黒鉄色のケッタマシーン
平手武蔵
前編
アスファルトが陽炎を揺らす、八月の午後。私は、真新しいロードバイクのペダルを力いっぱい踏み込んでいた。風を切る感覚が、まとわりつく熱気を、そして高校最後の夏休みが終わりに近づいていることを、ほんの少しだけ忘れさせてくれる。耳元のイヤホンからは、推しのロックバンドが全力で夏を叫んでいた。
――今、この時間が、ずっと続けばいいのに。
名古屋城の外堀沿いの快適なサイクリングロード。緑の木々と石垣、そしてオフィス街のビル群が作るコントラストが、私のお気に入りの風景。いつもと変わらない見慣れた景色。そのはずだった。
じわりと視界が汗で滲み、一瞬だけ目を閉じた。
「……え?」
サイクリングロード脇の見慣れた外堀を、いやに古めかしいデザインの電車が走っていた。思わず、イヤホンを引っこ抜く。音楽が途切れ、代わりにけたたましい蝉時雨と、ゴトゴトという電車の走行音が耳に飛び込んできた。
ありえない。そこに線路なんてない……って、あるじゃん。なんで!?
信じられない光景を目にして、ハンドル操作が狂う。視線を前方に向けた時には、もう遅かった。正面から、黒い塊が迫ってくる。学ラン姿の男子だ。そして、その彼が乗っている、いかにも頑丈そうな自転車が――。
ガッシャーン!
金属がねじ曲がる、耳障りな衝突音。私の体は宙に放り出され、芝生の上に叩きつけられた。
「いっ……た……」
でも、さすがは合気道初段の私。受け身をとったおかげで体は無事だった。だけど、愛車は見るも無惨な姿になっていた。細いフレームは、ぐにゃりと曲がり、前輪は明後日の方向を向いている。
「どえらいことしてくれたな、われ!」
頭上から降ってきたのは、雷のような怒声だった。見上げると、そこには眉間に深いシワを寄せた、頑固そうな顔立ちで背の高い男子が立っていた。詰襟の学ランと制帽が、真夏の日差しの下では暑苦しくて仕方ない。
「なに考えとるんじゃ、あんた! 危にゃあこと、この上にゃあ! 俺のテーユー号がどうにかなったら、どーしてくれるつもりだったんだ!」
にゃあにゃあ言う彼は、自分の黒光りする自転車を庇うように立ち、その頑丈なフレームを愛おしそうに撫でた。
「……てーゆー号?」
私が聞き返すと、彼はカッと目を見開いた。
「ツノダのテーユー号! あんた、そんなことも知らんのか! このフレームの重厚さを見ろ! 職人が丹精込めて組み上げた、正真正銘の実用車だがや! それに比べてあんたのは……なんじゃい、その針金みてゃあなのは」
彼の視線の先には、無傷でたたずむ
「見た目ばっかで、中身が伴っとらん証拠だがね。本物ってのは、俺のケッタマシーンみたいなのを言うんだわ」
ツノダ……? 聞いたことないメーカー。でも、なんかすごい自信とプライド。自分の自転車に、そんなに思い入れがあるんだ。
てか、てか、そんなことよりも。
「……けったましーん?」
思わず、その単語を復唱してしまった。
「そうだがや。俺の魂のこもった、ケッタマシーン。ツノダのケッタマシーンだがや!」
ダメ、連呼しないで。その響きが、私のツボに完璧にはまった。
「ぷっ……あは、あはははは! け、ケッタマシーンて! いつの時代の人なの! ウケる!」
私は腹を抱えて笑い転げていた。痛みも、混乱も、すべてが吹き飛んでいく。呆気に取られた顔で、彼が私を見下ろしているのが視界の隅に入ったけど、笑いが止まらなかった。
ひとしきり笑いが収まった頃、私はようやく状況を整理し始めた。名古屋城の外堀を走る、ありえない電車。走っている車の形は妙に丸っこい。道行く人々の服装も、見たことのないデザインばかりだ。
目の前には、ありえないくらいコテコテの名古屋弁を話す彼。時代錯誤な学ランに、聞いたこともないツノダの自転車への熱弁。
私の頭の中で、とんでもない結論が一つ、導き出された。
「……もしかして、私、タイムスリップ、した?」
頭の中はぐちゃぐちゃだった。家に帰れないかもしれない。お父さんとお母さんは? 明日からどうなるの? 不安で涙が滲みそうになる。
「たいむすりっぷ? なに、わけのわからんこと言っとるがや」
彼は、むすっとしていた顔をさらに険しくして、心底いぶかしむように私を見た。彼の視線は、私の着ている服装や、耳に残っていたイヤホンのコードにも向けられている。私の自転車の残骸と交互に見て、何かを考え込むように黙り込んだ。
ここで、私が未来から来たという可能性を、必死になって彼に説明した。わからないなりに、なんとなくは信じてくれたようだった。そして、彼とすり合わせしたことで、はっきりとわかった。
一九七〇年――昭和四十五年の名古屋に、私はタイムスリップしてしまったのだ。
「それで、あんた、どうやって帰るつもりだ?」
「どうやってって言われても……」
元の時代に帰る方法なんて、わかるわけがない。途方に暮れる私を見て、彼は「はぁ」と大きなため息をついた。
「考えても無駄やろ」
彼は、ぶっきらぼうにそう言うと、ご自慢のケッタマシーンとやらを、ずいと私の前に押し出した。目の前の彼は、私の混乱などお構いなしに、ただまっすぐ私を見ている。
「まあ、乗れ」
「え?」
「行く当てもないやろ。見たことにゃあ景色ばっかで、おもろいと思うぞ。昔の名古屋を、このケッタマシーンの特等席で見せたるがね!」
彼はそう言って、ニカッと歯を見せて笑った。その顔は、クラスメイトの男子にはない、武骨で、有無を言わせぬ強引さに満ちていた。まっすぐすぎる視線にドキッとして、思わず目をそらしてしまう。
勢い、としか言いようがなかった。
「……うん」
気づけば、私は頷いていた。
「よしきた! 俺は
「……
石橋くんは、カラッと笑うと、ひらりと自転車のサドルに跨った。そして、大きな荷台をポンポンと叩く。
「綾菜、しっかり掴まっとりゃあよ」
私は恐る恐る荷台に腰を下ろし、石橋くんのゴワゴワした学ランの裾をぎゅっと握った。彼の大きな背中から、私の知らない、青い夏の匂いがした。
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