は単なる戦線の転換ではなく、国家戦略の核心に位置するものであった。

 その年の1月29日、宮廷では神学論争が巻き起こる。かつて対立教皇としてフェリクス5世を擁立ようりつしていた歴史を持つこの地において、ルドヴィーコは明確にローマの正教を支持し、かつての対立教皇の権威を否定する声明を発した。


「真の教皇は、ローマにおられる」

——公国声明(1445年1月29日)


 この言葉が意味したのは、宗教的統合による王権の強化と、教皇領との同盟関係の政治的正統化であった。

 彼は、過去の曖昧な栄光に背を向け、国家のかたちを現実に織り直そうとしていたのだ。そして年の終わり、プロヴァンスに対して、正式に宣戦布告がなされた。


 都市はまだ眠っていた。

 しかし国境では、すでに槍が月光をねていた。

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覚悟は、剣ではなく、構えの中にある。

真冬の地にあって、血の滴る日を夢見た。


山々の裏に隠れた声が、峠を越えようとしている。

それを合図に、静寂が鎧を着る。


包囲の輪に、意志を通わせよ。

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