第21話 怒る美波

美波は一切口を聞かなかった。後ろ姿なのに怒っているのがよく分かる。しかし、それが自分を襲った配達員に対するものなのか、その男を止める事が出来なかった不甲斐ない俺のせいか。あるいは、舐めるように全身を観察してきた、若い警察官のせいかは分からない。


「茶でもいれるか?」

 ダイニングテーブルに座る美波の後ろ頭に、キッチンから聞いた。


「いいから、座りなさい」

 コチラを振り向きもしないで、棘のある声を出した。どうやら怒りの原因は俺のようだ。手に取った紅茶のパックを置いてから、美波の前に腰掛けた。


「どうして、海斗くんは他人に優しく出来ないのかなぁ。美波にはこーんなに優しいのにさ」


「え?」

 話の意図が見えない。無言で先を促した。


「だーかーらー! あんなこと言ったら、誰だって怒るでしょ? 別に良いじゃない、道を譲るくらい」


「いやいや、俺は当然の意見を述べたわけで……」


「ふーん。配達なんて底辺の仕事、小銭を稼いでセコセコ暮らせ、が当然の意見なんだ?」


「まあ、そうだな」


「へー、じゃあ海斗くんみたいにパソコン、カタカタする仕事は偉いんだ? サラリーマンは? 政治家は? 芸能人は? 誰が一番偉いの?」


「そりゃ、配達員よりは政治家の方が偉いだろ、だから給料も高いんだろうが」

「なるほど、給料が高いと偉いわけだ?」


「一つの指標にはなるな」


「中学生みたい」


「は? なんでだよ」


「沢山ある能力の一部だけを評価して、勝手にピラミッド作って自分が上にいるって、勘違いしてる中学生」


 頭に血が上った。それは俺が、いや、俺たちが一番嫌いな人種だ。俺たちを不幸のどん底に落とした奴らだ。


「はあ? ぜんっぜんちげーよ」

「一緒じゃん」


「俺は大人にもなって、小学校から中学校の義務教育を九年もみっちり受けてだな、頭をまるで使わない仕事をする奴、人に迷惑をかける馬鹿どもが許せねえんだよ。見た目だけイキがって周りを威嚇してきた不良、集団心理を利用して弱い物いじめを助長するクズ。そーゆう奴らは配達だの鳶職だの反社だの、馬鹿でも出来る仕事をしてるんだよ。自業自得だろうが。下に見られて当然なんだよ。当然の事を奴らはしてきたんだよ!」


「分からないじゃん、あの人がそんな事してたなんて。海斗くんの想像じゃん」


「見りゃわかんだろ、ナイフ持ってたじゃねえか。善良な市民がポケットにナイフを忍ばせるのか? 人に斬りかかるのか?」


「ナイフはたまたま買ったやつかも知れないし、怒らせたのは海斗くんでしょ? あんな事がなければ、あの人だって警察に捕まらずに、今頃はお家でリンゴの皮でも向いてたかもよ」


「は! めでたい妄想だな」


「海斗くんのだって妄想じゃん」


「俺のはエビデンスがしっかりしてるだろうが、美波のはめちゃくちゃだ」


「エビデンスってなに?」


「根拠だよ、裏付けがあるだろ。犯罪を犯す連中に肉体労働者が多いのはデータが証明してるんだよ」


「じゃあ、美波のパパも犯罪者だね」

 頭に上っていた血がサッと引いた。美波の父親の職業までは気が回らなかった。


「な、何してるんだ? お父上は……」


「長距離トラックの運転手」


「いや、それは特殊な技能が必要な立派な職業じゃないか」


 今さら、取り繕っても手遅れか。


「肉体労働じゃん! 底辺じゃん! 底辺の子供だから美波は最下層じゃん!」


 うわあ、すげー怒ってるよ。迂闊だったなと後悔するが、上手いフォローが見つからない。


「よく聞けよ美波。俺が言いたいのはだなあ、職業うんぬんじゃなくて、社会的なルールを守れない奴はダメって事なんだよ。あの配達の男は歩行者優先の歩道でベルを鳴らして歩行を妨げた、百歩譲ってそこまでは許そう。でも、あいつは道を譲って貰っといて、礼を言うどころか舌打ちしたんだぜ? 文句くらい言わせてくれよ」

 どうだ、いけるか。


「だったら、なんで舌打ちしたんですか? って聞けば良いじゃない。あんな悪口、言う必要あった?」

 ありません。


「海斗くんは他人に偏見を持ち過ぎだよ、世の中そんなに悪い人ばっかりじゃない。あの人だって、普段は優しいのに、今日はたまたま嫌な事が重なってイライラしてただけかも知れないじゃん。決めつけない方がいいと思うな」


「そんなお人好しだから、お前は……」


 ――お前は自殺するはめになったんだろ?


 俺は出かけた言葉を押し込めた。言ってはいけない。いや、言うべきじゃない。美波の目を見た瞬間、言葉が瓦解した。喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。するとなぜか美波の目から涙がこぼれ落ちた。


「そんな風に生きてたら……辛くない?」

 俺は何も言えなかった。

 ただ黙って美波を見つめていた。


 両親のことを話せば、少しは理解してもらえるのだろうか。俺は、俺たちは。不条理な人間に大切な命を奪われた。どうしてお前に分からない。

 普通の恋人同士なら、こんな風に喧嘩になった時にどうするのだろう。やはり男が謝るのだろうか。上部だけでも謝罪して、体裁を整えたら明日からまた笑い合えるのか? 俺たちには、こんなことで立ち止まっている時間はないのに。美波の謎を、二人で生きていく方法を解かなければならない。九月一日が来る前に。それまでに、すべてを知る必要がある。

 

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