黄金虫の翅音
幸まる
答えのない問い
大陸の南方で力を付けた一つの王国で、ある時一人の男が王位に就いた。
王家の血は継いでいても、王位には程遠い位置に在った男だったが、欲望は人一倍強く、狡猾さと残忍さは更に強かった。
その欲深さで、彼は王座に連なる者を根絶やしにして、血塗れの王座にを手に入れたのだった。
王になった男は、臣下に忠誠を誓わせて、頂から国を見渡して満足したかに見えた。
しかし欲深い者は、常に
一つ手に入れれば、また次を欲する。
そうして王は、天下泰平の世を創る為という、どこまでも尤もらしい目的を掲げて隣国へ攻め入ったのだった。
◇ ◇
年若く美しい王女は、寝台に両手をついて、痛む身体をなんとか起こした。
梳けば絹糸のような金の細い髪が、もつれて垂れる。
彼女は、辺境の小国の王女だ。
薬師の一族が興したその小国は、戦う術など持たなかった。
南方の大国が次々と周辺国を攻め、その力のみで属国に貶しているという噂が届いて半月足らず。
備えらしい備えも出来ないままに、小国は攻め落とされ、王女は服従の証として大国へ連行されたのだった。
王女はぼんやりと辺りを見回した。
王の寝室であろうこの部屋は、豪奢な造りではあるものの、装飾に統一感はなく落ち着かない。
王がどういったものを好むのかは見て取れず、むしろ、統一された好みを持っていないのではないかと思わせた。
汗や体液で汚れた身体を気持ち悪いと思ったが、部屋の外で声が掛かるのを待っているのであろう小間使いを呼ぶ気にはなれない。
暴君は事が終われば早々に立ち去った。
このことからも、王女に好意を持って国へ連れ帰ったわけでも、これから妃にして大事にしようというわけでもないのだと分かる。
自分は、攻め落とした国から持ち帰った、ただの記念の品。
宝ですらないのだ。
王女は寝台からそろり足を下ろし、立ち上がった。
我が身に起こったことは、まるで現実味がない。
つい数日前までは、皆で笑い合って、日常の中に在った。
今ここにいることが、どうしても信じられない。
ここにじっとして居たくなくて、ゆらりと揺れるように前に歩き出す。
続き間に繋がる小さな扉が開いていて、吸い込まれるようにそちらへ進んだ。
勝手に入って良いのかどうかも分からなかったが、たとえ罰せられるとしても、どうでも良いではないか。
入った部屋には、多くの物が乱雑に置かれてあった。
絵画、織物、飾り壷等の置物、宝飾品、貴重な動物の剥製に彫刻……。
王女の口から、知らず冷たい息が漏れた。
ああ、これらは私と同じだ。
ただの記念品。
持ち帰ることにだけ意味があって、それから放置されている、ガラクタだ。
途端に、視界がぼやけた。
白い頬に、涙の粒が滑り落ちる。
どうして私はこんな所にいるのだろう。
どうしてこんな事になったのだろう。
善良であれと常に思っていたわけでは無いが、祖先に顔向けできないようなことだけはしないと誓って生きてきた。
特別何かしたわけではない。
平穏に一日一日を終えることだけを願って日々を送っていたはずだ。
私達が何をしたというのだろう。
なぜ突然、生命を、国を、尊厳を奪われなければならなかったのだろう。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
ただ生きていただけ。
ただ、日常を生きていただけだ。
奪われなければならない理由はどこにあったというのか。
王女はふらりとテーブルに手をついた。
その上にも所狭しと装飾品が積まれてあって、ぶつかり合ってガタと音を立てる。
テーブルの上で王女の細い指先に触れたのは、赤い宝石がはめ込まれた短刀だった。
それは偶然であったが、王女には啓示のようにも思えた。
無操作に置かれてあるからには、これはただの宝飾品であって、殺傷能力はないのだろう。
それでも、喉を突いて生命を断つことくらいは出来よう。
王女は衝動的に短刀を手にし、鞘を抜いて落とした。
カン、と硬い物同士がぶつかる音がした。
毛足の長い敷物の上に立っていた王女は、思わぬ音に自然と視線をそちらへ向けた。
テーブルの脚の側に、透明のガラスケースが置かれてあった。
落とした鞘がそれに当たって、硬質な音を鳴らしたらしい。
ガラスケースの周囲には細かな彫りが施されていて、このケース自体が価値のある物だと想像出来たが、王女の目は、その中のものに釘付けになった。
一匹の甲虫が、仰向けになっているのだ。
こんな高価なケースに、なぜ虫を入れているのだろうか。
もしかしたら、とても貴重な虫なのかもしれないが、そんなことはどうでも良い。
王女はその場に膝を付いて、ガラスケースを持ち上げて開いた。
死んでいるのかと思った虫の、一本の脚がピクリと動いたのが分かったからだ。
ここにあるものは全て、自分と同じもの。
小さな虫といえど、生きているのなら、逃げられるのなら、助けてやりたいと思えた。
閉じ込められていた虫は、王女が指を近付けると、縋り付くようにしてその先に掴まった。
王女が手を上げて顔の前に持っていくと、甲虫はふるりと一度震えてから、丸みのある硬い翅を輝かせた。
金属光沢のあるツルリとした体は、緑がかった色味ながらも、光を弾いて黄金色に輝く。
「…………きれい」
思わず漏れた言葉に、自分で驚いた。
美しいものを美しいと感じる。
まだそんな感覚は残っていたらしい。
「助かったよ、お嬢さん」
指先の虫が発した声に、王女は驚いて目を見開いた。
「あなた、話が出来るの」
「そのようだよ」
笑うように、黄金虫はブラシのような触覚を上下させる。
「あの暴君め、この身を宝石と同様とでも思ったのか、ガラスケースに閉じ込めおった。おかけで息ができずに死ぬところだったよ」
「そう。助けられて良かったわ」
「……お嬢さんは、ちっぽけな虫でも助けられて良かったと思うのかい」
黄金虫が顔を上げると、王女は目を伏せて長いまつ毛を儚く揺らした。
「どんな小さなものでも、生きていれば同じ生命だと、父上様が教えてくれたもの」
薬師であった一族が興した小国は、今でも薬草の栽培から精製までを主産業としていた。
生命に関わる事が多いからだろうか、一族は殊更どのような生命も大切にするように教わって育つ。
その為、民の生命に代えて降伏の意を早く示し、示した後は無駄に国を荒らされずに済んだ。
条件の一つとして王女は捕虜として連れて行かれたが、少なくとも、それで生き残る民が増えたことは確かだ。
「さあ、逃げて」
王女は腕を精一杯伸ばし、高い位置にある小さな窓を指差した。
上げられた指先から、黄金虫は王女を見下ろす。
「お嬢さんはどうするんだい?」
「……さあ、どうするのかしら」
「死んではいけないよ」
テーブルに置かれた短刀を短い脚で示し、黄金虫が言う。
王女の指先が震えた。
「どんなものも、生命のある内は、どうあっても生きるのさ」
「……どうしようもなく、辛くても?」
「辛いのかい? お嬢さん」
辛い、と答えたくても、王女は言葉が出なかった。
辛いという一言では済まされない。
痛い。
腹立たしい。
悲しい。
憎い。
様々な感情が渦を巻いているが、どれをどう口にしてもこの胸の内を言い表せる気がしない。
ただ、一つだけ。
どうして。
なぜ。
その疑問だけが、強く強く中心で暴れている。
黄金虫が指先から降りてきて、王女の肩に止まった。
「ならば、復讐するかい?」
王女の心臓が強く打った。
「……復讐?」
「そうさ。受けただけの事を返す。因果応報というやつさ。奪われただけの生命を、奪い返す。お嬢さんに、あの暴君の生命をやろうか?」
王女の脳裏に大切な人達の顔が過る。
父王、兄、そして王女を逃がそうとした者達。
今浮かぶだけでも、両手の指では足りない。祖国は抵抗らしい抵抗も出来なかったが、それでも多くの生命は奪われた。
……奪われただけの生命を、奪い返す。
王女はコクリと喉を鳴らし、両手を強く握りしめていたが、しばらくして、ゆるゆると首を振った。
「いらないわ」
「なぜ?」
「王を殺しても、それはあの王が生命を失うだけ。奪われた生命は戻らない。何の意味もないわ」
「意味がないかい? 少しは胸の内が収まらないかい?」
なおも言葉を重ねる黄金虫に、王女は、今度は強く首を振った。
「収まらないわ。奪われた者の痛みも、答えのない疑問を繰り返し続けていく者の苦しみも知らず、生命だけ盗ってやるなどと。なんて都合の良い終わりでしょう」
「ふむ……」
「それに、同じように生命を奪えば、私もあの王と同じものになってしまう」
王女はぶるりと震えた。
「あんなものには、決してなりたくない…!」
黄金虫は、キラリと硬い翅を浮かせた。
隙間から薄い後翅が伸び、ビイィンと僅かに空気を振動させる。
「よく分かったよ。では私は行く。助けてくれてありがとう」
黄金虫は小窓の高さまで飛び上がると、一度王女の頭上で旋回した。
「ああ、そうだ。お嬢さん、生命を絶つのは少し待ちなさい」
「え?」
「そうだな、せめて明日の日の出まで。いいね?」
王女が返事をする前に、黄金虫は小窓から飛び出して去った。
翌早朝。
まだ日の昇らない暗い空に、異変は起きた。
耳の内側を掻かれるような不気味な振動音と共に、城を中心に、大国中央の空は黒い影に覆われた。
何処から現れたのか分からない影に人々が気付いた時には、影は空気を大きく震わせて、上空から地上に滝のように降り注いだ。
それらは、ありとあらゆる植物に取り付き、恐ろしい速さで齧り付いた。
その影が小さな虫たちの集まりだと人々が気付いた時には、既に遅かった。
虫の大群はおよそ食べられると判断するものを全て食い尽くす。
狂乱の叫びが、城を、街を満たす。
威圧感のある白く高い壁は、もはや斑に塗り潰されている。
虫達は黒い波となって、人間の生活の場を埋め尽くしていく。
素早く動く一匹の虫を追うのにも苦労するのが人間だ。
空を覆う程の大群の虫を、どうやって駆逐することが出来ようか。
全てを置いて逃げ出す者は、十数ヶ所の噛み跡のみで済んだが、家財を守ろうとした者、虫達を駆除しようと躍起になった者は、一体誰なのか分からない程に膨れ上がるだけ、虫に刺されて倒れた。
この騒ぎに乗じて、王女は城を抜け出し、他の捕虜達と共に逃げ出した。
不思議なことに虫達は、他国の捕虜達には見向きもしなかったのだ。
王女は中央の街を出る時、一度だけ振り返った。
昇り始めた朝日に照らされ、黒い波はうねる黄金色にも見えた。
◇ ◇
数年後。
小国をはじめとする周辺の国々は、平和を取り戻していた。
南方の大国は事実上瓦解した。
あの不思議な出来事以降、虫が大群で現れるようなことはなかったが、大国の中央を担う者達の多くが感染症や精神疾患に倒れ、国としての機能を一時的に失い、属国を従え続けることは出来なくなったからだ。
新たな体制を作った頃には、既に多くの人々が国土を離れ、大国と呼べるものではなくなっていた。
小国に戻った王女は、薬師として城下の救護院で働く毎日を送っていた。
誰かの為に出来ること、それを積み重ねる行為が、この生命を長らえさせている。
「王女様、あの者です」
従僕に連れられて、町外れの救護院を訪れた王女は、深く被ったフードの端を強く握り締めた。
「疾患に効く薬剤を求めて、従者らしき者と旅して来たようで、国境警備に捕まって、状態が悪いのでここへ運ばれて来たようです。うわ言のように、『私は王だ』と……」
壁際の寝台に蹲るみすぼらしい男は、ひどい皮膚病であるのか、服から出ている部分はほとんど、膿と瘡蓋で覆われていた。
しかし、腫れぼったい瞼の下に見える薄灰のの瞳と同色の縮れた髪、辛うじて残った本来の皮膚に覗く口元の引き攣れた傷跡が、あの日を思い出させた。
王女はそろりと歩を進め、男に近付く。
男は王女に気付かずに、汚れた爪で皮膚を掻き毟りながら、ブツブツと声を発し続けていた。
「なぜだ、なぜこんな目に、……私は王だ。おかしい、なぜだ、どうしてこんな事になった……」
王女がぶるりと震えた。
握り締めていたフードを、ゆっくりと下ろした。
男が王女に気付く。
生気のなかった瞳が見開かれ、その奥に小さな怯えが揺れるのを王女は見逃さなかった。
「ようやく……」
答えのない問い。
ようやく、ここへ。
ブイィン…と、甲虫の翅音が響いた。
《 終 》
黄金虫の翅音 幸まる @karamitu
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